「死ぬこと」を命じられた若者たち…指名された「最初の特攻隊員13名」が「志願」を強制されるまでの「あまりに悲壮なやりとり」

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今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和191944)年1025日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第4回)

第3回『「空母撃沈11隻、撃破8隻」と大ウソの大本営発表がなされたが…のちの「特攻」にもつながる「台湾沖航空戦」の大損害の実態』より続く

「捷一号作戦」発令

フィリピンの海軍航空戦力の主力・第一航空艦隊(一航艦)が司令部を置くマニラから、クラーク・フィールド、マバラカット基地近くの第二〇一海軍航空隊本部までは北に約80キロ、車で2時間あまりの距離である。

昭和19(1944)年10月19日。大西瀧治郎中将と副官・門司親徳主計大尉を乗せた黒塗りの乗用車が、一航艦司令部を出発したのは、午後3時半のことであった。大西は軍需省航空兵器総局総務局長から一航艦司令長官に親補されることが決まり、レイテ島のレイテ湾口に位置するスルアン島に米軍が上陸したとの一報を受けた10月17日、台湾・高雄基地から輸送機でマニラに飛んできていた。

10月18日夕、敵のフィリピン進攻に備えてあらかじめ定められていた「捷一号作戦」が発令され、日本海軍は総力をもって米軍を迎え撃つことになっている。

19日の早朝、大西は作戦方針を前線指揮官に伝えるため、指揮下にある二〇一空(零戦)、七六一空(陸攻、艦攻)の司令、飛行長に、司令部に出頭するよう命じた。

マバラカット基地へ

正午になって七六一空司令・前田孝成大佐と飛行長・庄司八郎少佐がクラーク・フィールド西方山麓のストッツェンベルグから姿を見せたが、同じくクラーク・フィールドのマバラカット基地から来るはずの二〇一空司令・山本栄大佐と飛行長・中島正少佐は姿を現さない。

この日、マバラカットは度重なる米艦上機の攻撃を受け、戦闘指揮にかかり切りで動けなかったのだ。山本大佐と中島少佐が、ようやく車でマバラカットを出発したのは、午後2時5分。しかし、そのことを知る由もない大西は、自らがマバラカットに赴くことを決めた。

「午後3時ごろ、参謀長・小田原俊彦大佐に呼ばれて、大西長官がクラークに行くから用意しなさい、と言われました」

と、門司(1917-2008)は私に語っている。

当時、フィリピンの治安は非常にわるく、基地から離れた地点に不時着した日本軍の搭乗員が住民に物品を奪われ惨殺されたり、日本軍将校を乗せた車がゲリラに襲撃されるなどの事件がしばしば起きて、夜は特に危険だと言われている。

上空を飛ぶ敵機から発見されにくいよう屋根に木の葉の擬装を施した車は、マニラの海岸通りから市街地を抜け、郊外の国道に出るとルソン島中部の平野を北上する。将官乗車中を示す黄色い将官旗は、ゲリラの格好の目標になるので、道中は外している。

門司は、大西と並んで後席に座っている。大西が右、門司が左。運転席では、司令部の運転員が黙々と運転している。

「決死隊」の編成

会話は全然ない。門司は、副官というのは、空気のような存在であるべきだと思っていた。必要な仕事をこなせば、あとは長官の邪魔にならない程度に控えめにしているのがちょうどいい。長官も、考え事をしたいときがあるだろう。だから、長官が口をきくか、用があるとき以外は黙っている。そうすると、長官も、副官の存在が気にならなくなるようであった。

大西は、マニラを出てからずっと黙っている。門司もあえて話しかけることはせず、窓の外を眺めている。右前方にアラヤット山という擂鉢を伏せたような形の山が見える。その向こう側の空に、墨色の雨雲が見えた。

「暗い陰鬱な雲だ。あの下は雨かな」

と思って見ていると、不意に、大西が低い声で何かをつぶやいだ。門司は、始めはよく聞きとれず、「は?」とちょっと顔を右に向け、耳を澄ませた。大西は、今度は門司にもはっきりと聞きとれる声で、

「決死隊を作りに行くのだ」

と言った。門司は、ただ、そうか、と思い黙っていた。大西の言う「決死隊」が体当り攻撃隊を意味するものだとは、そのときの門司には知る由もない。

大西は、それ以上一言も言葉を発せず、また沈黙が続いた。街道はダウの町に入り、鉄道線路の近くを通ってさらに北上する。町を出て草原を抜けると、めざすマバラカットまではもうすぐである。

