その影響力も「今は昔」…視聴率「81.4%」を記録した60年代『NHK紅白歌合戦』とその裏番組

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巷のワイドショーやインターネットは、飢えたピラニアのように「事件」という生肉へ喰らいつくが、「歴史」という骨までは語りたがらない。そんな芸能ゴシップ&サブカルチャーの「歴史」を、〈元〉批評家でコラムニストの時代観察者が斜め読む!

ジャニーズ不在だった2023年『NHK紅白歌合戦』

2024年大晦日の『第75回NHK紅白歌合戦』は前回に引き続き、有吉弘行と橋本環奈が司会を務め、更に『虎に翼』から伊藤沙莉を加えた3人体制で臨むが、その前回……2023年大晦日の『第74回NHK紅白歌合戦』は、1部の個人視聴率が22.0%(世帯29.0%)、2部の個人視聴率が個人23.5%(世帯31.9%)で、1部、2部ともに過去最低の視聴率に終わっていた。

唯一の救いは10代の個人視聴率がわりと高かったことだが、これは日本テレビが『エンタの神様』『ぐるナイ』『伊東家の食卓』のセット特番『笑って年越し!THE 笑晦日』、TBSは『WBC2023 ザ・ファイナル』、テレビ朝日は『ザワつく!大晦日 一茂良純ちさ子の会』と、民放各局の裏番組が揃って高年齢層狙いだったことが影響している。

フジテレビはこれらと比べると比較的、若年層向けの『逃走中』だったが、紅白のあとに観る『ジャニーズカウントダウン』を失った影響なのか、テレビ東京にも及ばない3.4%で最下位だった。

結局、民放トップは唯一の10%で、テレビ朝日が2年連続だったから、スポンサーとテレビ局が若年層を切り捨てたのは正解だったのだろう。『ジャニーズカウントダウン』の代わりに、Snow ManやKing&Princeが個別にライブ配信を行うなど、コアな若年層の多くはネット配信番組へ流れたからだ。

性加害問題で糾弾されていたジャニーズ事務所(SMILE-UP.)の所属タレントは、第30回(1979年)以来、44年ぶりの『NHK紅白歌合戦』出場なしとなったが、直前に大ベテランの岡本健一が契約解除した男闘呼組(Rockon Social Club)が、大トリのMISIAと共演していた。思わぬ法律の抜け穴(?)であった。

日韓スターたちが大集合したYOASOBI『アイドル』

そして、ジャニーズが消えた代わりに、YOASOBI『アイドル』の演出には韓流や坂道系のアイドルが勢ぞろいしていた。

『推しの子』というアイドル「業界」アニメの主題歌としてヒットしたのだが、「大衆に消費されていく偶像」への風刺や寓意の強い歌詞に合わせて、生身のアイドルたちが次々と現れる人間見本市のような豪華演出には苦笑いしてしまった。

確かに、別格扱いを要求していたジャニーズ系アイドルが不在だからこそ可能な演出で、良かれと思ってやったのだろうし、YOASOBI自体が、アニメ、漫画、アイドルなどのサブカルチャーを過剰に消費して生きている世代の焦燥感の代弁者として売れたから、当然の演出でもあるが、正直、グロテスクでもあった。

自虐的に開き直った歌詞が消費するファンの免罪符として機能するアイドルソングはいくつもあるし、そういう捻じくれた自傷行為の上に成り立っているのが日本のアイドル文化なのだが。

そうでもしなければこんな国で生きていられるか、と言わんばかりに。

結局、テレビを観る若年層は深夜アニメかジャニーズ以外のアイドルのファンくらいになってしまったのだが、YOASOBI『アイドル』の演出はその構図をあからさまに体現していた。

アーティスト系やバンド系の多くは連続ドラマの主題歌よりも、ANIPLEXなどのアニメ主題歌で売れているから、30日のTBS『日本レコード大賞』でも舞台演出でアニメを流すパターンが目立っていた。アーティストの姿より『呪術廻戦』や『チェンソーマン』のほうが目立つのはどうかと思うが。

そして、我が家で『NHK紅白歌合戦』を観ていたのは筆者だけだった。『年忘れにっぽんの歌』『孤独のグルメ』のテレビ東京を見ていた両親からは「まだ紅白なんて見ているのか」と笑われたが、別に見たくて見ているわけではない。

良くも悪くもこの一年の芸能界やテレビ業界の動向が集約されている番組なので、コラムのネタ拾いも兼ねて見ていたのだ。しかし、そんな動機がないと、もはや見る理由もない番組であることも事実だ。いつの間にこうなってしまったのか?

