20年ぶりツアー、30年ぶりMステ、NHKは5時間45分の特番 「中森明菜」の紅白出場を遮るものはない
明菜は80年代の顔
大晦日の「第77回NHK紅白歌合戦」の出場歌手選考が終盤に入る。10月にはアーティストへのオファーが始まる。中森明菜(61)は出るのだろうか。本人の了承が得られたら、出てもらうべきだ。50代、60代にとって明菜は、戦中・戦後世代にとっての美空ひばりさんや島倉千代子さんに近い存在だからである。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】
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【独占入手】「奇抜すぎるデザイン」…舞台裏で“素の表情”の中森明菜
50代、60代は1980年代に思春期、青春期を送った。いつも明菜の曲が流れていた。明菜の存在を抜きにして80年代は語れない。今も熱烈な支持者は数多い。
明菜の紅白初出場はデビュー翌年の1983年。歌ったのは6枚目のシングル「禁区」だった。以降、2002年までに7回出場する。2010年からは体調不良のため歌手活動を休止したが、14年には特別出演扱いで紅白に登場する。米国ニューヨークのレコーディングスタジオからの中継で、新曲「Rojo -Tierra-(ロホ ティエラ)」を歌った。これを最後に紅白には出場していない。

紅白の出場基準は、古くから「今年の活躍、世論の支持、番組の企画・演出」である。このため、その年のヒットの有無だけでは決まらない。美空ひばりさんは、ヒットに恵まれなかった年も含め、紅白に18回出場した。世論の圧倒的な支持があったからだ。
ひばりさんの歌は、敗戦で壊滅状態になりながらも立ち上がった日本人の心情を代弁した。1966年の出場時に歌われた「悲しい酒」などである。戦後の芸能界と浅からぬ関係にあった反社会的勢力との接点が疑問視されなかったら、もっと紅白に出ていたに違いない。
島倉さんは35回も出場した。やはりヒットがない年も出場したから、「からたち日記」「逢いたいなァ あの人に」「人生いろいろ」はそれぞれ3回歌った。島倉さんの歌が、戦後世代の青春や幸福観を表していたからだ。
今の時代なら、バブル世代や団塊ジュニアと共に歩んできた明菜の出場が求められるはず。無論、本人が承諾した場合の話である。
かつて明菜の人気、実力は抜きんでていた。公正な評価を売り物にしたTBSのランキング番組「ザ・ベストテン」(1978~1989年)で、最も多く第1位を獲得したのも明菜だ。その数は計69週にも上る。
日本レコード大賞を女性歌手として初めて2年連続で獲得したのも明菜だった。デビューからわずか3年しか経っていなかった1985年、「ミ・アモーレ」で最初のレコ大を受賞した。まだ20歳だった。
翌86年には「DESIRE-情熱-」で連続受賞する。♪まっさかさーまーにー 墜ちてDesire--である。50代、60代に限らず、知らない人はいないのではないか。
明菜のどこが優れているのか。デビュー時の明菜を担当した元ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)のプロデューサー、小田洋雄さんは、かつて筆者の取材に対し、こう語った。小林幸子(72)らも担当した実力者である。
「(明菜さんは)歌の表現力がずば抜けていた。自分を持ち、人を真似てなかった。歌謡界において、シャンソンの越路吹雪さんのように自分の世界をつくれる存在になれると思った」
小田さんによると、若手歌手のデビュー前の歌唱力はあまり問われないという。歌唱力はレッスンによって一定のレベルに達するからだ。それより重要なのは声と個性。工藤静香(56)らを担当していた元ポニーキャニオンのエースディレクター・渡辺有三さんも同様のことを強調していた。
一級の表現者
確かに明菜の声は魅力的だ。哀愁を帯び、艶がある。また、繊細さと強さを併せ持つ。よく伸びるのも特徴だ。もちろん、歌唱力も突出している。だが、圧巻なのはやはり表現力だろう。
16歳だった1982年5月のデビュー曲「スローモーション」は、しっとり歌った。声がよく伸びていた。作曲は来生たかお(75)、詞は姉の来生えつこ(78)の姉弟が手掛けた。えつこさんは筆者の取材に、制作経緯をこう語ったことがある。
