なぜヨーロッパは、地平の彼方から現れた征服王=アッティラを忘れなかったのか【世界史のリテラシー:井上文則】

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長くヨーロッパ人の記憶に刻まれた「恐怖」の実態を探る

ヨーロッパ形成の出発点を、ローマ帝国だけでなく、東方から来た遊牧民の衝撃から見直すことで、世界史の見え方は大きく変わります。

早稲田大学教授の井上文則さんが、征服王「アッティラ」率いるフン人のもたらした衝撃を読み解く『世界史のリテラシー ヨーロッパは、いかに創られたか フン王アッティラのローマ帝国侵攻』より、その解説をご紹介します。

近代ドイツ皇帝が持ち出した「フン人」の記憶

 十九世紀末、列強の進出に苦しむ中国で排外主義を唱える義和団(ぎわだん)が蜂起し、北京では日本とドイツの外交官が殺害されるなどしました。清朝政府も義和団に同調し、列強に宣戦を布告。これを受けて、列強は共同出兵を行うことを決し、一九〇〇年七月二十七日、列強の一角であったドイツの皇帝ヴィルヘルム二世は、この義和団戦争のために中国に派遣される軍隊に対して次のように語りかけました。

「敵と対面したら、これを打ち破れ。容赦する必要はない。捕虜としなくともよい。手に落ちた者は好きに処分すればよい。千年前に、エッツェル王の下にあったフン人が、今日でもなお、伝承の中で生き生きと語り継がれているように、ドイツの名が中国において知られるようにするのだ。中国人がドイツ人を二度と侮(あなど)ることがないようにな」

 ここで言及されているフン人とは、四世紀から五世紀にかけて、当時のヨーロッパにあったローマ帝国やゲルマン人の国々を襲い、その残虐(ざんぎゃく)さで人々を震撼(しんかん)させたモンゴロイド(黄色人種)の遊牧民のことで、その王エッツェルとは、アッティラ(?~四五三年)のドイツ語での呼び名です。ヴィルヘルム二世は、かつてアッティラに率いられたフン人がヨーロッパでやったように、今度はドイツ人が中国人を情け容赦なく殺戮(さつりく)し、永遠の恐怖を植え付けよ、と言っているのです。このヴィルヘルム二世の演説は、十九世紀当時ですらさすがに問題視され、悪名高い「フン人演説」として知られるようになったものです。黄色人種の脅威を説いて止まなかった黄禍(こうか)論者のヴィルヘルム二世が、自軍の兵士にフン人のように振舞えと説くのは、何とも奇妙な感じですが、それはともかく、このフン人とその王アッティラこそ、本書の主人公に他なりません。

 ヴィルヘルム二世が、その演説において「エッツェル王の下にあったフン人が、今日でもなお、伝承の中で生き生きと語り継がれている」と口にしていることからも分かるように、フン人とその王アッティラは、当時のヨーロッパの人にとっては、単なる教科書上の過去の存在ではありませんでした。アッティラは、その生前から絶えず、善悪好悪(ぜんあくこうお)を含め実に様々にイメージされてきたのです。

 中世ヨーロッパでは、アッティラは、堕落(だらく)したキリスト教徒を罰するために現れた「神の鞭(むち)」と呼ばれて、恐れられました。十五世紀のイタリアでは、ハンガリー王の娘と犬の間にできた半獣人だったとの伝承まで作られ、このイメージに合致するヤギの角を生やした悪魔のような半獣のアッティラの姿が十六世紀以後、メダルや書物などの様々な媒体に描かれ、流布(るふ)していきました。他方で、アッティラは、それこそエッツェルの名で中世ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に登場するのですが、そのエッツェルは、化け物ではなく、善良な王として描かれるのです。

 しかし、この演説でヴィルヘルム二世が想起させているのは「破壊と殺戮をもたらす蛮族(ばんぞく)とその大王」といったもっと通俗的なものでしょう。わたしたちにとってみれば、それは鎌倉時代の日本を襲ったモンゴル帝国のようなものだと思っていただければ、一番わかりやすいかもしれません。蒙古(もうこ)を意味する「もっこ」、「もう」、あるいは蒙古と高句麗(こうくり)がなまった「むくりこくり」などは、鬼の代名詞として、泣く子を黙らせる言葉として日本各地で使われていたのです。

 元寇(げんこう)が日本人の記憶に深く刻み込まれたのは、外国からの侵略をほとんど受けてこなかったその歴史を振り返れば、納得のいくことです。しかし、ヨーロッパは、日本とは異なって、アジアと地続きでしたので、フン人以後も十三世紀に至るまでは、アヴァール人、ブルガール人、マジャール人、そしてモンゴル人といった遊牧民が次々と東方から押し寄せて来ていました。この点を考慮に入れると、フン人だけが、ことさらにヨーロッパの人々の記憶に残ったのは、なぜだったのか、という疑問がわいてきます。

