「お母さんが作ったカレーが食べたい」…児童8人を刺殺した「宅間守」、婚約者の「母」に執着した異様な“マザコン気質”【附属池田小事件から25年】
【写真】「なぜこんなことを」…日本社会に衝撃を与えた「宅間守」 校門前には献花が絶えなかった
婚約者の「母親」に執着した理由
第1回【「殺したるんや。我慢の限界じゃっ」…児童8人を刺殺した「宅間守」、知られざる婚約者の「母」が聞いた元妻への罵倒【附属池田小事件から25年】】を読む
2001年6月8日、普段は子供たちの明るい声が響く小学校は惨劇の舞台に変わった。校内に侵入した宅間守(37=当時)が、出刃包丁で児童8人を刺殺し、児童と教師15人に重軽傷を負わせた「附属池田小事件」である。事件から1年と少しが過ぎ、大阪地裁で検察側が死刑を求刑したころ、「週刊新潮」は宅間の素顔に迫る新たな記事を掲載した。

4回の結婚離婚を繰り返した宅間は、死刑確定後に獄中結婚したことでも知られる。だが、池田小事件の直前にも婚約者の女性がいた。医師と偽ってこぎつけた婚約だったが、婚約者の母親は「何かおかしい」と気づく――。ジャーナリストの今西憲之氏によるレポート、その第2回を再掲する。
(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」2003年6月5日号「特別レポート『マザコン』だった宅間守」を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のものです。敬称略)
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激怒し「つきまとったるからなー」
調べてみると、宅間が実家だと教えてくれた箕面市の高級住宅街という住所はただの山中。兵庫医大にも該当する医師はいなかった。
住んでいるという高級マンションを訪ねても、宅間の表札はなかった。おかしいと思って外に出たときに鉢合わせしたのが宅間だった。30歳くらいの女性と手をつないで歩いていた。
高級マンションの目の前のワンルームマンションに住んでいたのだった。
3月15日、英子に代わって母親は大阪府北部の幹線道路沿いにあるファミリーレストランで、宅間に英子と婚約を解消して別れてくれるように頼んだ。
結婚式の打ち合わせかと思った宅間は不意をつかれ、激怒した。それでも母親はガンとして折れなかった。
「ひつこくつきまとったるからなー」
「ぐしゃぐしゃにしたる」
宅間はにやっと笑い、語尾を伸ばす独特の口調で言った。英子への宣戦布告かと思ったが、実は母親に向けてのものだった。
婚約解消後も母親に電話
宅間は、婚約解消後に母親の携帯電話を執拗に鳴らし、英子にプレゼントした21万円のブレスレットを返却するように求めた。返しに出向いた母親に、
「車に乗ってえなー」
と宅間は言った。助手席に乗ると、得意満面にカーナビゲーションの操作をはじめたのだった。
「新しく買ったんや。テストしたいから、ドライブに付き合ってな。お母さん」
嬉々として操作を続ける宅間。子供が母親にねだっておもちゃを買ってもらった時のような表情だったのが、母親には印象的だった。
宅間はストーカーのように母親に電話をよこした。母親のパート先である、クリーニング店まで押しかけては、簡単な仕事を手伝いながら、付きまとった。4月はじめ頃だった。母親に電話をかけた宅間は雑談をしていると、突然、泣きじゃくった。
「お母さん、俺は医者やないんや。勤務してるって言った精神病院は自分が通院していたんや。英子ちゃんに勤務の帰りって電話した時も、トラックの運転してたんや」
母親は仰天した。疑いはあったが、医師だとはずっと信じていた。
「昔は伊丹市の職員で市バスの運転や学校の校務員やってたんや。事件を起こしてクビになった」
母親は黙って聞くしかなかった。
「お母さんの家に住みたいんや」
その日を境に、宅間は母親を「お母さん」とより慕うようになった。
「本当の血液型はA型。O型と言ったのは貫禄があり、豪快に見えると思ったから」
「今まで、何度も犯罪で捕まった。けど、精神がおかしいフリして、病気と思わせて捕まってへんねん」
知らなかった事実を次々に明かす宅間に母親はびっくりするばかりだった。なぜ、宅間は自分の過去や今までついていた嘘をあらいざらいしゃべるようになったのだろうか。
