自身で収集、作成した資料を前に、父親が負ったであろう心の傷について語る黒井さん(7月31日、東京都武蔵村山市で)

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 戦後、長らく埋もれていた戦禍の一つが、「戦争トラウマ」と呼ばれる兵士らの心の傷だ。

 心を閉ざしたまま亡くなった父親の足跡を子や孫の世代がたどり、近年、実態が明らかになりつつある。(江原桂都)

 「帝国の生命線を死守する」「砲煙弾雨の中をも物ともせず 堂々と進む我戦車の偉容」――。山形県鶴岡市の実家に放置されていた亡父のアルバムには、勇壮な言葉が躍る手書きのメモが写真ごとに添えられていた。出征して軍服を着た父は、見たことのないりりしい表情をしていた。

 俺は何も知らなかったんじゃないか――。東京都武蔵村山市の黒井秋夫さん(77)は後悔の交じった衝撃にうちひしがれた。

 1990年に77歳で亡くなった父・慶次郎さんを、黒井さんはずっと「無気力な男」と軽蔑(けいべつ)してきた。

 定職に就かず、日雇いの仕事のない日は自宅に引きこもっていた。常にうつろな目をして感情を表に出さず、家族との会話もほとんどない。孫が訪ねてきても喜ぶ顔さえ見せなかった。

 父への見方が変わったのは2015年、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむベトナム戦争の帰還兵の映像を見てからだ。うつろな米兵の表情と生前の父の顔が重なった。「父もPTSDだったのではないか」

 父に何が起きたのか知りたくなり、20年頃から、戦地での父の様子がわかる資料に当たり始めた。5冊のアルバムを読み込み、軍歴証明書も取り寄せた。集めた戦争やPTSDに関する書籍は数千冊に上った。

 山形県の農家に生まれた父は1932年、20歳の時に徴兵された。満州(現中国東北部)で4年間、南満州鉄道の防衛に当たった。太平洋戦争が始まった41年に再び徴兵され、終戦まで中国戦線に投入された。

 アルバムには、「匪賊(ひぞく)討伐に従事した」との記述もあった。ただ、戦火が激しくなって以降、具体的な行動がわかるメモ書きはなくなり、写真も途切れた。

 父のその後を追ったところ、戦争末期は激しい対ゲリラ戦を強いられていたことがわかった。漢口(現武漢)で米軍の空爆にも襲われ、所属部隊は多数の死者を出していた。

 「何度も死にそうになり、何人も殺したんだろう。戦地での悲惨な体験で人が変わってしまったのではないか」。父が負った心の傷を思った。

 2018年、同様の体験をした復員兵の遺族らを捜し始めた。インターネットで関連する投稿を見つけては連絡を取り、22年、遺族による証言集会を始めた。

 「現地住民の首を切った」「食料を略奪した民家に火を付け、住民を火の中に投げ込んだ」

 集会の参加者は自身の父親のおぞましい戦争体験を語った。そうした体験が心をむしばみ、家庭内暴力やアルコール依存を引き起こすことも知った。遺族や研究者とともに23年、「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」を作った。

 戦争トラウマは第1次世界大戦後から欧米で知られてきたが、日本軍は「皇軍には一人もいない」と否定し続けた。その結果、個々の兵士のトラウマを証明できる資料は少ない。メモや写真が残っていた黒井さんも、父が心を病んだ正確な理由はいまだにわからない。

 会は24年、復員兵や遺族に対する実態調査を国に求めた。今年3月には、黒井さんらが厚生労働省の担当者と会って直接要請した。

 会の会員は100人に増え、東京や大阪など全国6地域に拠点が設立された。黒井さんは言う。「元兵士も遺族も精神疾患は『恥』だとの意識が強く、トラウマの問題は長い間伏せられてきた。元兵士の無念さ、子や孫にまで与える影響の恐ろしさを多くの人に知ってほしい」

軍医のカルテ分析、精神病「67万人」か…厚労省推計

 厚生労働省は2024年、日本兵の心の傷について調査を始めた。軍医が残していたカルテなどを収集・分析し、今年2月からは国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」(東京)の常設展で調査結果の一部を公開している。

 調査では、終戦までの4年間の戦病者785万人のうち、約8%の67万人が「精神病・その他の神経症」だったと推計した。相当数のPTSD患者がいた可能性がある。

 ただ調査対象は、戦時中に陸軍病院で治療を受けるなどした「戦傷病者」に限られている。戦後に発症したケースは含まれず、調査が不十分との声もある。厚労省は「公的記録が残っていない中、戦争と症状の因果関係の判断は難しい」としている。