岡本公三

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 1972年5月30日、イスラエルのテルアビブ郊外にある、ロッド(現・ベングリオン)空港で、岡本公三容疑者ら日本人3人が自動小銃などを無差別に乱射。26人が殺害された。この3人は過激派の日本赤軍のメンバー。犯行後、ただひとり生き残り、現地で服役も経験した岡本が、7月23日、政治亡命先のレバノンにて78歳で死去した。

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殺人に大義などない

 日本赤軍が結成されていく背景や、イスラエルからのパレスチナ解放を求める運動など、事件について様々な説明の仕方はあるだろうが、岡本公三容疑者はイスラエルの空の玄関口といえる空港で26人を殺した3人組の犯人のひとりである。羽田や成田空港で海外からやってきたテロリストが、銃を乱射して多数の犠牲者が出たなら、日本はどう反応するだろうか。

岡本公三

矢面に立たされた在イスラエル日本大使館

 事件同日、在イスラエル日本大使館は、いつもより少しゆったりした時間が流れていたという。都倉栄二大使の結婚記念日だったからだ。夜遅く、凄惨な事件の第一報が大使に伝わる。空港で多数が殺害され、犯人は日本人らしい。

 1915年生まれの都倉大使は官僚臭とはほど遠い、物腰の柔らかい人物だった。長男の都倉俊一氏は山口百恵やピンク・レディーの数々のヒット曲を手がけた人気作曲家になり、文化庁長官を務めている。だが、都倉大使自身が歩んで来た道は険しかった。ロシア文学にひかれて語学を学んだところ、恩師の勧めで外務省に入り、ソ連情勢分析の最前線に。在満洲国日本大使館で敗戦を迎え、シベリア抑留を経験している。初めて大使として赴任した国が近隣国との関係の難しいイスラエル。そして乱射事件の矢面に立つことになった。

 未明になり犯人が日本人と確実視される。岡本は身柄を拘束され、奥平剛士と安田安之の両日本赤軍メンバーは犯行中に死亡していた。イスラエル国民は怒り、日本との即時断交を主張する閣僚も現れた。

 東京の外務省本省が対応に手間取るなか、都倉大使は独断に近い状況で、公に謝罪することを決めた。都倉大使は謝罪の言葉をヘブライ語に訳してもらい、カタカナ読みしながらテレビを通じてイスラエル国民に詫びた。思わず流れた涙は外交官としていかがなものか、とも受け止められたが、誠意は伝わった。イスラエルの時の首相も都倉大使の謝罪を引き合いに、世論の鎮静化に努めた。

パレスチナ解放人民戦線と日本の過激派

 この無差別乱射事件は、イスラエルからパレスチナを解放する闘争の一環として、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が計画し、日本赤軍、正確にはまだ日本赤軍とはっきり名乗っていないがPFLPと共闘していた日本の過激派が起こしたものだ。

 事件の前年にあたる1971年、革命の拠点を海外に置き、世界革命へと発展させていく国際根拠地論に基づいて、日本赤軍の最高幹部となる重信房子がレバノンに出国する。こうして当初はPFLPに参加するような形で軍事訓練を始めた。

 同じく1971年、映画監督の若松孝二氏と足立正生氏は、重信房子らに案内してもらいながら、PFLPのキャンプや軍事訓練の様子をドキュメンタリー映画『赤軍−PFLP世界戦争宣言』にまとめた。若松監督は「お前たちは帰る場所があるけれども俺たちが故郷に帰るには武器を取るしかない」と撮影中、PFLPのメンバーに言われたことが印象に残ったという。この言葉は「お前たち日本人は本当にパレスチナ解放の切実さがわかっているのか、覚悟はあるのか」との問いかけを含んでいるはずだが、日本人の過激派はただただ突き進んでいった。

岡本公三という男

 岡本公三は1947年、熊本県出身。父は小学校で校長をしていた。2歳年上の次兄、岡本武容疑者は1970年によど号ハイジャック事件を起こして北朝鮮に渡ったひとりで、現地で死亡したと伝えられている。革命実現のために強力な武装が必要と唱える過激な左翼思想は、この次兄の影響を受けている。次兄を尊敬しており同じように京都大学への進学を志したが果たせず、2年浪人して鹿児島大学に進んだ。そして次兄に学びながら急進化していったのだ。

 岡本公三は、1972年に起こしたイスラエルの乱射事件でひとり生き残り、現地での裁判で終身刑の判決が確定する。

週刊新潮に寄せた手記

 服役中の1975年、『週刊新潮』に自身を振り返る長文の手記を寄せた。次兄に追いつきたいと背伸びをしているうちに、自分で判断や収拾がつかない段階に来てしまった人物なのでは、と感じさせる文章だ。

 次兄の勧めで参加した集会を〈名前のわりに中身のない集会で、こうしたものが積み重なると、「名が知られているわりに実力のないヤツ」がはびこってくることになる〉と、今なら「上から目線」と言われそうな態度でくさし、〈学園紛争の持つ限界を感じることのできない連中が左翼を名乗っていると思えば、やはりシャクにさわった〉と、他派をけなす。若い時にはいきがってみたくなるものだが。

 次兄と翌朝まで話しこんだ時には〈左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること〉などと諭されている。どうやら深夜喫茶での会話らしく、お店でこんな話をしていて大丈夫なのかと他人事ながら思うが、弟は〈兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実〉で、〈次兄の話は観念的「革命論」を否定し、「実力あるもの」「中身のあるもの」を追求するための起爆剤として作用した〉と回想する。