 その理由は大きくは二つ考えられます。ひとつは、フン人がヨーロッパを襲った最初のモンゴロイドだったということです。当時のヨーロッパの人々は、ローマ帝国の人々もゲルマン人も、概(おおむ)ねコーカソイド(白人種)だったので、見た目の全く異なる未知のモンゴロイドの集団の攻撃に大きな衝撃を受けたことは、想像に難(かた)くありません。実際、四世紀の歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、フン人の説明をする際に、真っ先にその見た目に言及して、「彼らはみな、……宦官(かんがん)のように髭(ひげ)がなく……、ずんぐり、がっしりした四肢(しし)と太い首をもち、恐ろしく醜(みにく)く、体もゆがんでいるので、二本足の獣と見まがうほどである」と書き残しているのです。同じ遊牧民でもコーカソイドのアラン人については「背が高く、恰好がよい」と言っているのとは対照的です。アッティラその人の容姿もこれを実際に目撃したプリスクスの史書によって伝わっていますが、それによれば、アッティラは「ずんぐりして、胸は厚く、大きな頭に小さな目、髭は薄く、白髪交じりの毛に、鼻は低く、褐色(かっしょく)の肌をしていた」のでした。アッティラには明らかにモンゴロイドの特徴を見てとることができるでしょう。プリスクスは付け加えて、アッティラの容姿は、フン人全体の特徴でもあったと言っています。

 もうひとつの理由は、フン人の影響が長期にわたり、全ヨーロッパに及んだことです。彼らが、東方からウクライナの辺りに姿を現したのは四世紀後半であり、その後、五世紀初めにはハンガリー平原に本拠を移し、アッティラの時代に至ると、その帝国は、西はライン川流域から東はカスピ海の辺りにまで広がりました。そして、その帝国が崩壊するのは五世紀半ばのことなのです。

 一世紀近くに及んだこの間、フン人は、バルカン半島にたびたび侵攻しただけでなく、ドイツ中部にあったゲルマン系のブルグンド人の王国を攻撃し、その王ともども属民二万人を殺害、さらにローマ帝国領のフランス中部やイタリア半島北部にまで侵入し、数多くの都市を攻略、破壊しました。これに比べれば、モンゴル人のヨーロッパ侵入などは一過性で、局所的なものにすぎませんでした。一二三六年にバトゥに率いられて征西を開始したモンゴル人は、四一年にはハンガリー軍を破り、オーストリアのウィーンの辺りまで進撃しましたが、四二年に二代目の大ハーン、オゴタイ(在位一二二九~四一年)死去の報を受けて撤退したため、ロシアは「タタールのくびき」の下に置かれたとはいえ、ヨーロッパのほとんどの地域はその危機を短期間で脱したからです。

 このようにフン人とその王アッティラが同時代にもたらしたインパクトは、その他の東方から到来した遊牧民に比べて、はるかに大きかったため、その記憶が長くヨーロッパの人々の頭に残ったのです。このことの重要性は「おわりに」で改めて考えますが、フン人は、その名を残しただけではありませんでした。

 よく知られているように、フン人のヨーロッパへの侵攻は、世界史上で名高い「ゲルマン人の大移動」を引き起こしました。フン人到来以前のヨーロッパでは、ライン川とドナウ川を挟んで、その北にゲルマン人が、南にはローマ帝国が四百年以上にわたって対峙(たいじ)してきたのですが、フン人は四世紀後半にゲルマン人への攻撃を開始し、その一部をローマ帝国領に逃亡させました。これが「ゲルマン人の大移動」の始まりになりました。この「ゲルマン人の大移動」の最中の三九五年に、ローマ帝国は東西に分裂し、ゲルマン人を上手く受け入れることができなかった西ローマ帝国は滅亡し、滅亡した帝国の跡地には、現在のイギリスやフランス、ドイツなどの原型となるゲルマン人の諸国家が形成されることになったのです。フン人の侵攻は、ゲルマン人とローマ帝国の二つの世界に分かれて長く保たれてきたヨーロッパ地域の秩序を破壊し、混淆(こんこう)させ、現在につながるヨーロッパ世界形成の起爆剤となったのです。

著者

井上文則(いのうえ・ふみのり)
一九七三年、京都府生まれ。早稲田大学文学学術院教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は西洋古代史。著書に『軍と兵士のローマ帝国』『シルクロードとローマ帝国の興亡』『軍人皇帝のローマ―変貌する元老院と帝国の衰亡』『異教のローマ―ミトラス教とその時代』など。共著に『NHK3か月でマスターするMOOK もっと深く知る アジアから見る世界史』など。
※刊行時の情報です

■『世界史のリテラシー ヨーロッパは、いかに創られたか フン王アッティラのローマ帝国侵攻』より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビ等は権利などの関係上、記事から割愛しています。
■TOP画像:16世紀に製作されたアッティラのレリーフ