山形放送

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シリーズ「戦争の語り部たち」。現在の中国東北部にあった旧・満州に送り込まれた少年たちがいました。死と隣り合わせだった逃避行。難民生活を生き残った山形県大蔵村出身の男性に思いを聞きました。

酒田市升田、大台野の鳥海山麓。
道路脇にひっそりとたたずむ石碑があります。

渡部豊子さん「1年経つと草ぼうぼうだもんね。拓魂というのは満州に行って開拓するつもりで行った「拓」だと思う。行ってみんなで頑張るぞという時の勢い、魂」

「満蒙開拓青少年義勇軍」として10代半ばで送られ、大陸で亡くなった少年たちを悼んで石碑は建てられました。
碑を建立した人たちに代わり子ども世代が守っています。

渡部豊子さん「生きているうちはお前たちのことは忘れないと。14歳なんて今の中学2年生だもんね。3年ぐらい農業を一生懸命勉強すれば10~20町歩(ヘクタール)もらえて大金持ちになれると言われて行ったら兵隊の訓練ばかりだった」

少年たちは大陸の天地に夢を馳せました。
しかしそれは、失意と絶望に変わりました。

8月31日ー。
石碑を建立した、隊員の一人を訪ねました。
大蔵村出身の中島千代吉さん、97歳。8人きょうだいの7番目、五男でした。

中島千代吉さん「(なぜ義勇軍に入った?)何かやらなきゃいけないのかなと。やっぱり何といっても時流というか国策の影響がある。自分という確たるものがなく、(周囲に満州へ)行くと言ったのでここで止めたと言いたくなかった」

中国東北部に日本が建国した満州への移民は国策でした。14歳の中島さんが向かったのは現在の茨城県水戸市の内原。
満蒙開拓青少年義勇軍の訓練所です。

満州移民が計画通り進まなくなると少年たちを全国から募るようになります。
14、5歳を中心に8万人、県内からも4千人ともいわれる少年たちがここから満州に向かいました。
中島さんは1944年3月、15歳で満州に渡り、現地の訓練所で過ごし、衛生班に配属されました。

中島千代吉さん「希望に燃えてますからはつらつしていましたよ。広いところで農業をやってみたい。一生ここでやってみたいという気持ちがあった」

現地での訓練は3年のはずでした。しかし、中島さんらが渡った翌年の8月9日ー。
満州にソ連軍が侵攻。大混乱となりました。

中島千代吉さん「8機編隊ぐらいで戦闘機が来た。だーっと1回来て機銃掃射して、もう行ったかと思ったらまたバババと来る。完全に死ぬと思った」
日本軍はこの時すでに守備範囲を開拓地のはるか南に後退させていました。
置き去りにされた開拓団や義勇軍は無防備のままソ連軍や中国の武装勢力の攻撃にさらされたのです。

中島千代吉さん「行軍中、食べるものがないんです。山の中を歩くことが多かったから草や木の葉を食べたり、倒れた馬の肉をはぎ取って食べたりどうしようもないときは(馬を)倒して食べました」

逃避行を始めてから1か月後、中島さんらはソ連軍に降伏。
その後、中島さんは東京城の収容所からハルビンの収容所に移され、そこで中国人に声を掛けられ、ハルビンの理髪店で半年、暮らすことになります。

中島千代吉さん「ハルビンの松花江の川原に(死体が)積まれていた。だーっと(死体の)山ですからね。(死んだのは)日本人だけじゃないと思って、なんで私を助けたんだろうと聞いたんです。そうしたら、子どもには罪がないんだと」

そして翌年6月。

中島千代吉さん「朝早く起こされて、「小輩(少年)、日本に帰れるよ」と。自分は日本に帰れると思っていなかったので言葉が出ない」

中島さんが帰国できたのは終戦翌年の1946年、10月半ばでした。

中島千代吉さん「帰ったなと実感したのはおふくろと会った時。おふくろの顔を見たとき。おふくろには満州に行くって言えなかった、黙っていったから。(言わなかったんですか?)言えなかった!悲しむだけでしょ。父親には言ったけど母親には言えなかった。(義勇軍の)制服が届いたときに、「おふくろ、これなんだ!あした訓練所に行くんだよ!」と…」

母親に告げないまま、満州に渡った中島さん。実家で待っていた母はその年の暮れに亡くなりました。

中島千代吉さん「親不孝だったなと思います。親を不幸にしたなと思います。それだけです。親の気持ちを考えられなかったから…」

中島さんは長年、自身の戦争体験を封印してきました。
しかし、戦友たちの慰霊は欠かしませんでした。

中島千代吉さん「死んだ人に対して生きてきたことの後ろめたさ、罪悪感。仲間を失った人は誰でも浮かぶと思います」

その後、中島さんは辛い戦争の記憶を伝え始めます。

中島千代吉さん(去年)「収容所に戻り目にしたのは山積みされた遺体でした」

鳥海山麓の慰霊碑。
中島さんと同じように戦争の記憶を封印してきた人がいます。

伊藤清光さん。
今、石碑を守っているのは伊藤さんの子どもとーめいの渡部豊子さんです。

渡部豊子さん「殺し合いもしただろうし、何度も何度もそういう目に遭ってきたからしゃべるのが嫌だったと思う」

伊藤さんは渡部さんに逃避行の手記を残しました。
渡部さんは去年、その手記を出版しました。
ことし3月には中島千代吉さんの元を訪ね、話を聞きました。

渡部豊子さん「私らが小学生の頃はね、クラスに何人かお父さんが戦死した人が必ずいたの。その人たちは苦労したの。今の人たちに(戦争への)危機感がないなと悪いけど思います。本当に、自分たちで世の中を変えるんだと思わないと、国に黙って任せているととんでもないことになるんではないかなと思う」

私たちは再び少年たちを戦場に送ることはないでしょうか。