お盆休みに訪れたい「へんな城」3選──お金が尽きた、使われないトイレ、怪鳥扱いの天守に隠された物語

姫路城 非公開エリアの櫓(写真:beauty_box/イメージマート)
お盆休み、帰省先や旅先で少し時間を持て余したら、近くの城や城跡へ足を延ばしてみてはいかがだろう。天守や石垣といった定番の見どころだけでなく、その城に潜む「へんなポイント」に目を向けると、築城した人々の思惑や当時の切迫した事情まで浮かび上がってくる。
(*)本稿は8月27日発売予定の『ウソみたいだけど本当にあった へんな城』(真山知幸著/彩図社)の一部を抜粋し、再編集したものです。
名城の見方が変わる、戦への備えに潜む「へんなところ」
城歩きがブームになって久しい。かつては一部マニアの趣味だった城歩きは、今や老若男女を問わない国民的な楽しみへと広がりつつある。
その一方で、歴史に詳しくないと楽しめない、マニアックな世界……そんなイメージを持っている人も少なくないだろう。
しかし、城の楽しみ方は実に多岐にわたる。まず天守閣はその圧倒的な存在感で見る者を惹きつける。慣れてくると、石垣の積み方や狭間の配置といった細部に目が向くようになる。時代や地域によって工夫が異なり、見比べるだけで飽きない。
さらに踏み込むと、山城の魅力に気づく。一見すると草が生い茂るだけの丘のようだが、ちょっとした凸凹にも意味がある。
堀切(ほりきり)、竪堀(たてぼり)、曲輪(くるわ)……地形そのものが要塞として機能していたことが分かると、歴史の見え方ががらりと変わる。山城こそ城の本質が凝縮されている、とハマってしまう人が続出しているほどだ。
そんな楽しみ方を発見するために、オススメの注目ポイントが、「城のへんなところ」に着目すること。一口に「へん」といっても、いろんなバリエーションがあるが、本稿では「城の備えが変」な城を3つ紹介しよう。
築城費用が尽きて北側が弱点に、鉄板で天守を守った福山城
広島県福山市のJR福山駅を降りると、駅のすぐ北側に福山城の天守がそびえている。

福山城(写真:beauty_box/イメージマート)
新幹線のホームからも見えるほど駅に近い立地で知られるが、この城にはほかにはない珍しい特徴がある。天守の北側だけが鉄板張りになっているのだ。
白壁と黒鉄板のコントラストは一目で目を引く。この鉄板は敵の攻撃に備えるために設けられた「装甲」であり、全国の城で唯一の仕様だという。なぜ、こんな備え方になったのか。

福山城 北側の鉄板張り(写真:beauty_box/イメージマート)
福山城を築いたのは、徳川家康のいとこにあたる水野勝成である。元和5(1619)年に備後の国(広島県)10万石の領主として入封した勝成は、元和8(1622)年に城を完成させている。
幕府が「一国一城令」を徹底していたこの時代に、大規模な城を新たに建てるのは異例中の異例だ。それでも築城に踏み切ったのは、西国の外様大名を監視し牽制するためだった。石高10万石に対して福山城が破格の規模を誇ったのも、その役割の重さを示している。
城の装飾には破風(はふ:屋根の三角形の部分のこと)をふんだんに使い、格式の高さを強調。また築城の際には、将軍の徳川秀忠から拝領した伏見城の松ノ丸東櫓が移築されたようだ。昭和29(1954)年の解体修理でそのことを示す「松ノ丸東やぐら」という刻印が梁から発見されている。将軍家が福山城の築城を特別に後押ししたことが伝わってくる。
しかし、ちょっと気合を入れすぎたようで、途中で費用が足りなくなったらしい。天守の北側だけやたらと守備が手薄になってしまう。
石垣や堀はほとんどなく竹の柵のみ。吉津川が天然の外堀となって守ってくれるのを祈るのみ、というなんとも心もとない状態に……。
「これでは、本丸の北寄りに建てられた天守が危ない!」ということで、大砲で打ち抜かれても耐えられるような鉄板張りが施された。しかし、そもそも籠城戦において最後の砦となる天守が、外から狙われる場所にあること自体、かなり危険だ。幕末の戊辰戦争では、新政府軍にそこを突かれてしまったようだ。
折悪しく藩主・阿部正方が直前に急死していた福山藩は、態度表明が遅れたために新政府軍から攻撃を受けることに。案の定、守備がぜい弱な北側から侵入を許すこととなり、長州藩が放った銃弾が天守に命中したという。このとき鉄板には砲撃の痕が残ったとも伝わる。結局は、本格的な総攻撃の前に恭順が許され、城下は戦火を免れた。
現在の天守は昭和41(1966)年に市民と企業の寄付によって再建されたものだが、当時の技術的な問題から鉄板張りは再現されなかった。令和4(2022)年の築城400年を機に行った「令和の大普請」で鉄板張りが復元され、全国唯一の姿がよみがえることになった。
守備の弱さから施された鉄板がこれだけ注目されるとは、わからないものである。
世界遺産・姫路城に残る、400年以上使われなかったトイレ
白漆喰の美しい外観から「白鷺城(しろさぎじょう)」とも呼ばれる姫路城。奈良の法隆寺とともに日本で初めて世界文化遺産に登録された名城で、現存する木造天守の中でも最大級の規模を誇っている。

