自決のために拳銃をかまえた部下に「待て!」…終戦直後に始まった「秘密作戦」の真実

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昭和20(1945)年8月15日、天皇自ら終戦を告げる「玉音」が放送された。大本営は8月16日、自衛をのぞく戦闘行動を禁止し、8月22日0時をもって、支那方面艦隊をのぞく全ての部隊にいっさいの戦闘行動を禁じた。だが、この時点では連合軍はまだ日本に進駐しておらず、その出方について不透明な点もあった。なかでも問題視されたのが、「国体の護持」(天皇を中心とする国家体制)がどうなるか、ということである。そこで日本陸海軍は、それぞれ精鋭部隊をもって秘密裏に「皇統護持」のための作戦を発動した。

終戦直後の、新たな「秘密作戦」の始まり

月齢11の月の光が差し込む薄暗い道場の畳の上に、草色の第三種軍装に身を固めた海軍軍人が23名、威儀を正して座っている。一人一人の傍らには軍刀と、鈍く光る拳銃が置かれている。上座には、第三四三海軍航空隊(三四三空)司令・源田実大佐、その傍らには飛行長・志賀淑雄少佐。残る21名の目は、司令の一挙一動に注がれている。

昭和20(1945)年8月19日、午後8時過ぎ、海軍大村基地の裏手、福重地区の山の中ほどにある健民道場。彼らは、源田司令とともに自決するためにここに集まったのだ。

源田司令が、

「残念ではあるが、ついに刀折れ矢尽きた。私は、護国の大任をはたせなかった責めを負い、自決する。命をともにしてくれることを嬉しく思う」

と、簡潔な自決の辞を述べると、要務士・中島大次郎少尉、渡辺孝士少尉の手で恩賜の酒が盃に注がれ、別杯の儀式が行われた。拳銃で自決するときは、こめかみを撃つと手が滑って仕損じることがあるので、銃身を口にくわえて頭を打ち抜くよう、海軍では教えられている。志賀飛行長が「各自拳銃に弾丸を込め」と命じ、各々が自分の拳銃に弾丸を装填する。そして源田が拳銃を手に取り、部下たちもこれに続こうとしたとき、

「待て!」

と、低いが気迫のこもった声で、志賀が制した。

「司令よりお話がある」

一瞬の沈黙のあと、源田がふたたび口を開いた。

「私はいま、命も名もいらぬ同志が欲しかった。試すような形になった事をお詫びする。われわれは、ある命令により、死以上に勇気のある困難な重大任務に入る。この任務は生やさしいことではない。達成に何年を要するか、配置によっては土地の職業人に成りきり、自活覚悟を求める。作戦は今夜直ちに発動する。ほかの隊員からは明日逃亡の誹りを受けることも覚悟し、もちろん他言無用と心得て、作戦命令の成功まで、肉親友人にも絶対秘密を洩らさぬ誓いを求める」

--これが、戦争終結後、三四三空が任じることになった新たな「秘密作戦」の始まりだった。

日本海軍最後の切り札だった歴戦のパイロットたち

三四三空は、軍令部参謀として航空特攻を積極的に推進してきた源田實大佐の、〈精強な戦闘機隊をもって敵機を片っ端から撃ち墜とし、制空権を奪回して戦勢回復の突破口に〉との構想から、新鋭戦闘機紫電改を主力兵器として昭和19(1944)年12月、編成された、日本海軍の最後の切り札的航空隊だった。

本拠地を愛媛県の松山基地(現・松山空港)に置き、司令・源田実大佐、副長・中島正中佐(のち相生高秀少佐)、飛行長には、海軍航空技術廠で、テストパイロットとして紫電改を育て上げた志賀淑雄少佐がそれぞれ着任した。

戦闘機隊の主力は、戦闘第七〇一飛行隊(飛行隊長・鴛淵孝大尉)、戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長・林喜重大尉)、戦闘第三〇一飛行隊(飛行隊長・菅野直大尉)の三個飛行隊で、それに偵察機「彩雲」で編成された偵察第四飛行隊、錬成部隊として戦闘第四〇一飛行隊が加わった。

