選手らに胴上げされた中谷仁監督(時事通信フォト)

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 夏の甲子園で、中谷仁監督が率いる智弁和歌山が4度目の日本一に輝いた。大会を沸かせた横浜(神奈川)の156キロ右腕・織田翔希を準決勝で攻略した強力打線はどのようにして育まれたのか。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が迫った。(文中一部敬称略)

【写真】楽天時代には野村克也監督からの教えを受けた中谷仁氏。ベンチ前でハイタッチするふたり

試合中の配球指示をやめた

 甲子園制覇の2日後――中谷の姿は和歌山の紀三井寺球場にあった。歓喜から一息つく暇もなく新チームがスタートし、新人戦に臨んでいたのだ。ところが、和歌山東に2対5と敗れてしまう。

「(過密日程は)1カ月半前から決まっていたこと。言い訳にはできません。僕らは"準備野球"という言葉をスローガンとして掲げてきましたが、準備不足だとこういう結果になってしまう……」

 秋季大会のシードを決する新人戦に敗れたからといって、来春のセンバツへの道が絶たれたわけではない。無論、2018年秋に監督となった中谷が2021年に続いて手にした日本一監督の栄誉が損なわれるわけでもない。

 和歌山市出身の中谷は中学時代に軟式野球に励み、智弁和歌山に進学すると3度の甲子園に出場。主将として挑んだ最後の夏(1997年)は同校として初の日本一に輝いた。同年秋のドラフトで阪神に1位指名されて入団。その後、楽天、巨人と渡り歩いた自身のプロ野球人生を中谷はこう総括する。

「15年間の現役生活の半分は野村克也監督のもとで野球を勉強させてもらいました。(キャンプイン前日の)1月31日からミーティングが始まり、その内容をノートに書き写して翌日の練習、その後の試合に備えていく。自分自身、技術に長けた捕手ではなく、投手の良いところを活かす配球で存在感を発揮し、勝利を導くことで評価されるタイプだったと思う」

 2012年に現役を引退すると、2017年に母校へ戻り、コーチに就任。翌年の甲子園100回大会をもって勇退した前監督・高嶋仁の後任に指名された。

 当初、中谷は星野仙一や原辰徳ら、プロの世界で接したカリスマ監督の立ち居振る舞いを真似ようとしたこともあった。

「普通の監督ではなく、偉大な監督だなと思わせるような表現を子どもたちの前でしなければいけないと錯覚していた時期もあった。だけどそれが難しくて、しんどくて、勘違いされることの方が多かった。素の自分で接しようと思うようになってから選手との関係もうまくいくようになった」

 歴代2位となる通算68勝の高嶋体制下の智弁和歌山は学校の意向もあって、基本的には和歌山の球児ばかりで一学年10人という少数精鋭だった。しかし、中谷は就任直後に「智翔館」という寮を建てて県外選手にも門戸を開放し、一学年13人前後に拡大。この夏の甲子園に臨んだ20人のメンバーのうち、12人が県外出身者だった。

 寮の食事は中谷の妻である千保子さんが任され、平均体重が出場49校中最重量となる83.05キロという強靱な肉体作りを夫婦でサポートしてきた。

「来年からもう少し受け入れが増えますが、みんなに目を行き届かせるという意味では、これくらいの人数が限度だと思う。自分も子どもたちと一緒に栄養のある食事について勉強してきました」

 3年前の夏、逸材が集まっていた東海中央ボーイズの中に、強肩強打の捕手・山田凜虎がいた。山田は中谷に憧れていて、智弁和歌山に進学すると打ち明けてくれた。その山田は現役時代に捕手だった中谷から帝王学を学んで1年秋より正捕手を務め、昨春のセンバツでは準優勝に輝く。だが、昨秋は和歌山大会の準々決勝で近大新宮に敗れ、センバツには出場できなかった。

「今だから言えることですが、昨年の夏まで試合中の重要な局面では、僕が山田に球種などをサインで指示していたんです。でもそれでは彼の成長にはならない。独り立ちさせるためにも、昨秋からすべて山田に配球を任せるようにしたんです」

 ところがその直後の和歌山大会で敗れたわけだ。ショックに打ちひしがれた山田に中谷は自身の高校時代を重ね合わせた。

「自分も最上級生の時に(日高)中津分校に6対16で敗れてセンバツ出場がなくなった。責任を感じて精神的に追い込まれましたが、その時に野球のすべての責任はキャッチャーにあると自覚することで物事が好転したし、それを山田にも伝えました」

日本一以外認められない

 中谷が教え子たちと共有しているのは、師である野村克也の教えだ。

「僕らが掲げる"準備野球"というのはつまり、野村監督のデータを駆使したID野球です。試合の前に相手校を分析してデータを作り、勝負の仕掛けどころを探っていく。特に捕手には打者を4つのタイプに分別する野村監督の教えを学ばせ、『野村ノート』などの著書も必ず読ませて、最低限、僕との会話が成立するようにしています」

 横浜戦を前に、智弁和歌山のデータ班は令和の大怪物こと織田の投球を徹底して分析した。豪速球に目を奪われがちだが、織田の投球が変化球主体であることに気付く。一方で、初球からボールが2つ続いたら3球目は必ずストレートを投げてくることがはっきりとデータに表れていた。

 1点を先制された智弁和歌山が同点に追いついた3回裏、無死二、三塁のチャンスで打席に立った楠本龍生は、2ボールからの3球目、甘く入った真っ直ぐを狙い打ち、3点本塁打を右翼席に叩き込む。いわば野村の教えが智弁和歌山の勝利をたぐり寄せたのだった。

 今夏の甲子園期間中、中谷の本音が垣間見えたのが、横浜との試合に勝利した日の宿舎だった。常勝軍団を率いる重圧について初めて吐露した。

「去年なんか、センバツで準優勝したのに、和歌山に戻った時には"また負けて帰ってきたな"という空気感だった。日本一以外、認められないって……けっこう、しんどいですよ。オトナもしんどいですけど、子どもらにそれを背負わすのはもっとしんどいと思う」

 一方で、「野球人・中谷仁は死んでいる」とも口にした。優勝直後に、その発言の真意を訊ねた。

「僕はプロ野球で花を咲かせられなかった。そういう人間が今度は高校野球に舞台を移すと、アマチュアの指導者として名前を売って自分の人生を豊かにしようとしていると思われがちですが、そんなつもりは微塵もない。後輩たちのあくまでサポート役に徹して、裏方であり亡霊のような存在でいい。そういう意味で、野球人としての自分は死んでいると思っている」

 もちろん、日本一という監督としてこれ以上ない結果には達成感がある。だからといってこれからもやることは変わらない。栄光に浸る間もなく中谷は来春、来夏に向けたチーム作りを開始している。

※週刊ポスト2026年9月11日号