旧宮家の久邇朝宏さんが「手を挙げる人はいない」と養子案を一蹴…政府が進める「皇室典範」改正への本音
政府は6月30日、「女性皇族が結婚後も皇族身分を保持する」「皇籍離脱した旧11宮家の男系男子を皇室の養子に迎える」の2案を柱とする皇室典範改正案を閣議決定した。この改正案について、多くの学識者から「根本的に世論とかけ離れている」という声が上がっているが、当事者である旧宮家の本音はどこにあるのか。終戦直後に皇籍を離脱した旧11宮家のひとつである久邇家の当主・邦昭氏の弟で、3歳で皇籍離脱を経験している久邇朝宏さん(81歳)に、幼少期の暮らしや養子案への率直な思いを聞いた。
「あなたは特別な方なんですよ」
――久邇さんは昭和19年(1944年)10月、父・久邇宮朝融王、母・知子女王の三男として誕生され、3歳のときに皇室離脱を経験されました。当時の久邇家の生活ぶりはどのようなものでしたか?
そういうことになっているようですが、物心がつく前のことであり、皇室離脱前のことや離脱時のことはまったく覚えていません。
私が生まれたのは、かつての渋谷区宮代町。現在の広尾です。敷地は3万坪あったそうですが、のちに日赤と聖心女子大学に売却したと聞いています。
私の時代、学習院にはまだ幼稚園がなかったため、麻布にある三井財閥系の若葉会幼稚園に通いました。この頃は渋谷区の常盤松に住んでいました。ここも3000坪くらいあったようです。
昭和26年(1951年)、学習院初等科に入学して半年が経った頃、新宿区の西落合に引っ越しました。ここも700坪くらいあり、近所には哲学堂公園、歩いて2〜3分の場所に高さ10〜20メートルほどの立派な給水塔がありました。
当時は父の運転手がいて、いまで言うお手伝いさん、女中の方が2人いました。お手伝いさんからは「ひろ様」と呼ばれていましたね。運転手がいたくらいなので、それなりだったと思いますが、生活はごく普通でしたよ。国からの優遇などは何もありませんでしたし、皆さんと同じです。
――ご自身が旧宮家の出身だと認識されたのはいつ頃でしたか?
学習院初等科の半ば頃、「あれっ」と思う出来事がありました。私は三笠宮家の簶子(やすこ)さんと同級生でした。三笠宮崇仁さまの長女で、いまは結婚されて近衛簶子さんですね。遠足でぶどう園に行った際、カメラマンから「あなたはこっち。簶子さんはこっち」と並んで写るように指示されたことがきっかけです。
初等科のクラス分けは伝統的に「東組」「西組」「南組」「北組」となっていますが、私が入学したときは「東組」「西組」の2クラスだけでした。簶子さんは「東組」、私は「西組」。組が違うにもかかわらず、なぜ並ぶのだろうと。そのときに「自分は特別な存在なのだろうか」と何となく意識しました。
それ以来、自分からそういう匂いを発しないよう、なるべくジッとしていました。友達は何となく気づいていたのかもしれませんが、そういう話をしたことはありません。むしろ、「絶対に内緒にしておかなければならない」と意識していました。
いまでこそこうして自分の思いや考えを発信していますが、高校生くらいまではとにかく内気な性格で、目立たないように隠れているような子供でした。
ちなみに、「東組」の担任は、のちに科長(校長)になった先生です。非常に学習院らしい先生で、簶子さんはそういう先生に学び、皇室に馴染んでいったのだと思います。一方、私がいた「西組」は、ごく普通の先生で、普通の教育でした。先生にそうしたことを言われたこともないですし、他の生徒同様に怒られることもありました。
――旧宮家であることについて、ご両親やきょうだいはどのような話をされていましたか?
