真珠湾攻撃の立役者・山本五十六はなぜ命を落としたのか…日本海軍が"死の5日前"に送った「1通の電報」の誤算

■発端は「死の5日前」の暗号電報だった
1943年4月18日朝、連合艦隊司令長官・山本五十六の乗る一式陸上攻撃機(陸攻)は、ブーゲンビル島上空で米戦闘機の待ち伏せを受け、撃墜された。真珠湾攻撃を指揮し、死後は「軍神」とあがめられることになる日本海軍の象徴が、前線視察の途上で命を落とした。
なぜ軍神とまで言われた山本五十六は、このような最期を迎えることになったのか。
その発端は、死の5日前の4月13日に打電された視察日程の暗号電報にある。米軍は翌14日には断片訳を作り、15日には山本本人の搭乗、護衛戦闘機6機、悪天候時の予備日まで把握していた。
だが、山本が撃墜された理由は「暗号が破られたから」だけではない。本稿ではその原因を、日米双方の記録に残る数字でたどる。
■「司令長官の日程」は末端部隊にも
山本は18日、ブーゲンビル島南端方面のバラレ、ショートランド、ブインの各基地を視察する予定だった。日本側は4月上旬、ソロモン・ニューギニア方面への航空攻勢「い号作戦」を実施したばかり。視察には、前年8月からのガダルカナル攻防で消耗した前線部隊を司令長官みずから回って労う狙いがあった。出発時刻、経路、移動手段、護衛機数を記した日程は、暗号電報で複数の宛先へ一斉に発信された。
米国家安全保障局(NSA)が公開するJ・N・ウェンガー海軍大佐の1948年8月の講義録「通信情報講義抜粋」(ウェンガー講義録)によれば、電文の発信は4月13日17時55分。発信者の名義は山本本人ではなく、視察先の部隊を束ねる南東方面艦隊司令長官で、宛先にはバラレ守備隊司令官ら複数の部隊が含まれていた。守備隊レベルの末端まで、司令長官の行動予定が無線で届けられたことになる。
この一通が待ち伏せの起点になった。
■機種・護衛数から予備日まで“筒抜け”
ウェンガー講義録によれば、14日10時8分、真珠湾の通信情報部隊は傍受電文の断片訳を太平洋艦隊司令長官らに配布した。
発信から16時間13分後である。断片訳には「18日」「連合艦隊司令長官」「バラレ島」が現れ、配布電は暗号文を解く鍵となる加算乱数の復元が途中であると断りつつ、作業続行を告げていた。なお時刻は米海軍表記の「ゾーン・マイナス9」、すなわち東京時間で記されている。
15日4時10分と6時57分には、真珠湾とワシントンの通信情報部隊が、より完全な訳文を配布した。断片訳の配布から、前者は18時間2分後、後者は20時間49分後である。訳文を受け15日11時49分、太平洋艦隊司令長官は前線の任務部隊指揮官へ、山本本人が爆撃機に搭乗すること、戦闘機6機が護衛に就くこと、18日16時にカヒリ(ブインの飛行場)を離れること、悪天候なら19日に延期されることまでを伝えた。
米海軍大学校アーカイブが公開する太平洋艦隊司令部記録『ニミッツ・グレーブック』第3巻1509、1510頁によれば、4月14日(オアフ島基準)の欄には連合艦隊司令長官が18日にブイン地区を視察すると記され、16日の欄にはブイン地区を訪れる敵高級指揮官(山本を指す)の迎撃を試みるとある。
つまり、山本の動きは筒抜けであり、事前に迎撃態勢を組まれていたのである。

■解読された情報が、そのまま作戦になった
真珠湾の通信情報部隊が読み解いた山本の日程は、報告書のなかにとどまらなかった。訳文が配られた3日後の18日朝、太平洋を隔てた前線の航空部隊に出撃命令が下った。
米ノーステキサス大学図書館が公開する米陸軍航空軍第13戦闘機司令部分遣隊の1943年4月18日付報告「戦闘機迎撃」によれば、P-38「ライトニング」戦闘機の部隊は「特別な情報」に基づき、護衛付き爆撃機の迎撃を命じられた。作戦を継続したのは、攻撃隊4機と援護隊12機の計16機(*1)。発進は現地時間7時25分、帰還は11時40分である(同報告の時刻は現地時間で、東京時間より2時間進む)。計画は綿密だった。
