【評伝】張本勲さんは「2度、命をなくすところだった」 引退するまで深夜300本の素振りで追い求めた「理想」 心からの「あっぱれ」を贈りたい
プロ野球歴代最多の通算3085安打を放って「安打製造機」の異名を誇り、「球界のご意見番」として人気を集めた張本勲(はりもと・いさお)さんが9日に都内の病院で死去していたことが10日、分かった。86歳。
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栄冠に彩られた張本さんの野球人生は、厳しい境遇を不屈の精神で乗り越えたものだった。広島市出身の在日コリアン。「私は2度、命をなくすところだった」と振り返った。
1度目は5歳の時の原爆だ。自宅は爆心地から約2キロ。標高70メートルの比治山の陰にあり命拾いしたが、勤労奉仕に出ていた姉を失った。容姿端麗で自慢の姉は、全身が焼けただれた姿で息を引き取った。
被爆者健康手帳とともに現役時代を送った。年に1度の健康診断が怖かった。「原爆症がいつ出るか分からない恐怖がある。恐怖を引っ張る我々にとって、戦争は死ぬまで終わらない」。60歳の頃から被爆体験を後世に伝えるため、積極的に発信した。
2度目は浪華商時代の差別体験。チームは甲子園に出場したが、自身は暴力事件を理由に処分され、夢舞台に立てなかった。後に「部長が韓国籍の私のことを嫌っていたそうです」と述懐した。電車に飛び込もうと思い詰めたが、母が制止する声が聞こえた気がして、思いとどまった。
「トタン屋根の6畳しかない家から脱出したい。母親にいい思いをさせてやりたい」。その一心でバットを振り続けた。4歳の頃のやけどの影響で、右手が不自由だった。東映入団時、それを知らない松木謙治郎打撃コーチから「お前は右手の引きが弱い」と指摘された。右手を強化するマンツーマン特訓が始まった。松木コーチがトスした球を右手一本で打ち続けた。
「1日でも休んだら、五体満足なヤツには勝てない」。引退するまで、自宅や遠征先では深夜、300本の素振りを自らに課した。部屋を真っ暗にして、振った後に左耳に残る「ビュッ」という音を聞くためだった。「振ったと同時ではダメ。振った後から聞こえるのが理想なんだ」。血のにじむような努力の末に、3085安打は生まれた。
3000安打達成時には試合が中断され、グラウンド上で異例のインタビューが行われた。張本さんは感極まった。「この不自由な手でよくここまで…。自分自身を褒めてやりたい」。波乱万丈の人生。心からの「あっぱれ」を贈りたい。
