関連画像

写真拡大

会社員の平尾曜子さんのスマートフォンに、見知らぬ男性からのメッセージが次々と届くようになった。2021年2月のことだ。

「Tinder見ました」

平尾さんは、マッチングアプリを使っていなかった。調べてみると、自分になりすましたプロフィールが作られていた。

本人の写真や実際の勤務先、卒業校に加え、卑わいな自己紹介文が掲載され、平尾さんのSNSへと誘導されていた。

なりすましの投稿がされたのは、わずか2日間だった。しかし、誰がやったのかを突き止め、裁判で責任を認めさせるまでには、5年半もの時間がかかった。

平尾さんが、なりすましアカウントを作った女性に損害賠償を求めた訴訟で、佐賀地裁は今年7月1日、529万5340円の支払いを命じた。判決は確定している。

40代を目前にした平尾さんは、その間にうつ病などを発症し、収入も大きく落ち込んだ。

「男性から襲われるのではないか」。そんな恐怖にもさらされ続けた。

単になりすますだけなら、それほど時間はかからない。そして生成AIが普及した今、そのハードルはさらに下がっている。

●実在の情報で埋められた「別人の私」

判決によると、なりすましのプロフィールには、平尾さん本人の写真とともに「自他共に認めるビッチ」「SEX無しじゃ生きてけない」といった自己紹介文が並んでいた。

年齢、居住地、以前の勤務先、卒業校──。いずれも平尾さんが実際にSNSなどで公開していた情報から集められたものだった。

プロフィールには、平尾さんのInstagramやTwitter(現X)も掲載されていた。そこへ、プロフィールを見た男性たちから数百通もの性的なDMが押し寄せた。

平尾さんは「あれは架空の自分です」「なりすましです」と説明し続けた。それでも男性たちは止まらなかった。

「いやそれでもタイプなんで、一晩どうですか」

中には、身体的・性的な危害を加えかねない内容のメッセージも多数あった、と判決は認定している。

平尾さんがTinderの運営会社に連絡し、アカウントを削除してもらうと、翌日には別の電話回線を使った2つ目のアカウントが作られた。

「ドビッチDMください」

文面は、さらに露骨になっていた。

●「人気者の証拠」深刻さを理解されない苦しみ

自分の顔と経歴を使って、性的に奔放な「別の自分」が作り上げられる。ところが、その苦しみは周囲から十分に理解されないこともあった。

当時の勤務先の関係者は、落ち込む平尾さんにこんな言葉をかけたという。

「人気者の証拠で羨ましいじゃん」 「そんなことで悩むなんて心が弱い」

なりすましに誘導された男性たちからの連絡は、1年以上続いた。

SNSのアカウントを変えても、執拗に探し当ててくる者がいた。「おい、ビッチ元気か」。そんな下品なDMを繰り返し目にすることになった。

●「弁護士以外は誰も助けてくれなかった」

平尾さんは警察に相談し、行政や人権に関する相談窓口にも連絡した。しかし刑事事件にはならず、民事で責任を追及するしかなかった。

「どこに連絡すればいいかわからず、いろんなところに頼りました。でも、弁護士以外は誰も助けてくれなかった」

投稿した人物を法的に特定するまでに、2年を要した。たどり着いたのは、平尾さんの「元カレ」と交際していた女性だった。

平尾さんは、アプリ運営会社への開示請求や通信会社への請求を重ね、使用された回線の契約者が女性の親族であることを突き止めた。

さらに、別の訴訟での調査嘱託によって、2つのなりすましアカウントには別々の電話番号が使われていたことが判明。弁護士会照会で、そのうち一方が女性本人の契約だったことも確認された。

●「またしてやる」その言葉で心が折れた

相手が特定された後、被告の交際相手が平尾さんのもとを訪れて謝罪し、示談を申し入れた。

平尾さんは応じるつもりだった。やっと終わる──。そう思った。

ところが翌日、被告は示談を拒否した。交際相手を通じ、平尾さんにこんな言葉が伝えられたという。

「そんなのしたら曜子さんが金儲けするだけだから、そんなんせんでも。弁護士つけてるし、いくらでも手は打ってるから無敵だから。またしてやるし、とっとと訴状を送ってこい」

