家族葬でも105万!「葬式は遺族の悲しみを癒やす」は本当か。「葬式も遺骨も要らない」という選択
抗議文が送られ、つるしあげをくらった著者
80代に入った筆者の両親が墓じまいをした。母は子どもの頃に祖父母の家に養女に入ったが、苗字を継がなかったので、結婚前の姓は母の代で終わり。祖父母の眠る墓を閉めたのだ。
東京と地方を何度も行き来して、費用もそれなりにかかったようだ。
筆者は3人きょうだいの長女だが、下に弟が二人いるので、姓や墓を継ぐという意識は薄い。だが、還暦近い夫は長男で、80代で元気溌剌の義母は、夫に墓を託したいらしい。
ということは私も墓守に?
義母は実家近くの寺の檀家で、年間の維持費に加え、盆暮れ、法要には手厚くお布施を出している。まさか、同じことを私たち夫婦も求められる?
そんなことをつい考えたのは、『無縁仏でいい、という選択 墓も墓じまいも遺骨も要らない』(島田裕巳著/幻冬舎新書)を読んだからだ。
著者の島田裕巳氏は、これまでも『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)や『0葬--あっさり死ぬ』(集英社文庫)などで、葬式不要論や遺骨を引き取らない、墓をたてない考えを披露してきた。そのため、仏教宗派の研修会からはボイコットされ、葬儀団体から抗議文が送られ、仏教宗派のシンポジウムではつるしあげをくらった。
だが世の中の流れは、島田氏側についたようだ。島田氏の『葬式は、要らない』刊行以降、葬式の簡略化は一気に加速したという。
なぜか。
島田氏は、「葬式を出した人たちは、金がかかるうえに、様々な面倒が起こることに嫌気がさしていた」と書いている。
一般葬で161.3万、家族葬で105.7万
葬式にかかる費用は、確かにわかりづらい。コロナの前ではあったが、義父の葬儀は、「家族葬だったのに、なんだか、すごくかかったわよ」と聞いた。
本書には、「葬式を出したとき、これは一般葬ということになるが、その費用は3つに分けられる。葬祭業者に支払う分、飲み食いや香典返しなど専門の業者に支払う分、そして寺院に支払うお布施の部分である」とあるが、それぞれ、あるいは合計どれくらいになるのかは、自分が「葬式を出す側」になってみるまでは見当もつかない。
その昔、初めての葬式に右往左往する人々の姿をコミカルに描いた、伊丹十三監督の『お葬式』という映画を、噴き出しながら見た記憶があるが、いざ自分が「出す側」になれば、まったく笑いごとではないだろう。
結婚式やお披露目会などとは異なり、葬式は突然やってくる。近しい人の不幸なら気も動転するに違いない。業者の「言い値」が正しいかどうかなど二の次となるのも無理はない。
が、一般葬で161.3万、家族葬で105.7万(どちらも本書より抜粋)も払うとなれば、全てが終わった後に、「金がかかるうえに、様々な面倒があった」と嫌気がさすのは、当然のことのように思える。
だったら、なぜ私たち多くの日本人は、葬式をやるのか。葬式は、いったい誰のために行われるものなのか。
孤独死・無縁死・無縁墓の増加や墓じまいの高額な離檀料が問題になり、墓や遺骨を持て余す今の時代、「そんな葬式に意味はない」と『無縁仏でいい、という選択 墓も墓じまいも遺骨も要らない』の著者・島田裕巳氏が考える理由を、本書より抜粋して掲載する。
「葬式は遺族の悲しみを癒やす」と訴える僧侶
『葬式は、要らない』では、財団法人(現・一般財団法人)日本消費者協会が2007年に行った「第8回葬儀についてのアンケート調査」をもとに、葬式の費用が全国平均で231.0万円であることを示した。
内訳となるそれぞれの平均額は、葬儀社へ支払う葬儀一式費用が142.3万円、通夜振る舞いや香典返しなどに使われる飲食接待費用が40.1万円、寺などへの布施・心付けが54.9万円となっていた。内訳の合計が費用全体の平均とずれるのは、個別に平均額を出しているからである。以下同様である。
それが、2010年以降になると、葬式にかける費用は減少していく。
同じ日本消費者協会の2013年の調査では、全体の費用が188.9万円に下がっている。葬儀社には122.2万円で、飲食等が33.9万円、そしてお寺関係が44.6万円だった。
しかし、まだこの時点では、葬式の簡略化は十分には進んでいなかった。
鎌倉新書という葬祭関係の企業が2024年に行った調査では、費用の平均額は118.5万円と、2007年の調査の半分近くになっている。ただ、そこには、布施などお寺関係の費用は含まれていない。費用の区分が、日本消費者協会とは異なっており、葬儀社へが75.7万円、飲食費が20.7万円、香典返しが22.0万円だった。