姫路城(写真:beauty_box/イメージマート)
姫路城の起源は古く、一説によると、元弘3(1333)年、赤松則村が姫山に砦を築いたのが始まりとされる。その後、戦国時代を経て、天正8(1580)年、羽柴秀吉が三層の天守を築いた。関ヶ原の戦いの後、慶長6(1601)年、池田輝政が入城し、9年の歳月をかけて現在の姿の城を築き上げた。
美しい姫路城の知られざる特徴が「天守に厠(トイレ)が現存している」ということ。もちろん、厠があった城は少なくないはずだが、現在の遺構はごくわずか。特に天守は戦時に詰めるくらいであり、生活の場は主に御殿だった。
織田信長のように「天守(天主)に住んでいた」というレアケースを除けば、天守に厠は不要だったようだ。ちなみに、信長の居城である安土城には天守に厠が3つもあるという。
そんな中、姫路城では、大天守の地下には2カ所の厠があり、それぞれ3つの便器が備えられている。落とし壺は備前焼であることが、調査によって判明した。
ほかにも妙なことが明らかになった。それは、400年以上前に造られたトイレが一度も使われることなく、現在に至っているということだ。
なぜ使わないトイレをわざわざ作ったかといえば、籠城戦に備えてのものだったのだろう。大天守地階には、流しもあり、近くには天守群の内庭にある台所櫓への扉があることからも、籠城戦などの非常時に備えていたことがうかがえる。

姫路城天守閣(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)
また姫路城に入ってみると、登城路が折れ曲がっていることに気づくはず。さらに石垣や門に遮られており、まるで迷路のような構造になっているのだ。これでは、敵兵が攻めるのにもかなり苦労しそうだ。
その美しい外見とは裏腹に、実戦を想定した要塞でもあった姫路城。ところが、築城した途端に平和な江戸時代に突入したため、単なるややこしい城に……。城の維持費だけでも大変で、姫路藩は財政難へと陥ることになった。
国宝・松江城は戦う気満々、怪鳥の天守に仕込まれた防御策
山陰で唯一、江戸期以前の天守が現存するのが、島根県の松江城だ。

松江城 天守(写真:beauty_box/イメージマート)
しかも、4重5階地下1階という雄大な天守は、平成27(2015)年に城郭建築としては63年ぶりに国宝に指定されている。
築城にあたっては、豊臣秀吉の旧臣・堀尾吉晴(ほりお よしはる)の采配が冴えわたったようだ。
関ヶ原の戦いでの活躍が認められて、吉晴の子・忠氏に出雲国と隠岐国(いずれも現在の島根県)の24万石が与えられると、吉晴は忠氏とともに月山富田城(がっさんとだじょう)へ入城。守備に難があるため、新たに松江城の築城をスタートさせる。
城の設計は『信長公記』の著者として知られる、儒学者で軍学者の小瀬甫庵(おぜ ほあん)に担当させた。次に土木職人として稲葉覚之丞(いなば かくのじょう)を登用。さらに石垣の石積みは、達人集団の「穴太衆(あのうしゅう)」を呼び寄せて、自身は全体の総指揮にあたった。まさに盤石の築城チームである。
そうしてプロフェッショナルの力を結集させながら、城に敵が襲ってきたときに備えた。天守に近づく敵兵に石を降らせる「石落(いしおとし)」や、銃や弓で敵を狙う穴の「狭間(さま)」を天守の入り口に施したりしている。「攻撃は最大の防御」とは、まさにこのことだろう。