被害直後から崩していた体調は、ここで一気に悪化した。自死を図った。

一命を取りとめたものの、うつ病と診断され、日中に突然眠り込んでしまう特発性過眠症も併発した。体重は20キロ近く減った。

それまで広報やモデルとしてキャリアを重ねてきたが、東京で得ていた仕事を退いた後、収入は大きく落ち込んだ。現在は勤務先の配慮で在宅勤務を続けている。

●「書き込みをしたかは覚えていない」

裁判で被告は「書き込みをしたかは覚えていない」と反論した。

さらに、平尾さんが肌の露出の多い服装でDJ活動をしていることなどを挙げ、後遺障害の程度についても争った。

しかし、判決は「社会とのつながりを絶たないために必死に努力している」という平尾さんの陳述を考慮し、被告側の主張を退けた。

佐賀地裁は、なりすましの投稿を女性によるものと認定し、名誉毀損にあたると判断した。認められた損害は、慰謝料160万円、約320万円の逸失利益などを合わせ、500万円を超えた。

磯尾俊明裁判官は、被告が、平尾さんに卑わいなメッセージが殺到することや、周囲から誤解を受けることを「認識した上で」投稿したと認定した。

直接攻撃するのではなく、なりすましを信じた第三者を動かし、本人に被害を集中させる。判決は、そうした構造を悪質なものとして評価したといえる。

●「支援と責任は別だと思っています」

判決は確定した。

だが平尾さんは、いまだに被告本人から謝罪を受けていない。面識もない相手から、なぜここまでのことをされたのか。はっきりと説明を受けないまま、裁判は終わった。

被告は訴訟を通じて、体調不良や無職であることを繰り返し主張していた。損害賠償金を回収できる見通しも、現在のところ立っていない。

平尾さんは言う。 「病気があることや無職であること自体を責めたいのではありません。私自身、この事件によってうつ病になり、支援制度にも助けられています。だからこそ、病気や生活困窮への支援と、他人を傷つけた行為への責任は別だと思っています」

なりすましが投稿されたのは、2日間だった。それを消し、投稿者を突き止め、裁判で責任を認めさせるまでに5年半を要した。

名誉を取り戻すために費やした時間は、名誉を傷つけるために費やされた時間とは比べものにならないほど長かった。

●統計にも表れない「なりすまし」被害

なりすまし被害が全国でどれだけ起きているのか。それを直接示す公的な統計はない。

法務省の人権擁護機関が2025年、インターネット上の人権侵害情報をめぐって新たに救済手続きを始めた人権侵犯事件は1569件だった。

総務省が委託する違法・有害情報相談センターへの相談は、2024年度に6403件。10年余りで約4.8倍に増えた。

しかし、いずれの統計にも「なりすまし」という独立した項目はない。

プライバシー侵害や名誉毀損といった既存の分類の中に埋もれているとみられる。

今回のなりすましに、生成AIは使われていなかった。本人が実際に公開していた写真の中から、男性の関心を引きそうなものを選び、一枚ずつ文言を付ける。いわば「手作業」だった。

だが、今は状況が違う。

相手の写真から、本人が実際には撮影していない性的な画像を生成することも技術的には容易になった。SNSや卒業アルバムなどに掲載された顔写真をもとに、若い女性たちが「ディープフェイク」の標的となる被害も問題となっている。

他人になりすますための材料を集め、偽物を作り上げる手間は、この5年で劇的に減った。

平尾さんは現在、自らの被害についてSNSで発信を続けている。

本名と顔を出して取材を受ける理由を、こう語った。

「私は何も悪いことをしていないからです。自分は名前も顔も隠したまま、他人の本名や顔や私生活をさらし、人生を壊せる現在の仕組みには強い不公平を感じます。失った生活を取り返すことが一番の望みです」