さらにこちらの調査では、葬式の形式別に平均の費用を出しており、一般葬が161・万円、家族葬が105.7万円、一日葬が87.5万円、直葬・火葬式が42.8万円となっている。葬式の簡略化は、家族葬など金のかからない形式を増加させたのだ。
葬式に対する需要がなくなってきた中で、仏教式の葬式を行うことが、 「グリーフ・ケア」に結びつくという主張がなされるようになってきた。グリーフ・ケアとは、かけがえのない故人を失った悲しみを癒すための援助のことをさす。
葬式を営めば、悲しみを表明することが可能になり、それは遺族が故人の死を受け入れることに結びつく。さらには、葬式の中で故人を思い出し、感謝の念を伝えることで、死者と新たな関係を結ぶことができるというのである。
たしかに、葬式を営むことが、けじめになる面はある。だが、グリーフ・ケアの主張がどこか怪しげに思えるのは、それを唱えるのが、もっぱら葬式によって収入を得る僧侶や葬祭業者などだからである。僧侶や業者がボランティアで葬式を営んでくれるわけではない。遺族が金を支払うことにかわりはないのだ。
要は、葬式はいったい誰のために行われるものなのかということである。
死者を成仏させるためには、なんとしても追善供養が必要だという信仰があるのなら、それは、故人のためになり、ひいては遺族のためになる。遺族もまた、亡くなれば、子孫によって供養される対象になっていく。
しかし、今でもそうした仏教への信仰を持ち続けている人はいるものだろうか。仏教式の葬式で導師をつとめる僧侶も、本気でそれを信じていないのではないだろうか。
死は惜しむべきものではない
以前の社会であるなら、平均寿命は短く、若くして亡くなる人たちは少なくなかった。乳幼児の死亡率は高かったし、戦乱や戦争といった事態も起こった。結核など、長く死の病として怖れられ、若くして命を落とす人も珍しくなかった。
ところが、今は違う。多くの人たちが長生きできるようになった。厚生労働省が2024年7月26日に発表した「令和5年簡易生命表」によると、2023年の平均寿命は次の通りだった。
男性:81.09歳
女性:87.14歳
前年と比較して、男性は0.04年(14.6日) 、女性は0.05年(18.3日)上回っており、3年ぶりに男女とも平均寿命が延びている。
したがって、80歳まで生きられるのは珍しいことではなくなり、90歳、さらには100歳まで生きる人の数も相当に増えている。2024年9月1日の時点で、100歳以上の人の数は9万5119人となっている。
これだけ長生きできるということは、それぞれの人たちは「大往生」を遂げたということである。人生の半ばで命を落としたというわけではない。十分に生き、生をまっとうしたのだ。
高齢で亡くなる人たちにとって、死は惜しむべきものではなくなっている。それは、本人にとっても、遺族にとっても同じだ。
そうした状況になってきた以上、追善ということは完全に意味のないものになっており、その価値を信じることは難しくなっている。しかも、追善のための布施は、寺や僧侶に対してなされるもので、もっぱらその経済活動を支えるためのものなのである。
葬式においては、僧侶は導師として丁重な扱いを受ける。葬斎場では、導師のため立派なスリッパが用意されていたりする。地方によっては、葬式の後に、導師となった僧侶を酒食によって丁重にもてなすことが慣習になっているところもある。葬式が営まれる中で、もっとも上位に位置づけられるのが僧侶で、葬儀と告別式とが区別される場合、僧侶が退場してからが告別式になる。遺族や参列者は退場する導師を見送り、最後は布施を渡すのだ。
あたかも葬式の主役は、故人や遺族ではなく、導師であるかのようにも見える。
追善に意義を認める信仰を持たないのであれば、仏教式の葬式に意味を見出すことは難しい。戒名を授かることにも意味はないし、布施をすることにも意味はない。
もう意味のないことを続ける必要がないと、多くの人が感じるようになってきたからこそ、葬式の簡略化は著しく進んだのだ。不況や感染症の流行などの外的な要因が簡略化を加速させた面はあっても、本質的には、仏教式の葬儀は不要だという感覚が広まってきたからだ。
葬式の簡略化が進む前の時代には、身内だけで葬式をすると、後日、そのことを知った故人の友人や知人が自宅にやってきて、「せめて線香だけでもあげさせてくれ」 「せめて墓参りだけはさせてくれ」とせがまれ、かえって面倒なことになるとも言われていた。