マバラカットの飛行隊長

大西中将と門司副官を乗せた車は、やがてマバラカットの集落に入った。

「道の両脇に、屋根をニッパ椰子の葉でふいた高床の粗末な家が並んでいますが、左側に赤い瓦屋根の、ひときわ目を引く立派な西洋館が建っていて、ここが二〇一空本部でした。卵色の壁に窓枠は緑色、建物の周囲を低い塀で囲っていて、門を入ると前庭があり、右手に葉っぱの茂った大きな樹がある。

あとで知ったところでは、この家はフィリピン人のサントスさんという人の屋敷で、昭和191944)年、日本軍が接収して使っていたそうです。サントスさん一家は子沢山の家でしたが、当時は母屋の裏の物置小屋のような小さな家に押し込められていました。

車は前庭に入って警笛を鳴らしましたが、周囲は人気がなく、静まり返っていて誰も出てこない。23度警笛を鳴らすと、やっと従兵らしき兵がでてきました。

『大西長官が来られたんだが、誰か士官はいないか』私が従兵に言うと、従兵は『ちょっとお待ちください』と屋内に入り、やがて髪の毛をボサボサの長髪に伸ばした痩せ型の大尉が、急いで出てきました。戦闘三〇五飛行隊の飛行隊長で、二〇一空の飛行隊長のなかで最先任にあたる指宿正信大尉でした。体の具合が悪く、宿舎で休んでいたようです。なぜ急にマバラカットに長官が現れたのか、腑に落ちない様子でした」

指宿大尉は、車から降りていた大西に敬礼をして、

「司令と飛行長はマニラに行っており、玉井副長は飛行場に出ております」

と言った。

「じゃあ、飛行場に行こう」

大西は、指宿に案内を命じて車の隣の席に乗せた。ここまで来ればゲリラの心配はないから、車の前方のポールに黄色い将官旗を結え付け、門司は助手席に移った。車は、いま来た街道をさらに北へと進んだ。

旧知の中佐との再会

粗末な家並みの背後には杉や松のような針葉樹の林があり、二〇一空の兵舎はそのあたりに散在している。林が切れると広い草原が広がり、道路の左(西)側に「マバラカット西」、右(東)側に「マバラカット東」、二つの飛行場があった。

車は、指宿の指示に従い、マバラカット東飛行場に入った。飛行場の端には、天幕を張った粗末な指揮所があった。指揮所には士官用の折椅子と、下士官兵が座る木の長椅子が数脚ずつ置かれている。車が停まると、門司は急いで降りて後席のドアを開けた。指宿と大西が降り立つと、二〇一空副長・玉井浅一中佐と第一航空艦隊先任参謀・猪口力平大佐が怪訝な顔をして、折椅子から立ち上がった。

車から降りた将官が大西であることに気づいた玉井は、門司によれば、

「親しさを顔に表して、まるで親分を迎えるような感じ」

で駆け寄ってきたという。

猪口は、数日前からマバラカットに作戦指導に来ていて、ここで大西と、先任参謀として初めて顔を合わせた。生粋の戦闘機乗りである玉井とちがい、航空屋ではない猪口は大西に馴染みはなかったが、その後の作戦を通じ、次第に信頼を深め合っていたように門司の目には映っている。

コンクリート舗装のされていない草原だけの飛行場は、もう遠くが見えないぐらいに夕闇が迫り、空は暗くなり始めていた。大西は、天幕のなかの折椅子に腰かけると整備員たちが1日の後片付け作業をするのを黙って見ていたが、やがて辺りがすっかり暗くなると、玉井に促されて車に乗り込み、搭乗員を満載した二〇一空の乗用車とともに本部に戻った。

「特攻隊」の結成

二〇一空本部の士官室は、玄関を入って左手の応接間であった。士官室に入ると大西は、第二十六航空戦隊参謀の吉岡忠一中佐を呼ぶよう、従兵に命じた。ルソン島やセブ島の基地整備を統括する二十六航戦は、有馬正文少将が戦死したので司令官は不在、吉岡が最先任の立場にある。そして大西は玉井に、

