「いい体格」でも「ボールが飛ぶ」でもない…"王貞治のホームラン記録を破る男"に監督が抱いた意外な第一印象
※本稿は、眥顛淡磧悵Δ醗イ靴澆離好錺蹇璽此戞KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■ドラフト1位に指名された「普通の高校生」
2026年シーズンからメジャーリーガーとしての挑戦を始めたムネ(村上宗隆)も、僕にとっては決して忘れることのできない選手の一人だ。
ムネが1位指名されたのは17年ドラフト会議のことだった。僕はこの年から二軍監督となっていたので、ルーキー時代からプロ野球選手としてのムネの歩みを間近で見てきた。
プロ入り直後の彼についての印象は、例えば「いい体格だな」とか、「よくボールが飛ぶ子だな」とか、いくつか思い浮かぶけれど、ひと言で言えば「素直な普通の高校生だな」というものだった。
ムネに限らず、すべての新人選手について言えることだけれど、指導者として常に心がけているのは、「一野球選手としてはもちろん、一社会人としてきちんと育てなければ」という思いだ。
特に高校を卒業したばかりの18歳の場合はなおさらだ。親元を離れ、社会人として新たなスタートを切る若者に、僕と出会うことによって何らかのいい影響を与えることができれば……。いや、少なくとも僕との出会いがマイナスに作用することのないように……。
そんなことを考えると身が引き締まる思いでいっぱいだった。
■一気にスター選手への階段を駆け上った
ムネについて話を戻すと、彼の場合は一気にスター選手への階段を駆け上っていった印象が強い。
入団したばかりの18年は年齢もいちばん下で、先輩選手たちの後をついていたけれど、この年のシーズン終盤にプロ初打席初ホームランを記録すると、翌19年からは一軍に定着。いきなり36本塁打を放って、一躍、注目選手の一人になった。
そして、僕が一軍監督に就任した20年、プロ3年目に当たるムネを、開幕から不動の四番に据えることにした。何も迷いはなかった。
前年は143試合にフル出場して、36本ものホームランを放っていた。リーグ最多となる184三振ではあったものの、プロ2年目の19歳としては、それまでにない、誰もできなかったすごい成績を残したことは間違いない。
■「真の四番」は人間性も要求される
それは本当にすばらしかった。でも、年が明けた20年開幕時点ではそれ以上でも、それ以下でもなかった。いくら前年に活躍したといっても、翌年も同様の成績を残せる保証などない。「ムネにはまだまだやるべきことがある」、そう考えていたからだ。
ようやく、本当の四番になるためのスタートラインに立ったに過ぎない。僕が考える「本当の四番」とは、具体的には次のようなものだ。
まずはチームを引っ張っていく存在であること。数字だけではなく、人間性であったり、普段の立ち居振る舞いであったり、発言であったり、いろいろなものが要求される。
当時20歳のムネに、それを求めるのは酷かもしれなかった。けれども、単に技術の向上を目指すだけでなく、人間性の成長も同時に、僕は求めていくつもりだった。
■数字だけ見れば立派な四番だが、まだまだ
前年にあれだけの活躍を見せていたけれど、20年が実質2年目だった。そういう意味では、本当によく頑張っていたと思う。12球団に12人の四番バッターがいる中で、「スワローズの四番は村上です」と、胸を張って言えるぐらいの成績は残していたと思う。
もちろん、当初から手放しで絶賛できる活躍を見せていたわけではない。繰り返しになるけれど、彼には自分の発言だったり、立ち居振る舞いだったり、数字以外のことをもっともっと求めたかった。
成績だけでなく、いろいろなものが求められるのが四番打者だと、僕は考えていたからだ。
だから、この時点ではまだムネのことを「真の四番打者」とはまったく思っていなかった。もちろん、数字だけ見れば立派な四番だ。でも、それ以外はまだまだだった。
とは言え、プロに入ってから始めたサードやファーストの守備でも、本当に一生懸命頑張っている姿が見えたし、実際にうまくなっていた。決して本人には言わなかったけれど、守備でチームを引っ張る、打撃でチームに勇気を与えようと心がけていた姿は立派だった。
■「王貞治の記録を破った日」の朝の変化
22年10月3日のシーズン最終戦、日本中が見守る中でムネはシーズン56号を放った。長年破られなかった王さんの55号を日本人打者として初めて更新した偉業だった。

