背番号3。バットを構えた往年の長嶋茂雄が、マウンドの大谷翔平に鋭い眼光を向ける。夢の対決をCGで実現する「セコム」のテレビCMが放送され始めた2025年3月15日。2人は、東京ドームの一室で再会を果たしていた。

【画像】車いすで…長嶋茂雄さんと大谷翔平選手の“奇跡のツーショット”

 長らく長嶋の専属広報を務め、その場にも立ち会った小俣進が述懐する。

「車椅子の長嶋さんはあまり喋れる状態でなかったですし、『やあ、元気か』といった感じで。試合前の練習中に時間を作ってくれた大谷選手も『お久しぶりです』と応じていました」

 それが公の場に姿を見せた最後の日だった。約3カ月後の6月3日。長嶋は89年の生涯を終える。

 太陽のように時代を照らしてきたスーパースターが旅立ち、1年が経った。その残像は、今もなお、眩い輝きを放ち続ける。


長嶋茂雄さん

 長嶋のスター街道は、東京六大学野球リーグで当時の本塁打記録を樹立した立教大学時代から始まった。

 1955年12月、フィリピンで開催されたアジア野球選手権大会。当時、長嶋を含む日本代表は東京六大学の選抜軍だった。出場した慶應義塾大学OBの佐々木信也が語る。

「私が4年で長嶋は2年の時。長嶋とはホテルの部屋が同じで、2週間ほど過ごしました。あいつは部屋に戻ると寝てばかりいた。でも、グラウンドに立てば途端に躍動するんです。手加減なしの全力プレイで、例えば、併殺の送球。セカンドの私にサードを守る長嶋から快速球が来る。手が腫れ上がっちゃってね」

 3年後、“神宮の星”は鳴り物入りで巨人に入団した。スポーツジャーナリストの二宮清純が指摘する。

「長嶋さんの最大の功績を挙げるとすれば、1959年、天覧試合でのサヨナラホームランだと思います」

長嶋にとっての“格別な経験”

 昭和の天皇皇后両陛下が観戦されたのは、同年6月25日、後楽園球場で行われた巨人対阪神戦。プロ2年目の長嶋は、村山実からレフトスタンドにサヨナラホームランを叩き込む。

「初の天覧試合の成功でプロ野球は、人気と権威を獲得。人気面で六大学野球の後塵を拝し、“職業野球”と蔑まれた時代と決別したのです」(同前)

 天覧試合は長嶋にとっても格別な経験となった。

「後年、長嶋さんに聞いたところ、『自分は大舞台で強いと、自信を深めることができた』と、あの試合を振り返りました」(同前)

 その2カ月前、現上皇と美智子さまのご成婚パレードが全国中継され、家庭用の白黒テレビが爆発的に普及。お茶の間に届く“ミスター・プロ野球”の華やかさは、国民を魅了し、やがて高度経済成長を遂げる戦後日本の象徴となっていく。

《この続きでは、▶オフに極秘会食 大谷は「後光が差すのが見えた」、▶松井以外も!車椅子で坂本に「涙のバッティング指導」、▶10・8次女・三奈に「どうしよう、寝られない」、▶地獄の伊東キャンプ「篠塚の反逆」と「オナラ連発」など秘話を関係者の証言とともに報じている。秘話満載の記事全文は現在配信中の「週刊文春 電子版」および6月4日(木)発売の「週刊文春」で読むことができる》

「サインを覚えようとせんのが1人おる」V9監督・川上哲治が笑った“巨人の欠点”…柴田勲が振り返る長嶋茂雄秘話〉へ続く

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2026年6月11日号)