「ちょっと話があるんだが、部屋はないかね」

と訊いた。この建物は比較的大きな西洋館だが、士官室以外の部屋はすべて司令以下、准士官以上の寝室になっていて、士官室のほかに人が集まれる部屋がなかった。

「ベランダにしましょう」

玉井は答えた。門司が玉井について2階に上がってみると、2階は真ん中が板張りの狭いホールで、家財道具が取り払われた床の上に仮設ベッドがいくつか並んでおり、周囲の部屋は士官たちの個室になっていた。

道路に面したドアを開けると、建物の正面が凹字型に凹んでいて、手すりのついた部屋のようなベランダになっていた。

「ここに椅子を並べよう」

と玉井は言い、従兵に折椅子を持ってこさせた。狭いベランダに、6〜7脚の椅子が、半円形に並べられた。そこに大西長官、猪口参謀、玉井副長、戦闘三〇五飛行隊長・指宿大尉、そして戦闘三一一飛行隊長・横山岳夫大尉が座った。いまマバラカットにいる二〇一空の飛行隊長以上の士官は、ここにいるだけで全てである。大西中将と入れ違いにマニラに着いた山本司令は、中島飛行長の操縦する零戦の胴体にもぐり込み、マバラカットに戻ろうと離陸した直後にエンジン故障で水田に不時着、脚の骨を折る重傷を負ったためこの場には来られなかった。

ベランダには灯りがないので、ビール瓶に椰子油を入れたカンテラを床に置いた。フィリピン産の小型のビール瓶の口に詰めたボロ切れがオレンジ色の小さな焔を上げ、居並ぶ士官たちの顔を下からほのかに照らした。門司は、この様子を見わたし、ちょっと異様な雰囲気を感じながら、今晩の大西の宿泊の世話や食事の打ち合わせのためその場を離れた。「飛行隊長以上」の会談に副官が出るのは作法に反する、という意識が働いたこともある。だが門司は、

「もっと図々しく、この会談にそのまま知らぬ顔で侍立していればよかった。出て行けとは言われなかっただろうに」

と、戦後もずっと悔やんでいた。

禁断の作戦

門司が階下に降りてすぐ、吉岡参謀が会談に加わるため、2階へ上がっていった。

「ベランダの会談は、それほど長い時間ではなかった。1時間、いやもっと短かったかもしれません。会談を終えたみんなが階下に降りてきて、ここもビール瓶のカンテラを置いた薄暗い士官室で、一緒に夕食をとりました。食事はライスカレーでした」

と、門司。会談の内容は、門司には知る由もなかったが、ここで大西の言う「決死隊」の編成についての話し合いが持たれていたのだ。

このときの会談の模様は、戦後(昭和26年12月25日初版)、海軍特攻隊の「正史」として、猪口力平、中島正両名によって著された『神風特別攻撃隊』(日本出版協同株式会社)に書かれているが、この本は「命じる側」の論理で残されていて、信憑性はあまり高くない。同書には、次のように記されている。

〈長官は皆の顔をずつと睨むように見廻していたが、おもむろに口を切つて云つた。

「戦局は皆も承知の通りで、今度の『捷号作戦』にもし失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる。従つて、一航艦としては、是非とも栗田艦隊のレイテ突入を成功させなければならぬが、そのためには少くとも一週間位、空母の甲板を使えないようにする必要があると思う」

そう云つて長官は一寸口をつぐんだ。(中略)

「それには零戦に二五〇瓩(キロ)の爆弾を抱かせて体当りをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが・・・・・・、どんなものだろう?」

長官の逞しい瞳が、射すように我々の顔を見廻した。私(筆者注:猪口参謀)は思わず、ハッと胸打たれるものを感じた。居並ぶ全員も、粛然として声がない。

玉井副長の胸には、その瞬間ピーンと響くものがあつた。

《これだ!!》そう思つたそうである。〉

「会談」の別視点

この、昭和19年10月19日、マバラカットの二〇一空本部で行なわれた会談に参加した士官のうち、私が直接インタビューできたのは横山岳夫大尉(1917-2015)だけだが、横山の記憶による会談の様子は、猪口参謀の書いたそれとはややニュアンスが違う。

