「ベレンコ中尉亡命事件」から50年 MiG-25が暴いた日本の防空と危機管理体制の大穴は塞がれたのか

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1976年9月6日

今から50年前の今週、1976年9月6日、ソ連防空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉はウラジオストク近郊でMiG-25「フォックスバット」に乗り込み、平凡な訓練飛行を冷戦史上最も劇的な亡命事件の一つへと変えた。ソ連のレーダーを避けるため低空飛行を続け、日本海を横断して日本の領空に侵入した。当初の目的地だった千歳基地を見つけられなかったため、函館の民間空港に危険な着陸を敢行し、滑走路をオーバーランして機体を損傷した。

わずか数分のうちに、日本は四つの問題を抱えることになった。深刻な防空上の脆弱性が露呈したこと、武装したソ連軍将校が米国への亡命を求めたこと、ソ連が最高機密としていた軍用機の一つが民間空港に鎮座していたこと、そして憤激した超大国が人と機体の双方を直ちに返還するよう要求したことである。

この事件は、米国にとって情報面で思いがけない大収穫となった。西側の分析官は、それまでMiG-25を革命的な「超戦闘機」になり得る機体と見ていた。音速のほぼ3倍で飛行し、超高高度で作戦を遂行できたからである。その登場は、米国のF-15開発を促す一因にもなっていた。

しかし、機体を調査した結果、より実態に即した評価が得られた。MiG-25は、高高度を飛ぶ爆撃機や偵察機を撃墜するために設計された、強力な特殊要撃機であった。一方で、機敏な制空戦闘機ではなかった。その驚異的な速度は、運動性、航続距離、エンジン寿命を犠牲にして得られたものだった。機体にはステンレス鋼が多用され、電子機器の多くには、西側の分析官が予想していた先進的な半導体システムではなく真空管が使われていた。

ベレンコ自身も、ソ連の軍事ドクトリン、訓練、即応態勢、防空手順に関する膨大な情報を提供した。当時のジョージ・H・W・ブッシュCIA長官は、この機会を「情報の宝庫」と表現した。

レーダーはMiG-25を捉えられなかった

しかし日本にとって、最初に明らかになった事実は面目を失わせるものだった。日本の防空システムが機能しなかったのである。

日本のレーダーは国籍不明機を探知し、航空自衛隊は千歳からF-4EJファントム2機を緊急発進させた。しかし、ベレンコが低高度まで降下すると、地球の曲率と周囲の地形のため地上レーダーは機影を見失った。F-4EJは一時MiG-25を捕捉したものの、接触を維持できなかった。当時の機上レーダーは下方捜索能力が限定的で、低空飛行する航空機を地表からのクラッターと識別することが困難だった。

私の知人に、当時の航空自衛隊の戦闘機パイロットがいる。彼に数年前、この事件についての話を聞いた。彼は笑いながら、こう説明した。「われわれが、彼がいると思っていた高度まで上がったときには、彼はもうわれわれの横を飛び去り、はるか先に去って行った」

したがって日本がMiG-25の所在を把握したのは、同機が着陸した後だった。もしベレンコが亡命者ではなく攻撃者だったなら、壊滅的な結果を招いていたかもしれない。

縦割り行政では対処できない

地上でも同様に深刻な弱点が表面化した。日本には、このような緊急事態を統合的に処理する仕組みがなかった。防衛庁(事件は防衛省発足の31年前に起きた)は、領空侵犯と軍用機への対応を担ったが、陸上・海上・航空の三自衛隊の間では、責任の所在をめぐって見解が大きく分かれた。警察は、不法入国と銃器に関する違反容疑でベレンコを逮捕した。民間空港は運輸省の管轄だった。法務省は出入国管理上の問題に直面した。外務省はソ連と米国からの要求に対応した。税関当局は「輸入」されたとして航空機について管轄権を主張し得る一方、その返還は輸出管理上の問題も提起した。