かくして、今回は『NHK紅白歌合戦』が本当に圧倒的だった時代の「裏番組の歴史」を掘り下げてみたい。

視聴率81.4%!? 1963年の『NHK紅白歌合戦』

『NHK紅白歌合戦』が史上最高の視聴率81.4%(ビデオリサーチ、関東地区。ニールセンは89.9%)を取ったのは、1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』だ。

NHKに全編の映像が残っていた最古の回でもあるこの回は、冒頭から「日曜20時」のコメディドラマ『若い季節』で、結核で片肺を切除していることを隠し、元気でお調子者な板前の役を演じて売り出していた渥美清が聖火ランナー姿で入場するなど、随所で翌年の東京オリンピックを意識した演出が行われていた。

ところが、五輪マークと聖火台を模した舞台セットまで組んでおきながら、白組トリを務めた三波春夫が歌ったのは『佐渡の恋唄』で、『東京五輪音頭』ではなかった。

曲自体はこの年の6月23日に発売されているから、タイミング的には歌えるはずだが、本来はコロムビア所属の古賀政男がキングレコード所属の三橋美智也のために作曲したことから権利開放となり、橋幸夫、坂本九、北島三郎&畠山みどりも歌う7社(!)競作となった経緯から、三橋に配慮したと言われている。歌手も作曲家もレコード会社の専属という時代だったのだ。

もっとも、その三橋が『NHK紅白歌合戦』で歌ったのは『流れ星だよ』だったが。

なお、当のNHKも2019年の大河ドラマ『いだてん』と、同年10月13日放送のNHKスペシャル『東京ブラックホールII 破壊と創造の1964年』で、東京オリンピックは開催直前まで、一般大衆からほとんど支持されていなかったと告白している。

しかも、閉幕後の1965年には強引な「オリンピック景気」の反動で戦後最悪の不況が訪れた。

だとすると、三波もこの時点ではそこまで国家ぐるみのプロパガンダに協力する筋合いはない……と考えていたのかも知れない。小田井涼平脱退の曲がり角で「NHKプラス紅白親善大使」を請け負い、QRコードまみれの衣装を着ていた純烈とは大違いである。

だが、翌1964年に入ると、三波は再び『紅白歌合戦』のトリを狙うべく、一転して『東京五輪音頭』の販売キャンペーンを張った。『第14回NHK紅白歌合戦』で紅組トリ……4年ぶりの大トリを務めたのは美空ひばりで、紅組が勝ったからだ。

このキャンペーンが功を奏し、見事、2年連続のトリ……初の大トリを務め、白組も勝利したのだが、その『第15回NHK紅白歌合戦』で歌ったのも『東京五輪音頭』ではなく、『俵星玄蕃』だった。

結局、29回連続で『NHK紅白歌合戦』に出場した三波が『東京五輪音頭』を歌ったのは、28回目の出場となった、1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』だけだった。

……というか、三波が他に音頭系の曲を歌ったこと自体、自ら作詞した『世界平和音頭』を1968年の『第19回NHK紅白歌合戦』で歌っているだけだ。

この曲は1970年の『世界の国からこんにちは』へ繋がっていく佳作だが、あくまで自分の本領は浪曲歌謡であり、音頭調の曲は『NHK紅白歌合戦』に相応しくないと考えていたのかも知れない。

かつての『NHK紅白歌合戦』は、出場と歌唱順で翌年の格……地方営業のギャラが決まる番組だったからだ。

しかも、トリは紅白の勝ち負けまでギャラに加味されていたのだ。不条理だが、当時の芸能界はそういう細かいプライドの積み重ねで成り立っていた。

それにしても、81.4%という視聴率は、多チャンネル化や娯楽の多様化も進んだとはいえ、現代の感覚では想像すらつかない。

TBSが『第74回NHK紅白歌合戦』の裏で総集編を放送していた、2023年3月のワールド・ベースボール・クラシック中継でも、最高視聴率は準々決勝(16日)イタリア戦の48.0%だった。

ここまで圧倒的ということは、民放各局の裏番組はどうなっていたのだろうか?

1963年『NHK紅白歌合戦』の裏番組と「五社協定」

結論から言えば、1963年の『NHK紅白歌合戦』裏番組は各局、ほとんど通常編成に近かった。

特番らしき番組は、本来は『徹子の部屋』(テレビ朝日)系のトーク番組『スター千一夜』があるフジテレビが21時台に、東京宝塚劇場からの『雲の上団五郎一座 ブロードウェイへ行く』舞台中継が配されていた程度だ。

『雲の上団五郎一座』シリーズはエノケンこと榎本健一の晩年の十八番演目で、貧乏な旅回り一座がメタ的な劇中劇を織り交ぜながら人情喜劇を繰り広げる物語の構造は、のちの『淋しいのはお前だけじゃない』や『タイガー&ドラゴン』(共にTBS)の元型と言える。

日本テレビも21時から火曜日のレギュラー番組である『裕次郎アワー 今晩は裕次郎です』を放送している。これは石原裕次郎が司会を務めるサッポロビール一社提供のトーク番組で、放送作家時代の大橋巨泉が構成を担当していた。