3人の飛行隊長は、いずれも源田司令みずから調査、指名したつわもの揃いで、新人搭乗員も多いが、中核になるのは歴戦のパイロットたちだった。志賀少佐の回想--。

「士気はきわめて旺盛でした。松山に着任したとき、若い三人の隊長--鴛淵25歳、林24歳、菅野23歳--に、紫電改や空戦についての注意事項を教えようとしたら、みんな馬耳東風、全然相手にしてくれない。私は当時まだ30歳、まだまだ飛ぶつもりでいたんですが、これは俺の出番はないな、現場監督に徹しようと。鴛淵は知将、林は仁将、菅野は勇将、その異なった個性が、みごとなチームワークを生んでいました」

三四三空の初陣は、昭和20年3月19日のことであった。

「古来、これで十分という状態で戦を始めた例はない。目標は敵戦闘機」

源田司令の訓示である。

この日、呉方面に敵機動部隊来襲の報に、満を持して発進した紫電改54機、紫電7機は、圧倒的多数の敵艦上機群と空戦、52機の撃墜戦果を報告した。損害は16機(敵発見を報じたのちに撃墜された偵察機1機をふくむ)、地上大破5機だった。空戦に戦果誤認はつきもので、じっさいには敵味方の損失はほぼ同じであったという戦後の検証もあるけれど、敗色濃厚なこの時期としては、かなりの善戦といえる。

熾烈な戦いに、次々に斃れていく隊員たち

「この日の空戦は、地上からもよく見えました。敵機が来たときには、こちらはすでに発進を終え、ちょうどよい間合いで待ち構えている。司令と並んで、始まりますよ、と見ていると、一撃するごとに敵機が調子よく墜ちてゆく。『これは開戦時の再現ですよ』と司令に言った記憶がありますが、結局、そのあとが続かなかった」(志賀少佐)

善戦したとはいえ、この日、米海軍の空襲部隊は呉軍港その他に大きな損害を与え、攻撃目標を完全に達成している。

「目標は敵戦闘機」という源田司令の簡潔な訓示は一見カッコよく見えるけれども、じっさいには呉軍港を空襲から守る防空戦闘ははなから放棄していた。圧倒的多数の敵機に対して、目標を絞ったこんな戦い方しかできなかったのが当時の日本海軍戦闘機隊の限界であったともいえる。三四三空の隊員たちの奮闘に水を差すものではないけれど、この日、敵機は三四三空に撃退されたわけではなく、「用が済んだから帰った」に過ぎない。

4月に沖縄戦がはじまり、「菊水作戦」と称して大規模な特攻作戦が実施されるようになると、三四三空も沖縄方面の制空戦に駆り出された。並行して、本土上空に来襲する米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29の邀撃、海上に不時着水した敵パイロットを救助するため飛来する飛行艇狩りなど、本来の任務を超えて酷使されるようになる。そして、戦局の変化にともない、三四三空の主力は鹿児島県の鹿屋、国分、長崎県の大村と移動を重ねた。米軍機の空襲は間断なく続き、熾烈な戦いに、隊員たちは次々と斃れていった。

「4月21日に林喜重、6月22日にその後任の林啓次郎、7月24日に鴛淵、8月1日に菅野と、飛行隊長の戦死が続き、6月頃になると飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなった。燃料も足りない。機銃弾も、戦前にスイス・エリコン社から輸入したもののなかには膅内爆発(銃身内爆発)するおそれのあるものがあり、使用厳禁、となっていましたが、それが大村の第二十一航空廠の倉庫から間違って出てしまった。菅野が戦死したのはそのためでした……」

菅野大尉は8月1日、屋久島北方で、米陸軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24の編隊を攻撃中、20ミリ機銃の膅内爆発で主翼に大穴が開き、空戦場から離脱して単機になったところを、ノースアメリカンP-51戦闘機に撃墜されたと推定されている。

【後編を読む】「お前、俺に命をくれるか」…終戦直後の「紫電改」部隊に託された極秘の「皇統護持作戦」

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