「戦闘機迎撃」報告の原文2頁によれば、P-38隊は連合軍が「カクタス」と呼んだガダルカナルから、410マイルの迂回海上航路を、高度10〜30フィート(約3〜9メートル)の超低空で飛んだ。ブーゲンビル島南西岸への到達は現地時間の9時35分、東京時間の7時35分と計算されていた。いずれも作戦当日の報告に記された数字である。
18日朝、山本機は日程電報の予定どおりにラバウルを発った。「戦闘機迎撃」報告は、計算した到達の時点でP-38隊が山本隊を発見したと記す。米軍が算出した時刻に、算出した空域へ、山本機はそのとおり現れたのである。
(*1)なお、機数は、数えた段階を区別する必要がある。米空軍大学の論考はP-38が18機発進したとし、米海軍歴史遺産司令部は迎撃地点に到達した機数を16機とする。同日付報告の「攻撃隊4機、援護隊12機、計16機」は、作戦を継続した編成を示す数字とみられる。本稿では以下、発進18機、迎撃地点到達16機と表記する。
■「火ヲ吐キツツ」突入し、帰らぬ人に
防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵『山本元帥国葬関係綴』所収の1943年4月18日付緊急電「甲第一報」によれば、山本一行の編成は陸攻2機と直掩戦闘機6機だった。
一行は敵戦闘機十数機と遭遇した。山本の乗る「一番機」は「火ヲ吐キツツ」密林へ突入、宇垣纏参謀長の「二番機」は海上に不時着した。その後、二番機からは宇垣ら3人が救出されたが、一番機の搭乗者は全員が帰らぬ人となった。

米海軍省は同じ18日、「コミュニケ第348号」で爆撃機と零戦の撃墜を発表した。だが、そこに山本の名はなく、なぜ待ち伏せができたのかにも触れていない。米側は、この戦果がどこから得た情報によるものかを明かさなかったのである。
■無視された海軍省内からの警告
敗因を暗号解読の成功だけに求めると、日本側の運用判断が抜け落ちる。待ち伏せを可能にしたのは、司令長官の移動時刻、経路、機種、護衛数という機微な情報を、傍受され得る無線で複数の宛先へ送った運用そのものである。
元軍令部通信課長を務めた鮫島素直の回想録『元軍令部通信課長の回想―日本海軍通信、電波関係活躍の跡』(「元軍令部通信課長の回想」刊行会、1981年)147頁によれば、軍令部とは別の部署である海軍省電信課長は、補給・整備・造修(艦船の建造・修理)に関わる電報が多量に発せられれば「企画暴露の起因」になると警告していた。
これは山本の視察日程を名指しした警告ではないが、通信量や電報運用が作戦企図を暴露し得るという認識が、海軍内部に存在したことを示す。それでも本件では、司令長官の詳細日程が無線で複数の宛先へ送られた。
しかも宛先は守備隊レベルの小部隊にまで及んだ。一般に、機微な情報を取り扱う部隊と担当者が増えるほど、情報保全上の接点も増える。詳細日程の一斉送信は、その接点を自ら広げる選択でもあった。
■「解読される筈はない」という慢心
防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵『山本元帥国葬関係綴』所収の南東方面艦隊司令部1943年4月22日付「事故調査概報」原史料8頁によれば、日本側は事件の4日後、米側が山本隊の行動を「熟知シ計画的ニ邀撃シタルニ非ズヤ」と疑っていた。
根拠は、「P38二十四機モノ大兵力」のブイン付近への進出が初めてだったことにある。24機は「事故調査概報」の把握数で、米側報告の16機とは食い違う。
「事故調査概報」の8頁はまた、計画的邀撃をうかがわせる事項と並べて「偶然遭遇セリト推定シ得ル事項」を列挙し、「十八日ハ偶然成功セルモノナリ」との見方も残した。疑いと、それを打ち消す推定が同じ頁に同居していた。
組織は正しい問いを立てていた。しかし、海軍はその問いを最後まで追いかけようとしなかった。先述の鮫島回想録153頁によれば、撃墜後、暗号解読の可能性を含めて「直ちに厳密な調査」が行われた。だが米側が視察計画を知っていたと推論できる「確定的な資料」は見いだせなかった。
海軍の暗号は、語句を数字の符号に変える「暗号書」と、その符号を隠すために定期交換する「乱数表」の二層でできていた。使用暗号は強度が高く、乱数表も4月1日に変更されたばかりで「解読される筈はない」と考えられていた。