この日のことはよく覚えている。朝、ムネと顔を合わせたとき、バッティング練習を見ているとき、いつものように他愛ない会話をしたとき、前日までとはちょっと違うリラックスした雰囲気を感じた。
僕はバッティングのことはよくわからないけれど、前日の阪神タイガース戦を休んだことで、すごくリラックスできたように見えたし、よく打っていた頃と同じようなスイングに戻っていたような気がしたのだ。
「今日は打ちそうだ」という確かな予感があったわけではないけれど、「今日、打っても不思議じゃないな」とは思っていた。
■「22歳で三冠王」という偉業を達成
もちろん、相手のあることだから、いいところに投げられればどんなに調子がよくても打てないかもしれないけれど、心身ともにコンディションはいい感じだったので、「可能性はあるな」とは思っていた。
そして、この日の第4打席のことだ。シーズン公式戦最終打席となったこの打席で、横浜DeNAベイスターズの入江大生投手の初球を強振すると、打球はあっという間にライトスタンド中段に飛び込んだ。
日本人登録選手および左打者によるシーズン最多新記録となる56号である。55号を達成してから14試合、61打席ぶりの一発だった。
さらにこの瞬間、ムネの三冠王が確定した。打撃三部門の最終成績で、いずれもリーグトップとなった。打率.318、56本塁打、134打点で、首位打者、本塁打王、打点王の三冠である。
1982年、当時28歳だった落合博満さんの記録を抜いて、NPB史上最年少となる22歳での三冠王、令和初の偉業を成し遂げたのである。
■たった4年でリーグを代表する選手に
本当に見事な活躍だった。こんなにも人は一気に成長するのか? 当時の僕は、そんなことを感じていた。
前述したように、プロ入りした当時の印象は「素直な普通の高校生」だったムネが、そこからわずか4年で、すでにリーグを代表するスラッガーへと成長した。この頃には早くも大打者の風格が漂い始めていた。

先輩選手への接し方も堂々としていたし、人数は少なかったけれど、ムネよりも年下の選手に対しては親身になってアドバイスをしていたし、マスコミやファンの人たちに対する接し方も、スター選手のそれに変わっていた。
(人間は、こんな短期間で一気に成長するんだな……)
僕は、ムネからそんなことを学んだ。
■メジャーに挑む村上宗隆へ
ムネは日本球界を代表するスーパースターの一人だ。だから、彼が打とうが、打つまいが、どんな状態であっても、僕はスタメン表に「四番・村上」と書き続けた。
彼の代わりを務めることは誰にもできないし、ムネが「本当の四番」に育つためには、どんな状態であろうと、試合に出続けることが重要だと考えたからだ。
選手というのは、試合を通じてたくさんのことを学ぶ。変な言い方かもしれないけれど、調子が悪いときには、「打てないときの四番のあり方」を学ぶこともできるのだ。
とにかくムネもまた、試合に出続けなければいけない。その機会を与えるのが自分の仕事と考えていた。その期待通りに彼は大きく成長していった。
■ムネが一流選手に育った裏側で
誤解しないでほしいのは、決して僕がムネを育てたわけじゃないということ。よく「いい選手は勝手に育つ」という言い方があるけれど、これも正しくない。

ムネがここまでの一流選手に育っていく過程で、つきっきりで彼の練習につき合ったコーチたちの努力を忘れてはいけない。よく覚えているのは打撃よりも守備のことだ。
二軍のキャンプ地である宮崎・西都のグラウンドで、三木肇、森岡良介コーチがつきっきりでノックを打ち続けていた。その甲斐あって、ムネの守備は少しずつ、しかし着実にうまくなっていった。
コーチたちの熱心な指導があったからこそ、ムネはここまでの選手になった。絶対、「選手は勝手に育つ」ということはないのだ。
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眥 臣吾(たかつ・しんご)
東京ヤクルトスワローズ前監督
1968年、広島県生まれ。亜細亜大学卒業後、ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。シンカーを武器に絶対的守護神として活躍し、NPB通算286セーブ(歴代2位)を挙げる。メジャーリーグ、韓国、台湾球界でもプレーした。現役引退後は、独立リーグ・新潟アルビレックスBCの監督を経て、ヤクルトの投手コーチ、2軍監督を歴任。2020年より1軍監督に就任し、21年にはチームを20年ぶりの日本一に導く。25年に監督を退任。
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(東京ヤクルトスワローズ前監督 眥 臣吾)