「お母さんの家に住みたいんや。お母さんが作ったカレーライスが食べたい。お金払ってもええねん。お母さん、お願いや」
ある時、宅間は「お母さん」と連発しながら、母親にそうおねだりした。子供が駄々をこねるようだった。
「母親の愛がなくて育ち、ずっと憧れていたのか」
母親の頭にはマザコンという言葉がよぎった。
宅間は幼い頃から父に厳しくされた。宅間の母親は父の暴力と強引さに、宅間に優しく接することすらできず、ただ恐怖に怯えた。一時は、両親と離れて親族に預けられたこともあった。
宅間は中学生になると母親を暴力で、支配した。父に殴られた時も、やられたフリをして殴り返し、大ケガをさせたことがあった。家族や母の愛情に接したことはなかった。谷田さんは、
「ストーカーじゃない。私に母親の愛を感じ、思いを抱いているのかな。私が母であることで少しくらい役に立つならいいかな」
宅間のことが、かわいそうだなと思ったという。事件後、母親は警察に自ら出向いて、宅間との関係のすべてを説明した。警察は事件直前の宅間の心境の様子が参考になったと言った。
年上の女性は我儘が通じ易い
2003年5月22日の論告求刑では、約1時間半かかって検察官が要旨を朗読した。凄惨な事件現場を再現するような内容にさしかかると、涙をボロボロとこぼす被害者家族の姿が傍聴席に見られた。だが、宅間は気に留める風もなく、自らを誇示するように肩をいからせて裁判長を睨みつけた。だが、
「死刑に相当する」
検察官の言葉が法廷に響き渡った時、宅間の顔がみるみるうちに、紅潮したのが傍聴席からも見て取れた。
帝塚山学院大学の小田晋教授(精神医学)が言う。
「宅間被告には、反社会性人格障害に加えて、強い自己愛の傾向が窺われます。彼は、自分に奇妙な特権意識を持っており、無制限に自分の要求が適えられる事を求めていて、それが、適わないと攻撃に転じるのです。これを依存性攻撃といいますが、だから、我儘の通じ易い年上の女性にまとわりつくのです」
宅間の弁護をした戸谷茂樹弁護士は、
「今でも、彼はあの事件に関して、謝罪の意思を全く持っていません。弱者に対する共感の能力が欠けていて、反省の心理が存在しないのです。一貫して、覚悟の上でやったことだから命乞いをするつもりはない。死刑判決でも、“弁護団が控訴なんてしたら、オレ、自分で取り下げるからね”と言ってました。弁護団の中でも、今後どうするかについては、意見がわかれています」
論告求刑の日、宅間が法廷に着てきたブルーのシャツ。その背中には、「White Devil」(白い悪魔)と刺繍がされていた。彼が何を意図して、そのシャツを着たのかは定かではない。
(以上、「週刊新潮」2003年6月5日号「特別レポート『マザコン』だった宅間守」より)
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死刑確定後に獄中結婚
2003年8月28日、大阪地裁は宅間に死刑判決を言い渡した。この際の宅間は開廷前の発言により退廷となり、主文は被告人不在の場で読み上げられている。
先の記事で戸谷茂樹弁護士が語った通り、宅間は死刑判決に控訴しないよう求めていたが、議論を重ねた弁護団は独自の判断で控訴に踏み切った。取り下げの判断を委ねられた宅間は、宣言通りに自ら取り下げ、死刑を確定させた。さらには戸谷弁護士に対し早期の死刑執行を「望みます」と伝え、6カ月以内に執行されなかった場合は国を相手に賠償請求訴訟を起こすつもりだった。
死刑は2004年9月14日に執行されたが、死刑確定から執行まで「異例の早期」と報じられた。一方でそれまでの宅間は、支援者女性と獄中結婚をしている。この女性は宅間の遺体を引き取り、最後は骨を拾った。死刑囚は遺骨で“出所”するケースが大半だが、遺族の希望があれば遺体で引き渡される。宅間の場合は、妻となった支援者女性の希望だった。
ニュースを見た瞬間、宅間の犯行だと確信した――。第1回【「殺したるんや。我慢の限界じゃっ」…児童8人を刺殺した「宅間守」、知られざる婚約者の「母」が聞いた元妻への罵倒【附属池田小事件から25年】】では、宅間が母娘に近づいた経緯や、事件発生時の衝撃を伝えている。
今西憲之(いまにしのりゆき)
1966年生まれ。大阪を拠点に週刊誌などで取材・執筆活動を展開。著書に『私は無実です 検察と闘った厚労省官僚村木厚子の445日』『原子力ムラの陰謀』など。
デイリー新潮編集部
