45歳を機に第一線での男優活動から退いた森林さん(写真:本人提供)

写真拡大

夏を制するものは受験を制すといわれているように、電車の中では夏期講習に通うために塾のカバンを持った小学生たちの姿を見かける。そんな受験生が目指す最高峰の学校の一つが、筑駒(筑波大学附属駒場中・高等学校)だ。例年、卒業生の5、6割が現役で東京大学に合格する日本一の進学校の卒業生で、異色の経歴を持つのが森林原人(47)。同窓生が政界、官界、法曹界、医学界、実業界の第一線で活躍するなか、森林が進んだのはAV業界だった。

1979年に生まれた森林は、大企業に勤める父親と専業主婦の母親に育てられた。

「母はいつもそばにいて応援してくれる人でした。暴力を振るう教師が担任だったとき、反抗したんです。そしたら親が呼び出されて。でもきっぱりと『うちの子は間違ってません』て言ってくれました。父親はベビーブーム世代で、受験、大企業で競争社会を生きてきた人だから、息子が競争に勝ち抜くためにも、中学受験をさせたかったのかもしれません」

小学4年生で中学受験を専門とした大手塾「日能研」の一般模試を受けた。

「学校の成績はA、B、Cとあって、どの教科もAでした。勉強はできる方だと思っていましたが、最初の成績は偏差値50くらい。悔しくて多少勉強したら、すぐに偏差値が60くらいに。それで手応えを感じて入塾を決めました。毎月、クラス分けのテストがありましたが、つねに一番上のクラスでした。ただ、成績優秀者の中でも上位者は漢字で名前が発表されますが、ボクは一度もなく、カタカナでした。のちに筑駒で同級生になる友人たちは、多くが漢字だったから、ボクはずば抜けて優秀というわけではなかったんです」

自由な校風の麻布中学を目指していたが、中学受験1カ月ほど前に塾長から筑駒の受験を提案された。

「だから筑駒は記念受験のようなものでしたが、筑駒も麻布も合格でした。筑駒も自由な校風だったし、国立で学費が安いからと父親に説得されたんです。もちろん麻布への未練もありましたが、入学して1カ月もすると友達もできて、学校が好きになりました。

入学後に感じたのは、周囲の友達の優秀さ。ボクは中学受験のときから塾から帰れば復習をして、テストがあれば間違えた箇所をしっかり克服して、かなり真面目に勉強しました。頑張ればできるタイプなんですけど、筑駒には頑張らなくてもできるヤツがたくさんいます。本人的には努力していると思いますが、理解力が高くて、通常の授業を受けていればつまずくこともなく、ノートをとらないのに勉強ができる。ラジオ英会話を聴いているだけで中2、中3で英検1級をとったりするわけです。最初のテストで120人中50位くらいでしたが、成績は右肩下がり。高校からは新たに優秀な40人が入学してきたため、高校卒業時は160人中、ワースト3位以内には入っていました。でも親は特に何も言わなかったです。もう大きくなってたのもあると思いますが、やればできると思ってくれてたのか、自分の好きなようにすればいいって」

■大学1年生の夏にAV男優の面接へ

優秀な同級生の中、森林はエロの分野では一目置かれる存在で「歩く有害図書」と評されたとか。

「横浜出身なので、黄金町と言われるかつての青線地帯に友達を連れて見学したり、親のレンタルビデオの会員証でAVを借りまくったり、ときには友達に又貸ししたり。裏ビデオを買おうとして、騙されたこともありました。欲望に対する行動力はかなりあるほうだったんです」

一方、学習意欲は一向に湧かず、1年間、浪人生活を送った。同級生や先輩が当たり前のように進学する東大を目指したが、センター試験の成績が悪すぎて受験することすら叶わなかった。“筑駒出身”の自負から受かると思いこんでいた早稲田や慶應にも届かない。

「結局、専修大学の心理学部に進学しました。筑駒出身ということもあったし、10代を筑駒から近い渋谷という若者文化の中心で過ごしていた自負もあって、斜に構えていた部分もあったんでしょうね。大学のクラスメイトとも馴染めないまま、もともとエロに興味があったし、性的な快楽を求めたい部分もあって、大学1年の夏にはAV男優の面接を受けていました」

成績の低迷、大学受験の失敗、思うようにいかない大学生活など、かつて筑駒入学時に思い描いていた人生とは、全く違う現実が目の前にあった。

「単に性欲を満たすだけなら自分でしたり、バイト代を貯めて行ってた風俗でも十分です。それでもAV男優の面接を受けたのは、ある種の自傷行為に近かったのかもしれません。取り返しのつかないことをして人生メチャクチャになって、自分の人生を自分のものにしたという実感を得たかったんじゃないでしょうか」