「生還を期さない決死隊を編成するということは聞きましたが、体当りとか、敵空母の飛行甲板を使用不能にとか、ここでそういう詳しい話を聞いた覚えはありません。大西長官の話が始まってほどなく、玉井副長が指宿大尉と立ち上がって、隅のほうでひそひそ話を始めた。私の戦闘三一一飛行隊は戦闘爆撃隊ですから、はじめから除外されていたような感じで、私は同席はしたけども、そのひそひそ話には加われなかったんです」

指宿との話を終えた玉井副長は、席に戻ると、

「編成については、全部二〇一空にお任せください」

と、大西に言った。

「うむ」

大西は頷いた。

爆弾を抱いた飛行機で敵艦に体当りする「特別攻撃隊」は、この瞬間、初めて実戦部隊に誕生したと言っていい。門司の回想――。

「食事が終わり、しばらく雑談してから、長官は休むことになり、ちょうど不在の山本司令の個室を寝室に使うことになった。2階の奥の左側の狭い個室で、仮設ベッドが置いてあるだけでした。長官が部屋に入ると、私も、士官室を遠慮して2階に上がり、ホールに並んでいる仮設ベッドの一つに上着を脱いだだけでひっくり返りました」

時々、窓の外がピカリと光った。雷鳴はしないが稲妻のようだった。バラバラと驟雨が降ってきた。門司は、灯りのなにもない暗いホールのベッドの上で、仰向けに寝ていた。

「すると、静かな宿舎のなかの、階下のどこかで、誰かが低い声で演説でもしているかのような、人の話し声が聞こえてきました。私は、その声を遠くに聞きながら、いつの間にか眠ってしまいました」

「特攻隊員」の指名

門司が眠っている間に、階下ではいくつかの重要な出来事が起きている。玉井副長はさっそく体当り攻撃隊の編成にとりかかった。このとき集合を命ぜられたのは、玉井が子飼いの部下と自他ともに認める甲種予科練十期生出身の満18〜20歳の若者だった。

「甲飛十期生総員集合」

深夜のマバラカットの集落に、二〇一空本部の従兵たちの声が響いたのは、10月19日、夜もかなり遅い時間であった。搭乗員たちは、接収した民家に飛行隊ごとに分宿している。

三々五々、徒歩で集まった甲飛十期生は、前庭の右手にある従兵室に入れられた。その人数は、前出『神風特別攻撃隊』によれば23名だが、甲飛十期の生き残り搭乗員の調査によれば33名である。当時、二〇一空には63名の甲飛十期生がいて、内地に飛行機を取りに帰っている数名と、傷病のため休んでいた者をのぞく約半数が集まった。

狭い従兵室に搭乗員を並ばせ、向かい合って中央に玉井副長、その背後に指宿大尉が立つ。玉井が、

「本日、大西長官が本部に来られた」

と、口火を切った。

「一週間、比島東海岸の制空権を握り、このたびの作戦を成功させることができれば日本は勝つ。そのためにはお前たちの零戦に爆弾を抱いて、敵空母に突っ込んで叩きつぶす必要がある。日本の運命はお前たちの双肩にかかっている」

搭乗員たちは、あまりに急な話に驚き、言葉も発せず棒立ちになっていた。「爆弾を抱いて突っ込む」というのはすなわち「死ぬこと」であり、躊躇があったとしてもおかしくない。玉井は、一段と声を大きくして言った。

「いいか、お前たちは突っ込んでくれるか!」

若くともすでに数多くの死地を経てきた搭乗員たちには、戦闘機乗りとしての誇りがある。空戦で、敵より技倆が劣っていて撃墜されるのなら仕方がない。だが、爆弾を抱いて体当りでは、なんのためにいままで厳しい訓練に耐え、腕を磨いてきたのかわからない。いつでも死ぬ覚悟はできている。現に多くの仲間が死んでいった。だが決死の覚悟で戦うのと、死が約束されている任務につくのとでは、天と地ほどの差がある――これは、零戦搭乗員の多くに共通する感覚だった。

不承不承の志願

反応がにぶいのに業を煮やしたか、ついに玉井が叱りつけるような大声で、

「行くのか、行かんのか!」

と叫んだ。

「その声に、反射的に総員が手を挙げた」

と、浜崎勇一飛曹は回想する。井上武一飛曹は、

「志願を募るというなんてことは一言も出なかった」

とも回想している。それは、形の上では「志願」だとしても、不承不承の志願だった。

ともあれこうして、全員が志願したことになったから、あとはいつ誰を指名するかは、玉井の肚一つである。夜半を過ぎた頃、甲飛十期生たちが重い足取りで宿舎に戻って1時間ほどが経った頃、自動車のライトが近づいてきて止まった。