海軍中枢は、乱数表の「新しさ」を安全の根拠に据えていた。ただし、4月13日の電報が実際に4月1日更新の乱数表で処理されたかは、ここで挙げた史料だけでは確定できない。
■ミッドウェーの教訓を生かせず
鮫島回想録によれば、日本側が傍受した19日のサンフランシスコ放送も、陸攻2機と戦闘機2機の撃墜、米側1機の損失を伝えるにとどまった。前日の米海軍省「コミュニケ第348号」と同じく、山本の名にも情報源にも触れない、ありふれた戦果発表である。
米側が待ち伏せの成功を伏せたことで、日本側の判断は偶発的戦闘へと傾く。鮫島は、この放送によって暗号書の更新する必要性は考えられなかった、と回想している。ここからは、暗号が破られた確証を得られない限り現状を維持する、という安全判定の弱点が読み取れる。
では、乱数表の「新しさ」は防御として働いていたのか。ウェンガー講義録の時系列が示すのは、この電報が発信から2日足らずで完全な訳文まで読まれたという事実である。前年6月のミッドウェー作戦でも、米側は日本海軍暗号の解読と通信分析から作戦企図を事前に察知していた。漏洩を疑い、検証し、運用を改める回路は、1年後のこのときも動いていなかった。

■海軍が払った過信と現状維持の代償
大本営が山本の戦死を公表したのは、撃墜から1カ月あまり後の5月21日。国立公文書館アジア歴史資料センターの資料によると、同日、山本は元帥府に列せられ、元帥の称号を贈られた。戦死から48日後の6月5日、国葬が営まれた。
防衛研究所の昭和100年特設ページ「山本五十六の戦死」が所蔵史料に基づき解説するところでは、収容された遺体は傷みが少なく、軍刀を握りしめたままだったといい、遺骨は横須賀から東京の水交社まで警察の厳重な警戒の下で運ばれた。
米側は日本海軍の暗号を読み解き、その情報を基に待ち伏せ作戦へと戦術を変えた。対する日本側は「確定的な資料」の欠如を理由に現状維持を選んだ。乱数表の更新は手続きであって、安全の証明とは別物である。その取り違えの代償を、日本海軍は連合艦隊司令長官の命で払った。
真珠湾攻撃を指揮して国民から英雄視された山本を、この組織は守ることができなかったのである。
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伊藤 隆太(いとう・りゅうた)
政治学者
群馬県立女子大学・東京都市大学非常勤講師。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同大学大学院法学研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学・広島大学助教、日本国際問題研究所研究員等を経て今に至る。Co-Chairs of the IPSA Research Committees (RC12)、APSA Committee of Best International Security Article等を歴任。単著論文はInternational Affairs誌に‘Hybrid Balancing as Classical Realist Statecraft’ (2022)、‘Hubris Balancing’ (2023)、International Relations誌に‘A Neoclassical Realist Model of Overconfidence and the Japan-Soviet Neutrality Pact in 1941’ (2023)、‘Outrage Balancing’ (2026)、単著研究書は『進化政治学と国際政治理論』(芙蓉書房出版、2020)、『進化政治学と戦争』(芙蓉書房出版、2021)、『進化政治学と平和』(芙蓉書房出版、2022)、編著研究書に『インド太平洋をめぐる国際関係』(芙蓉書房出版、2024)等がある。
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(政治学者 伊藤 隆太)