国宝松江城天守閣と石垣(写真:w.mart1964/イメージマート)
また、1階から4階までの各層には「桐の階段」を設置。徹底抗戦を行う際には、退路を断つため、この軽量化が図られた桐の階段を、引き上げるという仕組みだ。さらに、籠城戦になってもよいように、天守地下には井戸まで完備されていたという。
敵が攻めて来ることを想定し、これだけの城を作ったのは、当時はまだまだ、豊臣家が大坂城で力を持っていたからだ。
さあ、もうこれで大丈夫。いつでもかかってきなさい……と、そんな心持ちでいたことだろう。しかし、城の完成からほどなく、戦のない平和な世がやってくる。
華美な装飾とは無縁で、武骨な松江城のことを「怪鳥みたいだ」と言ったのは、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)だが、怪鳥の真価を発揮する機会はとうとうなかった。
そもそも、天守で戦うことを前提とした仕掛けがやたらと多いが、そこまで敵に攻め込まれたら、もう負け戦は確定のような気も……。
そんな松江城だが、実は現実で起きるはずもない、オカルトな逸話にも事欠かない。
まず築城の際、鬼門の方角にあたる石垣が何度積んでも夜ごとに崩れるという怪異が続いた。不審に思った堀尾吉晴が掘り返させると、槍の穂先が刺さったドクロが出現。三日三晩の大祈祷の末にようやく石垣を積み上げることができた。その場所に建てられた櫓は毎月28日に祈祷が行われたことから「祈祷櫓」と呼ばれた。
さらに城完成後には、天守最上階に美しい女の幽霊が現れ「この城は私のもの、誰にも渡さない」と主張するという怪異が続いた。当時の城主・松平直政が「コノシロ(魚)を与えよう」と答えてコノシロを三宝(お供え物を載せる台のことで「三方」とも)に乗せて供えたところ、翌朝には三宝ごと別の櫓に移動しており、以来怪異は起きなくなったとか。
「この城」と魚の「コノシロ」をかけた洒落で幽霊を追い払ったわけだ。この話から祈祷櫓は「コノシロ櫓」とも呼ばれ、現在も毎年供養祭が行われているという。
防御力を固めたのに戦の機会はなく、日本屈指の名城なのにオカルト色が強め……。松江城ならではの、そんな「へんなギャップ」を楽しむのもまた一興だろう。
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本稿では、8月下旬発売の『ウソみたいだけど本当にあった へんな城』(真山知幸著/彩図社)の「第1章 戦の備えがへんな城」から、3つの城をピックアップして紹介した。

(真山知幸著/彩図社)
本書にはそのほか「第2章 見た目・設備がへんな城」「第3章 立地がへんな城」「第4章 城をめぐるへんな事件・伝承」「第5章 へんな最期を迎えた城」など、さまざまな角度から、総勢68のユニークな城や城跡を取り上げている。
夏の終わりから秋にかけては、城や城跡を歩くのにうってつけの季節だ。本書を片手に、名城の勇壮さや美しさだけでなく、思わず首をかしげたくなる「へんなところ」を探しに出かけてみてはいかがだろうか。
【参考文献】
『日本の城原風景 城古写真カタログ』(新人物往来社編、新人物往来社)
『30の名城からよむ日本史』(安藤優一郎著、日経ビジネス人文庫)
『図解 城の間取り』(日本史の謎検証委員会編、彩図社)
『松江城』(西島太郎監修、創元社)
『ウソみたいだけど本当にあった へんな城』(真山知幸著、彩図社)
筆者:真山 知幸