「来た!」

と、誰かが低い声で言った。車から降りてきたのは二〇一空の要務士である。

「ただいまから特攻編成を通告する」

要務士は、明日20日の特攻編成を読み上げ、体当り攻撃隊員12名が指名された。

特攻隊初陣の指揮官

〈以上のような状況で、体当り搭乗員の主体である列機の方は問題なく決まつたが、次は指揮官を誰にするかである。(中略)この純真無垢な搭乗員を誰に託せばいいか?玉井副長との間に相談が始まつた。私(注:猪口参謀)は云つた。

「指揮官には海軍兵学校出身のものを選ぼうじやないか」〉

と、まるで他人事のように『神風特別攻撃隊』には書かれている。職責が違うからやむを得ないのかもしれないが、この場にいた猪口参謀、玉井副長、指宿大尉の3人とも、自分が第一陣の陣頭指揮にあたる気概があったとは認められない。

この時点で、マバラカットにいた二〇一空の戦闘機指揮官は、戦闘三〇五飛行隊長・指宿大尉、戦闘三一一飛行隊長・横山大尉のほか、海軍兵学校出身の分隊長級の大尉は、戦闘三〇五飛行隊分隊長・平田嘉吉大尉、戦闘三〇一飛行隊分隊長・関行男大尉の2名しかいない。実際には平田か関の二者択一で、結局、玉井が選んだのは新婚で母一人子一人の関であった。

甲飛十期生に体当り攻撃への志願をさせた玉井は、従兵に関を士官室に呼ぶよう命じた。

関は、そのとき腹をこわして2階の一室のベッドに寝ていた。もちろん、つい先ほど、体当り攻撃隊の編成が決まり、隊員の志願を募ったなどとは、そのときの関には知る由もない。

「命令」でも、「志願」でもない

「お呼びですか?」

と階下の士官室に現れた関に、玉井は椅子をすすめ、肩を抱くように二、三度軽く叩いて、

「関、今日、長官がじきじきに来られたのは、『捷号作戦』を成功させるために、零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当りをかけたいという計画を諮られるためだったんだ。これは貴様もうすうす知っていることと思うが、ついてはこの攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか」

と言った。これは、関にとっては寝耳に水のことであったに違いない。戦後、猪口から門司が聞かされたところによると、関ははじめ、

「一晩、考えさせてください」

と答えた。

だが、編成は急を要する。できれば明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけなければばならない。玉井は重ねて大西長官の決意を説明し、

「どうだろう、君が征ってくれるか」

関にたたみかけた。関は、

「承知しました」

と、短く答えた。「命令」ではないにしても、志願ではない。断ることのできない状況で、限りなく強制に近い説得に応じたのであった。

関大尉の「遺書」

門司は、誰かが階段を上がってくる足音でハッと目が覚めた。時計を見ようとしたが、暗くて見えない。だいぶ夜も更けた時間のようであった。

「足音は私の傍を通って長官の休んでいる部屋の前で止まりました。ノックする音が聞こえ、『長官、長官』と低く呼ぶのは猪口参謀の声でした。すぐに中から「うむ」という声が聞こえ、猪口参謀は部屋に入っていった。数分で2人は出てきて、階段を下りていきました。しばらく耳を澄ませましたが、長官はなかなか戻ってこない。それで、階下の様子が気になって、私はベッドの脇に置いていた半長靴を履き、上衣をつけると、階下に降りてみました」

士官室にはまだカンテラの灯りがともっていた。門司が小さくドアをノックして入って行くと、玉井副長が、

「まだ起きていたのか」

と声をかけた。士官室には、大西、猪口、玉井のほか、2、3人の士官がいたと門司は記憶している。門司は、部屋の隅の椅子に腰かけた。妙に静かな空気だった。

「やがて、猪口参謀が、髪をボサボサのオールバックにした痩せ型の士官に、『関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ』と声をかけた。『関大尉』と呼ばれた士官は、『いや』と言葉少なに答えただけでしたが、この会話で私は、この人が大西中将の言った『決死隊』の指揮官に決まったことと、この決死隊がただの決死隊ではないことを悟りました」