だが、今や、葬式に招かれなかった友人や知人が、後日、線香をあげにきたり、墓参りにきたりすることはほとんどなくなった。葬式を身内だけで済ませたとすれば、それで文句が出ない時代になっている。少なくとも、都市部ではそれが当たり前になってきた
仏教式葬式を選ぶ意味も必要もなくなった
今、一つ明確になっているのが、直葬、家族葬、一般葬のうちどのタイプの葬式をするかで、仏教式を選択するかしないかが自ずと決まってくるということである。
葬式の中で仏教式が選択される割合がどの程度になるのか、それを調査したものはあまりないのだが、むすびす株式会社という葬儀業者が、自分たちで行った葬式について調べたものがある( 「無宗教葬が増えているのは仏教離れが原因!? コロナ禍における火葬式の増加と無宗教葬の因果関係」PRTIMES2021年11月25日)。
首都圏1都3県での施行事例だが、それによれば、2017年から2021年の間に、仏教式ではない無宗教式が増えているという結果が出ている。
2017年には無宗教式が19パーセントで、「導師手配」となっているので仏教式と考えていいだろうが、それが81パーセントだった。
その後、無宗教式の方は、24パーセント、25パーセント、29パーセントと年を追うごとに増加し、2021年には34パーセントにまで達している。2017年の19パーセントと比較するなら、無宗教式は急増している。
この調査では、葬式の形態別に無宗教式の割合を示している。それぞれ2019年の初めから月別に示されているのだが、家族葬では、無宗教式はほぼ10パーセントを下回っている。中型葬というのは、一般葬のことと考えられるが、その形式だと、0パーセントという月も多く、27パーセントという月がひと月だけあった。数字のふれ幅が大きいのは、一般葬の件数が少ないからに違いない。
要するに、一般葬はもちろん、家族葬でも仏教式が選択されることが依然として多いのだ。
となると、無宗教式が増えていることと矛盾するように思われるかもしれないが、その数を押し上げているのが火葬式、つまりは火葬場に直行するだけで済ませる直葬の増加である。火葬式だと、無宗教式が平均6割を超えている。
この調査では、火葬式、家族葬、一般葬の数については示されていないので、はっきりしないところはある。だが、家族葬や一般葬ではほとんど仏教式でも、火葬式ではその割合が相当に低くなり、火葬式が増えた結果、無宗教式が急増していることになる。
つまりは、葬式の「仏教離れ」が進行しているわけである。
僧侶は呼ばなかった母親の葬式
我が家でも、2021年4月に母親が93歳で亡くなったときには、直葬で行い、僧侶は呼ばなかった。
ただ、家族葬や一般葬となると、まだまだ僧侶を呼ぶことが少なくない。もちろん、そこには信仰がかかわっているわけだから、他人がとやかく言う必要もないのかもしれない。だが、特定の檀那寺がなく、どこの寺の檀家にもなっていないのであれば、仏教式を選択する必要はないはずだ。檀那寺との関係については、次の章で詳しく述べる。
檀那寺があれば、その寺の住職に導師を依頼する。檀那寺がない場合には、葬儀社に紹介してもらって、見ず知らずの寺の住職に導師をつとめてもらう。たいがい、その住職から戒名を授けられるであろう。
しかし、檀那寺の住職でないなら、導師として呼ぶ必要はないし、まして戒名を授かる必要はない。戒名を位牌に記し、それを仏壇に祀るということはあるかもしれないが、檀那寺がなければ、年忌法要などやることもないはずだ。
仏教式の葬式をしなくても、困ることはまったくない。この章で見たように、葬式の歴史を遡れば、それが、寺院や僧侶の生活の維持のために作り上げられてきたものであることが明らかになる。
私たちはもう、葬式仏教から完全に脱するべきところに来ている。
ただ、それを妨げているものがあるとしたら、それは墓である。墓は仏教式の葬式を選択することにも深く結びついている。
次の章では、墓の問題をどう解決していくべきなのかを考えていきたい。
◇仏教式の葬式をやらなくても困ることはなく、「葬式仏教から完全に脱するべきところに来ている」。にもかかわらず、そうなっていないのは、それは墓が原因だと、島田氏はいう。墓が葬式を選択させるとは、どういうことか。
後編「檀家でもないのに墓を建て、葬式に161万円、墓じまいも高額。『無縁仏でいい』という選択が注目される理由」では、副題にもなっている、「墓も、墓じまいも、遺骨もいらない」について、本書の内容から検証したい。