もっとも、前述の『スター千一夜』が芸能番組ではなく、TBSの『時事放談』と同じジャンルだと強弁したことから、なし崩し的に例外扱いとされていたトーク番組とはいえ、専属制の「五社協定」が存在していた時代の映画スターがテレビで冠番組を持つなど、本来はあり得ないことだった。

NHKも同年4月から12月29日まで「日曜20時45分」から放送していた大河ドラマ第1作『花の生涯』に松竹専属の佐田啓二を出演させ、五社協定の切り崩しに成功していたが、裕次郎が民放で冠番組を持ったのは、この年、個人事務所である石原プロモーションを設立したからだ。

つまり、『今晩は裕次郎です』は石原プロモーションの起業アピールと、日本麦酒株式会社(サッポロビール)がタニマチだったことから企画された番組だった。

このときの日本テレビとの繋がりが、のちに大ヒットした刑事ドラマ『太陽にほえろ』や『大都会』へつながっていくことになるのだが、自分の番組の放送を優先したからなのか、歌手としての初出場を打診されていた『第14回NHK紅白歌合戦』は裕次郎本人の意向で出場辞退した。

結局、裕次郎が紅白に出場したのは、デビュー直後の1957年『第8回NHK紅白歌合戦』で、当時のプロデューサー兼マネージャーだった水の江瀧子が司会を務めていたことから、飛び入りという形で雪村いづみの応援に駆り出されたのが唯一で、その後は『NHK紅白歌合戦』と無縁のまま、生涯を終えている。

強敵!? 『日本レコード大賞』の大晦日移動

もっとも、1963年の大晦日になったNHK火曜夜は19時の『NHKニュース』以降、『バス通り裏』『ジェスチャー』『お笑い3人組』『事件記者』と続く編成で、ほかの曜日と比べても鉄壁のラインナップだった。

裏番組はフジテレビ19時台の『ザ・ヒットパレード』『地上最大のクイズ』、TBS20時台の『源平芸能合戦』『圭三百科』、日本テレビ21時台の『今晩は裕次郎です』『男嫌い』がそこそこ奮闘していた程度で、『第14回NHK紅白歌合戦』の記録的な高視聴率はそうした平時の視聴習慣も影響していたのかも知れない。

補足すると、フジテレビの『地上最大のクイズ』は日清食品一社提供のクイズ番組で、100人の視聴者が参加して最後に生き残った者が賞金100万円を獲得する元祖「デスゲーム」だった。鉄骨渡りや限定ジャンケンの代わりにクイズがあり、利根川幸雄の代わりに桂小金治がいたと考えればだいたい想像がつくだろう。

日本テレビの『男嫌い』は越路吹雪、淡路恵子、岸田今日子、横山道代という貫禄がありすぎる女優たちが四姉妹を演じる魔界のような女性上位のシチュエーションコメディで、末っ子役の坂本九とゲストで登場する男性俳優たちが「ムシられる」お洒落なドラマとして人気を博し、1964年2月には東宝で映画化された。この頃の日本テレビはこういうシスターフッドなドラマもちゃんと作れたのだ。

『第14回NHK紅白歌合戦』の裏番組は通常編成だったが、大晦日の年末特番自体は存在しており、TBSテレビが19〜21時まで高橋圭三の司会で『1963年歌くらべオールスター大行進』を放送していた。

これは1957〜1968年まで放送されていたTBSの年末特番で、実質『日本レコード大賞』の前番組にあたる。

いや、『日本レコード大賞』も1959年から存在していたのだが、この頃は別番組扱いで開催日も一定しておらず、1963年は12月27日の放送だった。視聴率も20.7%で善戦はしているが、この時代の視聴率の基準だと特筆されるレベルでもない。

奇妙なのは、TBSラジオも『年忘れ歌謡スターパレード』と称して、22時まで歌謡特番を放送していることだ。番組名は違うが、出演者リストがほとんど同じなので、途中まではテレビと同時放送をしていたのだろうか。

ちなみに、1963年は新聞のテレビ欄とラジオ欄の比率が拮抗していた。これ以前はラジオ欄の比率のほうが高く、これ以降はテレビ欄が拡大していくことになる。

『NHK紅白歌合戦』の動向に振り回され、試行錯誤を繰り返していたこの番組は、1969年にようやく『オールスター大行進』第2部として『日本レコード大賞』が統合され、高橋圭三が引き続き司会を務めた。

これで視聴率30%を超え、翌年からは『日本レコード大賞』が『NHK紅白歌合戦』の露払い的な大晦日の定番番組となっていくのだが、2大番組となったことで他局の大晦日番組編成は更に無気力化してしまった。古い名作映画を流して体裁だけ装う、という編成が80年代まで続いたのだ。

次の記事『ヒット曲連発されるも賞レースが荒れに荒れた70年代! 『紅白歌合戦』の視聴率は常に70%超え!?』につづく。

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