関は、

「ちょっと失礼します」

と言って、ほかの士官に背を向け、傍らの机に向かって何かを書き始めた。遺書のようだった。沈黙が続く。この夜の士官室の空気は、

「何か沈みきった落ち着きのようなものが感じられた。緊迫もしていなければちぐはぐな感じもない。静かでした」

と、門司は回想する。ややあって、門司は、猪口参謀に促されて2階のベッドに戻った。時計を見ると、もう午前2時に近かった。

始まる悲劇、終わる命

長い一夜が明けた。

昭和19年10月20日の朝、空は曇っている。士官室で朝食が終わると、玉井副長が大西のところにやってきて、

「揃いました」

と言った。決死隊が決まったのだ。大西に随って、門司は士官室を出た。午前10時。

二〇一空本部の前庭の南側に、北に向かって20数人の搭乗員が並んでいる。関大尉と、昨夜、玉井の説得に手を挙げ、指名された甲飛十期の搭乗員12名、残りはこの朝になって搭乗割が発表された、体当り機を突入まで護衛し、戦果を確認する直掩機13名である。

関は、列の右側、指揮官の定位置に立っていた。

搭乗員たちの正面に置かれた指揮台代わりの木箱の上に大西が立つと、玉井が「敬礼」と号令をかけた。飛行服、飛行帽姿に身を包んだ搭乗員たちが、いっせいに大西に注目し、挙手の敬礼をした。猪口参謀、玉井副長、門司副官と「日本ニュース」の稲垣浩邦報道班員の4名が、大西の後ろで侍立している。

大西長官の魂の訓示

大西は、きっちりと答礼を返すと、搭乗員たちを見回してから、重い口調で訓示を始めた。この訓示には原稿がなく、大西の言葉は空中に消えて正確な記録はないが、門司の記憶では次のようなものであった。

「この体当り攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊と命名し、4隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山櫻とよぶ。日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは大臣でも、大将でも軍令部総長でもない。それは、若い君たちのような純真で気力に満ちた人である。みなはもう、命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果を知ることができないのが心残りであるに違いない。自分はかならずその戦果を上聞に達する。一億国民に代わって頼む、しっかりやってくれ」

訓示しながら大西の体が小刻みにふるえ、その顔が蒼白にひきつったようになるのが門司の目にもわかった。「死」を命じるのは、大西にとってももちろん初めてのことで、その姿はいつもの大西とは違う、尋常ではない雰囲気を発していた。整列した搭乗員たちの顔は少年らしさを残していて、表情からその心中までうかがい知ることはできない。稲垣カメラマンも、撮影するのを忘れたかのように直立したまま、大西の言葉を聴いている。

「私は、目の奥がうずきましたが、涙は出ませんでした。甘い感激ではなく、感情がもっと行きつくところまで行ってしまったような心境。トラック島空襲以来、これまで敵機動部隊攻撃に出撃した艦攻隊がほとんど全機還ってこなかったなどの現実を見てきたから、このときはひどいとも、残酷なことをするとも思いませんでした。最前線にいて、毎日何人かの仲間が戦死してゆく現実に直面していた搭乗員たちには、必死必中の体当り攻撃に手を挙げる精神的な下地があったのではないでしょうか」

と、門司は回想する。

「神風」特攻隊の由来

「神風」の名の由来は、猪口参謀が、剣道に「神風流」というのがあるのを思い出して着想し、大西の裁可を得たもの。「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」の4隊の名前は、本居宣長の和歌、

〈敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山櫻花〉

から、大西自身が考えたものであると、門司はのちに猪口参謀から聞かされている。

訓示を結ぶと大西は、台から降りて端から順に、時間をかけて1人1人の手を握った。搭乗員たちは、はにかんだような表情で手を出した。

門司は、

「そのとき私が思ったのは、大西中将が若ければ、特攻隊の隊長として真っ先に行くだろうな、ということ。この場にちぐはぐな違和感がなかったのは、長官が、自分は生き残って特攻隊員だけを死なせる気持ちがなかったからに違いないと思います。その様子をじっと見ているうちに、大西中将と特攻隊員たちは、私にとって別世界の人間になったように思えてきました」

と私のインタビューに語っている。(続く)

「神風特別攻撃隊」が初めて敵艦に突入してから今年でちょうど80年…日本海軍における「特攻」誕生の経緯