これは、行政組織の縦割りが最も危険な形で現れた例だった。各省庁はそれぞれ権限の一部を有していたが、対応全体を明確に指揮する機関は存在しなかった。日本の法秩序は平時の行政運営を前提としており、ソ連の戦闘機が突如北海道に出現する事態を想定してはいなかった。

警備もまた難題だった。日本政府関係者は、機体の機密が調査される前に、ソ連が奪還または破壊を試みる可能性を懸念した。函館空港は警察が管理しており、平時に自衛隊が民間施設を防護する権限は限られていた。部隊はソ連による作戦の可能性に備えて密かに準備を進めたが、これは法的権限、文民統制、交戦規定をめぐる難しい問題を提起した。

外交面で、日本は東西双方から圧力を受けた。ソ連は、ベレンコとの面会と本人の送還、そして一切の調査を行わずに機体を直ちに返還することを要求した。日本はソ連代表者とベレンコの面会を認めたが、ベレンコは米国への亡命を希望していることを改めて確認した。米国は亡命を受け入れ、彼は9月9日に日本を出国した。

米国は機体への接触も求めた。しかし日本は、事件に対する主権的な管理を放棄したと受け取られかねないため、MiG25をそのまま米国に引き渡すことはできなかった。他方、直ちにソ連へ返還すれば、前例のない情報収集の機会を失い、米国という唯一の同盟国を憤慨させることになった。

日本政府は、慎重に均衡を取った方針を選択した。機体を日本の管理下に置いたまま、米軍のC-5A輸送機で航空自衛隊百里基地へ移送した。日本は機体を分解・調査するため、「契約業者」(米国の情報専門家ら)を雇用した。最終的に日本は11月15日、約30個の木箱に収めたMiG25を日立港からソ連へ返還した。ソ連は機体の損傷や部品の欠落を訴えたが、日本は着陸、輸送、滑走路の損傷によって生じた費用を請求して対抗した。

事件を奇貨として

最も明白な軍事上の教訓は、低空侵入機を探知する必要性だった。この事件は、日本が地上レーダーの限界を超えて下方を監視できるE-2Cホークアイ早期警戒機の導入を進める契機となった。日本はさらに、より優れた要撃能力と下方捜索能力を備えたF-15戦闘機を導入し、その後F-4部隊の能力も向上させた。

より根本的な教訓は、危機における政府の統治能力に関するものだった。国家安全保障上の緊急事態は、省庁の管轄区分に従ってはくれない。情報、警察、外交、出入国管理、運輸、防衛は瞬く間に一体の問題となる。日本には、より明確な指揮体制、省庁間の連携強化、そして当局者が場当たり的な対応を迫られる前に迅速な行動を可能にする法制度が必要だった。

筆者は、当時の坂田道太・防衛庁長官についての伝記を翻訳し、出版したことがあるが、この事件を在任中で最も重要な出来事の一つと位置づけている。彼は事件への対応だけでなく、党内から倒閣の動きにさらされていた政治的に弱い三木武夫首相、そして国会での厳しく、ときに不公平な追及とも格闘しなければならなかった。

最後に、この事件は同盟管理のあるべき姿を示した。日本は主権を守り、ソ連の威圧に屈せず、それでいて米国と緊密に協力した。日本は米国政府の受動的な道具として行動することもなく、戦略的に極めて重要な情報への同盟国のアクセスを拒むこともなかった。

MiG-25事件が一種の恩恵となったのは、ベレンコが亡命者として、相対的に「平和な形」で飛来したからである。日本は人命という代償を払うことなく、深刻な弱点を発見する機会を得た。この事件が今に残す教訓は、主権を支えるものが法律、レーダー基地、有能な省庁だけではないということである。必要なのは、危機を認識し、指揮系統を確立し、相手に事態の帰趨を決められる前に、政府が一体となって行動する能力である。

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