勝っても負けても変わらないのは神宮球場の夕日

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先週時点で懸念されていたヤクルト・高田監督の退任は結局現実のものとなり、就任3年目のシーズン途中にして辞任という形でチームを去ることになった。ヤクルトの監督がシーズン中に交代するのは84年の武上監督以来のこと。繰り返しになるが、チームにとっては久しくなかった大不振である。残りのシーズンは小川淳司ヘッドコーチが指揮を取るというが、果たしてチームが浮上のきっかけをつかめるのか、ファンは依然半信半疑のままだ。

そんな折、筆者は5月27日の楽天戦を神宮球場で観戦。この日は34年ぶりとなる10連敗が目前に迫った試合であり、小川ヘッドの初陣ということで注目を集めた。

一塁側スタンドでたまたま隣の席になったのは、昭和40年代からヤクルト(当時はサンケイアトムズ)を応援されているという熱心なファン氏。ここ5〜6年は球場から足が遠のいていたが、チームの非常事態にあって急遽駆けつけたという。

こうした熱心な先輩ファンからよくお話を聞くのが、かつて「ヤクルトおじさん」として名を馳せ、2002年に亡くなった岡田正泰さんのお話だ。
「いつもあの辺にいて、一人で旗を振っていたんだ」遠い目でライトスタンドを眺めるファン氏によると、岡田さんが応援団長として認知されたのはヤクルトが初優勝を遂げた前後の70年代後半からのことで、それ以前は奇異の目線を向けられることが多かったという。

「昔はこれよりもっと弱かったんだよ。アトムズだった頃なんてさ、王や長嶋がいた時代だから日本中みんな巨人ファンだよ。神宮だって後楽園に入れなかった巨人ファンで9割以上埋まっちゃうんだ。そんな中なのにライトの芝生席でひとり旗振ってたんだから、ちょっと変わり者だったんだよな」そんなファン氏自身も昭和28年生まれだというから、「巨人・大鵬・玉子焼き」の時代にも巨人を応援せず、あえてスワローズファンであり続けたというのは変わり者の部類といえるかもしれない。

昭和30年代の弱小球団・国鉄スワローズ時代からひとり応援を続けた岡田さんのまわりには徐々に人が集まるようになり、彼が始めた東京音頭やビニール傘の応援は今や神宮球場の名物として定着した。無鉄砲に騒ぎ立てるのではなく、応援に工夫を取り入れることでファンを楽しませ、選手を勇気づけることを志向しつづけた、生粋の応援団長である。若松監督のもとでの優勝を見届けた翌年の2002年7月に71歳で永眠。その年限りで引退した池山隆寛はシーズン最終戦の試合後、マウンド付近での引退挨拶の締めくくりに突如ライトスタンドへ向きなおり「岡田のオヤジ、ありがとう!」と一声。今はもうそこに居なくなった岡田さんへの感謝の言葉を述べた。

さて、2010年の弱小球団・東京ヤクルトスワローズの試合は、先発村中ら投手陣の踏ん張りで1点リードのまま最終回を迎えるも、この回から登板の松岡健一が一死二塁から楽天・聖澤涼に中前打を許し同点に。その後は両チームともに決定打を欠き、延長12回裏ヤクルト最後の攻撃。二死一、二塁と攻め立てるがあと1本が出ず、試合はそのまま3-3で引き分けた。

結局、連敗ストップはならなかったもののひとまず10連敗は逃れ、ベンチ入り野手全員を使い果たすなど、久しぶりに熱のこもった試合展開となった。試合終了後、隣のヤクルトファン氏も、体をよじりよだれを垂らして口惜しがりながらどこか満足そうである。「いいんだいいんだ。明日こそは勝つぞ」

今日は負けても明日の試合がある。今シーズンがダメでも来シーズンがある。岡田さんもそう思いながらヤクルトが強豪チームになる過程を見届けたのだろう。そんなことを考えると、またライトスタンドの声援で強いヤクルトが帰ってくるような気がしたものである。

(写真:勝っても負けても変わらないのは神宮球場の夕日)

※毎週月曜日更新

■ 筆者紹介
松元たけし
野球は観るのもプレイするのも大好き。そして飲酒が生きがいの20代後半。
好きな球団はV9巨人と広岡監督時代の西武、そして野村監督時代のヤクルト。
運動不足が深刻化。バッティングセンターに行っただけで筋肉痛になりました。

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