1946年10月、衆院本会議で憲法改正法案が可決(写真:共同通信社)


 高市政権が憲法改正に向けて邁進しています。日本国憲法の制定過程における最大の問題は、その前提となる東京裁判が不徹底で、“あの戦争”の総括が足りなかったこと、そして、憲法制定までのスピードがあまりに速かったことだと筆者は考えています。

 こんな問題がありながら、今まで憲法を改正できなかったのは、「平和志向」をめぐり国論が完全に二分されたことも一因でしょう。その「平和志向」が憲法に最も表れているのが前文です。今回は、日本国憲法の前文について考えてみます。

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「前文の存在そのもの」が政治的立場を分けた日本国憲法

 あらためて日本国憲法の前文をみてみましょう

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 ほかの国ではどうでしょうか。すぐに気がつくのは、日本国憲法のように長い前文ではない、ということです。

 アメリカ合衆国憲法の前文は、こうです。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.
 われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を確立し、国内の平穏を確保し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。

 わずか一文で終わっています(少々長めですが)。抽象的な統治目的を列挙するだけで、具体的な政策や歴史認識は含んでいません。そのため、これを根拠に憲法論争が起こる可能性は低いでしょう。

 フランス第五共和政憲法の前文も同様です。理念を語るのではなく、

1789年人権宣言
1946年憲法前文
2004年環境憲章

という過去の3つの文書に掲げられた権利や義務に対する愛着を宣言する、といった内容です。それ自体が国論を二分することはほとんどありません。

 いずれも、日本のように「前文の存在そのものが政治的立場を分ける」という構図にならないのです。

 ならば、国論を二分する前文をなくしてしまえばいいかというと、そういうものでもありません。日本人の歴史認識を消去することになってしまうからです。

今回、憲法改正なら国民自身が初めて本格的に憲法を考えることに

 日本国憲法前文の根幹的な部分を引用します。

<日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>

<われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する>

 前文に、歴史認識・安全保障観・国家観が含まれ、しかも、相当理想主義的であることがわかります(こういう批評をしただけで怒る人もいるかもしれません)。

 大勢の死者と焼失した国土・財産を眼前にした国民が、世界の未来に希望をもちたい気持ちだったことは理解できます。また、実際に当時の占領軍は、日本を二度と軍事大国として立ち上がれないよう希望していました。

 今回、もし憲法改正をするなら、実質上、初めて国民が本格的に憲法を考える機会になります(明治憲法は、欽定憲法といわれるように、上からの制定であり、日本国憲法は反論もあるでしょうが、占領軍の意向を少なからず反映していることは否定できません)。その意味で、日本国のあり方を日本人自身が考えるためには、国論の分裂を乗り越えるくらいの時間をかけた熟議が必要です。

 以上の理由から、私は「前文はかくあるべきだ」という議論をするつもりはありません。いや、一人で提案できるようなものでもないと思います。

 ただ、現在の前文の中で、考えてみたい箇所があります。

<平和を愛する諸国民の公正と審議に信頼して、我々の安全と生存を保持しようと決意し>という部分です。前文が理想を掲げることを否定はしません。しかし、昨今の国際情勢は、そのように決意しても、わが国の平和は保障されないと、多くの国民も危機感をもっています。

 第二次大戦後の惨禍から立ち上がろうとする国民にとっての理想とはなっても、その後の東西冷戦以降、全世界が平和であった時期など、ほとんどありませんでした。「日本が戦争に加わらなかったのは憲法九条のおかげ」という議論は、米国という巨大な安全保障の傘にすっぽり収まり、その代わりに、独立国としてはありえないほど、日本国内における自由を米国に与えてきました。

「他国の善意に安全保障を委ねる姿勢は現実的か」

 世界の大学の国際関係論で、必ず学ぶ文章があります。約2400年前に書かれたトゥキディデスの『戦史』のミロス島談義(メロス対話)です。この対話部分は、日本国憲法の前文とまったくちがう立場であり、「他国の善意に安全保障を委ねる姿勢は現実的か」という問いに満ちています。

『戦史』が書かれた当時、ギリシアはアテネの同盟とスパルタの同盟にわかれていました。アテネが優勢で、ミロス島はスパルタと同盟を結びながら、アテネに近い位置にあったため孤立状態でアテネ軍に包囲され、和平交渉が行われます。

アテネの使者:もし、諸君がミロスの浮沈を議するに際して(略)現実を度外視し、目前の事実に目をふさぐという態度で、ここに集まっておられるなら、この議論は打ち切りたい。この世で通じる理屈によれば、正義か否かは、彼我の勢力が伯仲の時、定めがつくもの。強者と弱者の間では、強きがいかに大をなしえ、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しうるか。その可能性しか問題となりえないのだ。

ミロス島の代表:人が死地に陥ったとき、情状に訴え、正義に訴えることを許し、例え、その釈明が厳正な規尺に欠けることがあろうとも、一分の理を認めて、見逃してやるべきではないか。

アテネ:諸君は、今、勇を競い、名を惜しむ、彼我互角の争いに臨んでいるわけではない。圧倒的な攻者を前にして、矛をおさめ、身を全うすべき判断の立場に立っているのだ。

ミロス:戦えば、戦っている間だけでも勝ち抜く希望が残されている。

(出所:『戦史』トゥキュディデス著、久保正彰訳、中央公論新社。一部、筆者が修正)