「(詞のオーダー時には)普通のアイドルじゃなく、歌がかなりうまいから、簡単なメロディラインでなく、ちょっと難しくても全然構いませんと言われました」
詞の内容は、恋心を抱き始めた少女の胸中だった。当時を知る人なら、明菜が詞と曲のとおりの世界をつくり上げていたことを覚えているのではないか。この歌を歌うときの明菜は、いたいけな少女にしか見えなかった。
ところが、わずか約2か月後の同7月、まったくイメージの異なる2曲目の「少女A」がリリースされる。パンチの効いた曲調で、詞は不良と呼ばれる少女の心情。聴く側はその落差に衝撃を受けた。同じ作風を並べないのはワーナーの戦略だったが、えつこさんも「驚いた」という。
このときの明菜がつくり上げた世界は、世間に背を向け、大人に反発する10代。さらに4か月後の同11月の3曲目は、再び来生姉弟による「セカンド・ラブ」である。この曲での明菜は、大人未満と呼べる女性に成り切り、その恋心を情感豊かに歌い上げた。
恐るべき表現力だった。「静」と「動」の垣根をいとも簡単に乗り越え、1作品ごとに全く新しい世界を創出してみせた。
明菜は歌い方を自分で考えるのみならず、髪型や衣装、振り付けまで自分で創作した。「DESIRE-情熱-」におけるボブカット、和服風の衣装、身をくねらせる振り付けが代表例である。
この曲で出場した1986年の紅白では、シルバー色のボブカットに純白の和服でステージに上がり、観る側に鮮烈な印象を残した。やはり明菜は歌唱力だけの人ではなく、第一級の表現者だった。
試練の時期
一方で、人気絶頂期の1989年には試練を経験する。交際中だった近藤真彦(62)の自宅で自らを傷つけてしまい、猛批判を浴びた。特に、旧ジャニーズ事務所の怒りは大きかった。近藤はデビュー10周年だったが、その活動をストップせざるを得なかったからである。
この件に絡み、明菜にとって最も悲痛だったのは、デビュー以来ずっと所属していた研音から契約を解除されたことに違いない。明菜は孤立した。以降は混迷した時期もあった。
50代、60代にとっては、身につまされる話ではないか。年齢を重ねると、大小の差はあれど、誰もが失敗や蹉跌を経験するはず。また、明菜世代はバブル崩壊や平成不況、就職氷河期に直面するなど、良いことばかりではなかった。道に迷ったり、孤立を経験したりした人もいただろう。
ひばりさんが戦後を体現した人であるなら、明菜は昭和末期の熱狂と平成以降の混迷を味わう人たちの伴走者なのではないか。そう考えると、やはり紅白への出場がふさわしい人に思える。
しかも今年は、出場に向けての好条件がそろっている。まず7月1日から9月20日までのライブツアーを成功させた。ライブツアーは20年ぶりだ。
また、7月には約10年ぶりとなる51曲目のシングル「ごめんと、すきと、」をリリースした。やさしく静かな曲調で、大切な友人への深い思いを歌っている。おそらく、明菜の胸中の現在地なのだろう。
同17日にはテレビ朝日「ミュージックステーション」に30年ぶりに出演した。緊張したのか、マイクを持つ手が震えていたが、その後もツアーに臨んでいる。
さらに9月22日には、NHK-FMが「今日は一日“中森明菜”三昧」と題した5時間45分もの大特番を放送した。明菜の曲を流す一方、脚本家の野木亜紀子さん(51)らファンが登場し、明菜愛を語った。
明菜自身のトークも流された。10代女性のファンからのメッセージには「なんで、こんなおばあちゃんを知ってるのかな?」と、明菜らしく自虐的に答え、さらに「ありがとね、元気でやっているから心配しないでね」と静かに語りかけた。
番組の中では、ツアーの様子がNHKで近日中に放送されることも明菜本人から告知された。
紅白出場に不可欠なNHKとの関係は、極めて良好。出場を遮るものは見当たらない。
高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社。放送担当記者・専門委員として、1994年のNHK連続テレビ小説「春よ、来い」のヒロイン途中交代や、1999年のフジテレビ「愛する二人別れる二人」のやらせ問題などを特報する。2015年に毎日新聞出版へ入社し、サンデー毎日編集次長を務める。編集者としては「小池百合子都知事の真実」などを担当した。2019年に独立。元・放送批評懇談会出版編集委員。
デイリー新潮編集部