 それが無差別乱射につながっていくのだろうか。

 乱射事件から間もない時期、兄弟ふたりのありようは、朝日新聞にまで「過激に走った“秀才兄弟”」「なぜ迷惑かける子に…」などと書かれている。

 1970年に起きた三島由紀夫の自裁にも触れている。〈彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人たちに対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか〉と力がこもっているが、自身は骨のある左翼人と言いたいのだろう。

 先に挙げた若松監督の映画『赤軍―PFLP世界戦争宣言』にも触れている。

〈軍建設の困難を身をもって感じるものにとっては、こうした映画は必要ないともいいきれる〉〈爆薬製造に関するチャチな本を乱発したり、映画を作ってみたりすることは、左翼たるもの厳に慎むべきである。こうした乱発が、なんの意味もない「戦争ごっこ」を誘発し、真の武装闘争の妨害物に転化してしまう危険性は、常に考えねばならない〉と記しながら、その若松監督から金を調達したことも正直に書いている。

 若松監督が『赤軍―PFLP世界戦争宣言』を鹿児島大学で上映しようとした時、大学側との交渉を引き受けたことも振り返っている。よど号ハイジャック犯の実弟であることから、若松監督に〈オマエもあんな偉い兄を持ってうれしいだろう。少しはガンバれ〉と芋焼酎を飲みながら話し合ううちに言われた。〈おだてに弱い私は、悪い気はしなかった。ニヤッと笑い返しておいたが、「よし、おれも」という思いが、桜島の煙よりも高く天にのぼっていった。今、振り返ってみて、もし、あの時、若松孝二とあんな話をしなかったなら、こんな遠い国までやってきていないのではないかと思う。あの夜が、私の人生を決定したといってもいい〉

 世界革命、パレスチナ解放運動への連帯、思いは様々あれども、最終的に自尊心をくすぐられた、ということだろうか。

日本出国から3カ月で逮捕

 1972年2月末、出国。レバノンのPFLPの施設で自動小銃の射撃訓練を受け、5月30日の惨禍に至るのである。時に24歳。

 1972年の事件当時、在イスラエル日本大使館で参事官を務めていた、松藤淳氏は事件直後から約5年にわたり、月に1回程度、岡本と面会を続けていた。その時期の様子を1985年に『FOCUS』の取材に答えている。聖書、仏典、内藤國雄九段の詰将棋の本などを本人の希望で差し入れたこと、将棋はアラブ人受刑者に教えていたほど好きで、「同期の桜」や故郷熊本の「五高寮歌」を歌っていたという。

 長期の拘禁の影響からか、様子がおかしいように見え始めたのは、1977年頃からとも言われるが定かではない。

釈放、しかし

 1985年、岡本はイスラエルとパレスチナ側の捕虜交換で釈放。日本赤軍が拠点にしていたレバノンに戻り、合流した。アラブの英雄扱いされる一方、表情はうつろで言動も不安定。これが本当の姿か、それとも欺くための演技なのか、見解が分かれた。岡本らが起こした無差別乱射事件以降も、日本赤軍はハイジャックや在外公館の占拠など国際的テロ事件を次々に起こしており、岡本復帰が組織に与える影響が注目されていたのである。

 逮捕を受け入れてでも日本に帰国するのではとの見方は薄かった。よど号事件にイスラエルでの乱射。そうした兄弟の犯罪により岡本家や親類は辛酸をなめており、いまさら帰る場所はなかった。

 レバノンは岡本をはじめ日本赤軍メンバーの存在を黙認していたが、1997年、旅券偽造などの容疑で岡本を含む5人が逮捕され、実刑が確定。2000年に刑期を終えると、岡本以外の4人は日本に強制送還され、岡本は政治亡命が認められた。まだ、岡本は別格扱いされていたのである。

幽閉者

 岡本はPFLPから日常生活の支援を受けていた。日本からの取材にも応じており、時折望郷の念を示している。一方で、殺人の容疑者である立場は変わらず、帰国すれば逮捕される。足立正生監督は岡本をモデルにした映画『幽閉者(テロリスト)』を2007年に公開、電話やスカイプで連絡を取っていた。若松監督も2012年に他界するまで、時折、岡本を訪ねた。結果として若き日の岡本を煽る形になって以来、長い関係だ。

 2022年、岡本は事件から50年に合わせた行事に姿を見せていた。

 日本赤軍自体は重信房子最高幹部が2000年に潜伏していた大阪府内で逮捕、翌年、重信が獄中から解散宣言をしたものの岡本以外に手配中の6人の所在が不明のまま。重信も2022年に刑期を終えている。

 岡本の死去はPFLPから発表された。最後まで面倒を見たことになる。7月23日、78歳で他界。日本を発って54年が過ぎていた。だが、その歳月を受け止めていただろうか。

 1975年、『週刊新潮』に寄せた手記では〈私は、今、終身刑という判決と向い合っている。この刑期を、まっとうしない限り、私は私のために、ムダな死を遂げた人々に、罪の償いをすることができない。私一個の人生にはかえられない、多くの人生を無にしてしまったのだから〉と省みていた。しかし、捕虜交換により約13年で釈放された。以後、これ以上明確な謝罪は公に見受けられなかった。

デイリー新潮編集部