母は早くに亡くなったので、そうした会話をしていません。父からも「うちはこういう家だ」「昔は宮家だったんだ」といった話はまったくありませんでした。逆に、お手伝いさんから言われたことはあります。先ほどの初等科の遠足の頃、お手伝いさんの1人に「あなたは特別な方なんですよ」みたいなことを言われたのが初めてです。
私は8人きょうだいの末っ子ですが、きょうだい間でもそういった話をしたことは一切ありません。上の兄(邦昭氏)は16歳年上です。兄は海軍兵学校に進み、会社を退職後、伊勢神宮の大宮司を務めるなど様々な経験をしています。ただし、先週も兄と会って話をしましたが、この件については何も話をしていません。理由ですか? そのような話をしてもそこから何も生まれないからです。内心それぞれに考えていることはあるでしょうが、私以外に外に出す人はいませんよ。
広尾3万坪の邸宅から日立のサラリーマンへ
――学校や勤務先で、ご自身が旧宮家出身であることを明かさなかったそうですね。
自分からそんなことを言ったら「負け」だと思っていたからです。「あいつは皇族なんだ」という目で見られたり、学校でいくら良い点を取っても「裏で何かやっているのではないか」と疑われたりする心配をしていました。ただ、その心配が逆に「頑張らなければいけない」という発奮する思いや人生の原動力になっていた面もあります。学習院の理学部を卒業後、日立製作所に入社しました。出世はできませんでしたが、それなりに頑張ったと自負しています。
――旧宮家であることについて、奥様はどのような反応でしたか?
妻の父親は東大を首席で出て国鉄に入り、新幹線建設を主導した立派な人物ですから。それもあり、妻は、我が家がそういう家系であることを薄々知ってはいましたが、あまり驚いていませんでした。
――いま、久邇さんや他の旧宮家の方々は、どのような生活をされていますか?
ごく普通の家庭であり、生活です。きょうだいを見ても、いわゆる日本人の平均的な家に住んでいます。
――皇族の方々との交流はありましたか?
父の妹に当たる叔母の香淳皇后(昭和天皇の皇后)は非常に気さくな方で、普通の叔母さんと甥っ子のように、おしゃべりを楽しめる関係でした。立場上、口では「皇后」とお呼びしていましたが、気持ちの中では身近な親戚のおばさんとして、小学生の頃からずっと親しく接していました。
戦後、11宮家を皇籍離脱させる際、昭和天皇の「君たちは兄弟のようなものだから時々集まりなさい」というお言葉で「菊栄親睦会」という親睦会が作られました。三井家の記念館の庭園などに集まって交流していましたが、十何年前からは開催されなくなっています。
また、島津家にルーツを持つ関係者が集まる「錦江会」という親睦会もあります。鹿児島の錦江湾が名前の由来とのことです。私の祖母(久邇宮邦彦王妃の俔子妃)は島津家から嫁いできて、久邇宮家の妃になりました。その縁でしたが、こちらも最近は開催されていません。
――現在でも旧宮家との交流はありますか?
父が健在だった頃は、旧宮家同士で盛んに集まりがありましたが、時代が経つにつれて徐々にだれてしまい、いまでは開催されなくなっています。
――旧宮家の男系男子を「養子」として皇族に迎える案をどう考えますか?
15歳以上で、かつ独身ということですね。手を挙げる人がいるのかな。これが率直な思いです。何よりもご本人の意見や考え方を尊重していただきたい。そういう立場になりたくないというのであれば、それを尊重すべきだと思います。逆に、ぜひなりたいという人がいるなら大いに結構だと思いますが、本当にふさわしい人なのかどうか、国民から認められる人なのか、最終的にはテストのようなものをして、しっかりと見極める必要はあるのではないかと考えています。
――実際に養子になる男子は現れると思いますか?
15歳以上までずっと自由に生きてきた人が、これから社会に出ようという段階になって、わざわざ皇室の厳しい制約を受けるのか。手を挙げる人がいるとは思えません。
後編記事『「愛子さまは女性天皇になりえる方」と旧宮家の長老が絶賛…学習院OB会で見せた「知られざる素顔」とは』につづく。