 結局、ミロス島は、アテネの降伏勧告を拒絶し、スパルタの援軍のないまま、1年後に陥落。成年男子は全員処刑、婦女子は奴隷となりました。

現実的な未来を見据えたカナダ・カーニー首相のスピーチ

 身も蓋もない議論だともいえますが、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃、米国のベネズエラ侵攻、グリーンランドへの脅迫、イランへの攻撃…をみれば、ミロス島談義の方が、現在の憲法前文より現実に近いことは、わかると思います。

 現在の我々は、憲法前文の世界ではなく、ミロス島の世界にあることを自覚して、新憲法を考えねばなりません。ただし、現実を現実としてただ認めるだけでは憲法の意味はありません。この国の理想とはなにか。それを示すことも憲法には必要です。

 我々は憲法前文に変わる、理想を探せない限り、「戦前回帰」にしかみえない自民党の改憲案を認めるしかないことになってしまいます。

 ここで、未来を考える二つのスピーチを紹介します。ひとつは、カナダのマーク・カーニー首相の「ダボス会議(世界経済フォーラムの年次総会)」での演説です。

ダボス会議で演説するカナダのカーニー首相(写真:ロイター=共同)


 カーニー首相はまず、

「今日私がお話しするのは、世界秩序の断絶、心地よい虚構の終わり、そして厳しい現実の始まりについてです。そこでは地政学、つまり大国や主要国の地政学が、いかなる制限も制約も受けなくなっています。その一方で、他国、とりわけカナダのようなミドルパワー(中堅国家)は決して無力ではないことをお伝えしたいと思います」

と語りかけます。そして、

「私たちは移行期ではなく、断絶の真っただ中にいます」として、エネルギー、食糧、重要鉱物、金融、サプライチェーンで、戦略的自律性を確立しなければならないと主張。だからこそ、ミドルパワーは団結しなければならないと訴えました。

 カーニー首相によるミドルパワーの団結という論理は、日本にも該当します。

日本メディアが“黙殺”した石破元首相の国連演説

 日本では注目されませんでしたが、わが国の石破茂元首相による国連総会での演説もまた、その流れにあるものでした。

「国連は現在、果たすべき役割を果たしているのか。(中略)歴史上初めての総力戦となった第一次世界大戦。その再来を防ぐべく設立された国際連盟。しかし、それはは、第二次世界大戦を防ぐことができなかった。その反省を踏まえ、国際連合は、国際の平和と安全を守るための組織として、戦勝国を中心に創設されました。

 しかし、80年経った今、はたして、現在の国連は、当初期待された役割を果たしているのか。その機能を十全に発揮できているか。(中略)安保理は、常任理事国の拒否権ゆえに、多くの危機的なケースにおいて、必な決定を下すことができなかった」

 石破氏はこのように主張し、常任理事国・非常任理事国双方の拡大などを求めました。

 そして「領土、民族、宗教、経済的格差。こうした紛争の種が世界から消え去ることは残念ながらありません。核による脅しが安全保障理事会常任理事国により平然と行われています」としたうえで、次のように訴えました。

「人類2度目の世界大戦を経験した世代の多くが、各国において社会の中心から去りました。その中にあって、国際社会は再び分断と対立に向かっています。(中略)我々がこれまで希求してきた法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序は、今まさに、歴史的な挑戦を受けています。私は強く訴えたい。この挑戦に立ち向かうに当たっては、健全で強靭な民主主義をこれからも育て、守り抜くことが肝要だということを(以下略)」

2025年9月、国連総会の一般討論演説を行う石破首相(写真:共同通信社)


 日本のメディアはすでに権力を失った首相の言葉を、ほとんど黙殺しました。しかし、カーニー大統領、石破首相の発言は、現状の問題点と、向かうべき方向を明確に示しています。

 ミドルパワーを集め、国連を改革するにあたって、日本は大きな優位性をもつことを忘れてはいけません。

日本が歩んだ道は正しかったのか、日本人は本当に平和主義者だったのか--

 まず、日本民族の特徴である宗教的寛大性と人種的寛大性です。イスラム、カトリック、プロテスタント、仏教、どの宗教の国とも対立せず、国内でも神道と仏教を混淆させる日本人の無宗教性は、外交で融和の道を開きやすい位置にあります。

 そして、分裂と崩壊の危機にある世界の秩序を、新しい融和主義で修正して行こうとするのは、日本の苦い経験があるからこそです。

 第一次大戦後、日本が欧米相手に示した人種差別撤廃の提案は無視され、自らは差別撤廃を唱えながら、帝国主義的侵略で隣国に被害を与えました。そんな苦い経験をもつ国が今回は国連改革の実現をめざしてゆく。これが、日本の歩むべき道ではないでしょうか。

 軍備を放棄するのではなく、攻められないだけの軍備は持つ。しかし専守防衛の原則は絶対守る。そして、国力が可能な限り、戦争がもたらす荒廃からの復興に尽力してこそ、日本が信頼され、攻撃を受けない国になる道ではないでしょうか。

 日本が歩んだ道は正しかったのか、日本人は本当に平和主義者だったのか--。自問自答することが、この憲法論争でもっとも大事なことです。それが日本人による東京裁判の実施が憲法改正に不可欠であると主張してきた筆者の根底にある考えです。

 苦いもの、見たくないものを直視する。それは現在も過去も含めてですが、それをなし遂げることが日本人にできたなら,世界に信用され、尊敬される国の建設への道は開けると考えます。

筆者:木俣 正剛