ミレニアム懸賞問題「ナビエ‐ストークス方程式」のトンデモをAIが暴いた⁉
2026年9月8日、OpenAIは、開発中のAIモデルが数学の「ミレニアム懸賞問題」のひとつ、「ナビエ-ストークス方程式」の「存在と滑らかさ問題」を一部解決する証明を生成したと発表した。ほぼ時を同じくして刊行された『トンデモと科学のあいだ』(講談社選書メチエ)で、ナビエ-ストークス方程式を〈導出はトンデモ感満載だし、結果がトンデモにならない保証はないのだけれど、現実に非常によく合うため、現代でもそのまま使われている〉代物と評した田口善弘氏(中央大学理工学術院教授)は、この事態をどう見るのか。
ナビエ-ストークス方程式はトンデモなのか
『トンデモと科学のあいだ』という本を選書メチエから出させていただいた。ここでいうトンデモというのはいわゆるトンデモ本のトンデモではない。今主張したらトンデモとしか思えないこと(例えば、熱は物質である、とか)を昔の物理学者が真面目に信じていたり、逆に今では当然のこと(例えば、原子は存在する、とか)がかつてはトンデモ扱いされていた、というような逸話を紹介して、科学の道筋は真っすぐじゃないことを知ってもらおう、というような本だ。そして、こういうことは往々にして真面目な科学の歴史では大きくは扱われないことから「裏返しの科学史」と銘打たせていただいた。
その内容からして本書で扱ったトンデモは白黒がはっきりついている(昔は正しいと思われていたが、今は間違いだとわかっているか、その逆)ものが多いが、いくつかグレー(今は正しいと思われているが将来は危なそうなもの、あるいは、その逆)も入れさせていただいた。そのグレーの例が流体の方程式として有名な「ナビエ-ストークス方程式」である。
「エイヤッ」で作って何百年も重宝された方程式
この式は飛行機から新幹線の空気抵抗まで多くの工学的な応用に活用されており非常に信頼性が高いのだが、驚いたことに、この方程式が正しいという数学的な証明は欠けていた。よく考えてみればわかるように、この世に流体なるものは存在せず、あるのは原子や分子がたくさんあつまって連続体に見える、というものだけである。粒子の集合が流体になるのはなぜか、はちゃんとわかっておらず、ナビエ-ストークス方程式はある意味、物理学者が直観で「エイヤッ」と作った式なのだ。その割には破綻せず、何百年もの間、重宝されてきたという驚くべき式なのだ。
当然、ナビエ-ストークス方程式が数学的に正しいか、というのは大問題だと認識されており、この方程式に「異常な解」がないことを証明することに賞金がかかっていた。この賞金は「ミレニアム懸賞問題」と呼ばれており、ミレニアム=千年紀という名前通り、解決に千年単位で時間がかかることが予想される困難かつ重要な問題だった。ミレニアム問題は7つあり、その全てが2000年にクレイ数学研究所によって提案され、解決者には100万ドルの賞金が与えられる。
なぜこの証明がこれほど重視されるかというと、物理的に正しい式なら現実に起きないような異常な解をもっていてはいけないはずだからだ。 この難問に数学者や物理学者が延々と地道に挑戦を続けていて、なんとかその答えを得られそうな雰囲気がここ数年漂っていた。で、勿論、それを知っていたから僕はナビエ-ストークス方程式をトンデモの候補に入れておいたわけだ。
生成AIがトンデモを証明してしまった⁉
その答えは思いがけないところからやって来た。なんと生成AIがシンギュラリティのある解の存在を証明してしまったのだ! さすがの僕もまさか生成AIが人間に先んじてナビエ-ストークス方程式がトンデモだったことを明らかにしてしまうと思わなかったので度肝を抜かれてしまった。
だが、続報はあまり後味のよいものではなかった。まず、どうやらこの問題に答えが出そうだと知ったAI大手が採算を度外視して未公開のモデルに破格の資源をつぎ込んで力技で答えを出してしまったようなのだ。その結果が本当に正しいのかどうか、厳密には人間の検査を経なくてはならず、かつ、その検査をパスしても検査した人間には何の栄誉もないというとんでもない事態になってしまった。さらにはこの研究をしていた科学者が生成AIを使っていたことから、研究プロセスがリークされた疑いまで取り沙汰されている。
人間はトンデモ科学をする自由さえ失ったのか
トンデモは人間が犯した間違いだから絵になる。今は正しいことを昔は間違いだと思っていたり、その逆だったりするから面白い。歴史に名前が残る科学者たちも所詮はただの人間であり、神ならぬ身だったことを知ることができるから面白いのだ。
だが、間違いを正すのが人間じゃなく生成AIだったらどうだろう? 『生成AIが犯した10の間違い』なんて本を書いても売れるだろうか? いや、そんな本は誰も買わないだろう。
人間はトンデモ科学をする自由さえ失ったのかもしれない、と思わせられた一件だった。そういう意味では本書『トンデモと科学のあいだ』は、人類史上最後の「裏返しの科学史」本になるかもしれない。だって生成AIが全ての間違いを即座に正してしまったら、間違ったことを信じて科学することなんかできない。それこそトンデモない時代がやってきたのかもしれない。