とはいえ、大きく道を踏み外すという恐怖も抱えていた。

「面接をして10日後くらいに最初の撮影があったんです。撮影自体はすごく順調にいって、監督やスタッフに褒められました。自分にこんな才能があったんだとうれしくなりました。でも、帰宅のために乗った電車がトンネルに入ってガラス窓に映った自分の姿を見たとき“もう親に見せる顔ないな”と強く感じたのを覚えています」

同級生たちとの比較にも苦しんだ。母校・筑駒の学園祭に足を運んだときのことだ。居酒屋で大学2年になった同級生や、3年生、4年生の先輩と食事をしているときに就職活動の話題になった。

「『これからは電通はやめておいた方がいい』『国I(国家公務員I種)を受けるにはこうしたほうがいい』『司法試験に早く受かるやつはこうやっている』といった話題に。出てくるのは一流の就職先ばかり。でも、ボクにはどの選択肢もないし、飲み慣れない酒を飲んだこともあって、突然、涙が止まらなくなって……。

ボロボロ涙を流しているから、みんなびっくりして。同級生に心配されて、AVの世界に行ったと告白しました。ただ、後から聞くとあまりにもボクが取り乱しているものだから“何か大きな病気になって絶望したんだ”と思われたみたいです(笑)」

■「そんなことさせるために育ててきたわけじゃない」と父に激怒されて

悩みを抱えながらも、AV男優の仕事は思いのほか自分に合っていた。男優に必要とされた体のコントロールができていたし、年配のベテラン勢が多い中、若手の森林のニーズが高かった。

「コミュニケーション能力も、業界の中では高かった方だと思います。監督の意図するところを読み取ることができたし、女優さんともコミュニケーションをとって、失敗をしても修正できていました。まあ、不細工で気持ち悪いからって、NG男優になったりもしましたけど」

デビューしてから2年ほど経った2001年5月、大学から履修届が未提出だという知らせが親元に届いた。心配した母親は「話があるから、何時になってもいいから帰ってきなさい」と自宅で待っていた。

「忘れもしない、母の日でした。オウム真理教の事件が記憶に新しかったし、高学歴の信者がいたことも話題になったから、なにか宗教にハマっているのか心配したようです。それで意を決してAV男優をやっているとカミングアウトしたら、父親は『そんなことさせるために育ててきたわけじゃない』『息子がそんな仕事をしたら、会社をクビになる』と激昂。母親はまだ理解が追いついていない状況でした。

それをきっかけに家を出て一人暮らしすることにしました。親との関係が修復されたわけではないのですが、家探しを母が手伝ってくれ、保証人には父がなってくれました。家を出るその日、母にこう言われました。『5年間待つから。お金をちゃんと貯めながら、自分のやりたいこと見つけなさい』と」

自らの選択で、誰よりも味方だった親を悲しませる結果となり、AV男優の仕事には迷いを持ち続けていた。20代の終わりに服飾の専門学校の夜間部に行ったりもした。だが30歳のとき、結婚を考えたことが大きな転機になった。

「相手は服飾学校で出会った一般の女性でした。女性の親はAV男優を辞めないと結婚を認めないと言ったんです。それを自分の母親に相談すると『実の親が辞めろと言っても辞めなかったのに、他人の親に言われたら辞めるのか。10年続けた自分の仕事にプライドはないのか』って一喝されたんです。その女性との結婚は叶いませんでしたが、母親が遠回しにボクの仕事を認めてくれているのかもと感じられうれしくなりました。父親もそのころから、毎年のボクの誕生日に体を気遣うような言葉と、人生訓のようなメッセージを送ってくれるようになったんです」

親に認められたことも後押しとなり、仕事に邁進。30代で業界では最高額といわれる年収3千万円を稼ぐまでのトップAV男優になった。体力の限界と、商業的すぎる撮影内容についていけなくなり、45歳を機に一線での男優活動から退き制作する裏方に回っている。と同時に、「日本のセックスの底上げ」をスローガンにオフィシャルサイトを立ち上げ、これまでの経験を活かし、親子や大人のための性教育なども行なっている。

「30代半ばに本を出すことになり、ようやく親に見せられる仕事ができたときはほっとしました。内容は、セックスを通して、人間や世界を考えていくものでした。セックスのなかには、AVで描かれる相手をモノにするセックスがあったり、一般のカップルや夫婦がするコミュニケーションの一つと言われるものもあります。

さらにもう一つ、2人の境界線が無くなり相手と一体化する、より深いセックスもあります。これは太古の昔から変わっていないでしょう。でもそれが学術的に解き明かされているとは思えない。だから、性愛の持つ深淵なところに踏み込んでいきたい。とはいえ、なんでボクはこんなに性に振り回され、突き動かされる人生なんだろうかとも考えています。まだまだ親に心配かけています」