9月28日夜10時から放送される『内村プロデュース』(画像:テレビ朝日)

「ウッチャン」こと内村光良が、今年還暦を迎えた。芸人としてはもちろん、テレビMC、俳優など多彩な活躍を長年続けてきた内村だが、忘れてはならないのが後輩芸人をことごとくブレークさせるプロデューサーとしての顔だ。その象徴的番組『内村プロデュース』(以下、『内P』)が28日夜に一夜限りの復活ということで、改めてその後進育成力に注目してみたい。

16年ぶりの復活、『内村プロデュース』という番組

『内P』が16年ぶりに復活というニュースは、SNSでも大きな反響があった。それだけ多くの視聴者に愛された番組だった証拠だろう。

『内P』は、テレビ朝日系で2000年から2005年までレギュラー放送されていたバラエティ。深夜帯ながら、2桁を超える視聴率をあげる人気番組だった。

毎回多くの若手・中堅芸人が出演し、さまざまな企画で即興の大喜利、コントを繰り広げる。面白ければMCの内村光良が「10ポイント!」などと得点を与え、それが芸人ごとに加算される。

毎回の企画は主に「〜をプロデュース!」と題したパターンで、深夜らしくひとひねり加えたものばかり。最初の頃は「溺死体をプロデュース!」という、ドラマの溺死体役の女優をオーディションで選ぶマニアックの極みのような企画もあった。

その後、芸人をフィーチャーした企画がメインになっていく。

「芸人家庭訪問すごろく」は、ルーレットで出た若手芸人宅をアポなしで訪問。そこで内村たちが好き放題するという企画。

くりぃむしちゅー・有田哲平の家では、冷蔵庫にある食材で室内バーベキューを始め、さらには有田が大事にしていたフィギュアを熱々の鉄板の上に置いたりする、という感じである。

「露天風呂だるまさんがころんだ」も人気企画。

露天風呂で芸人たちが「だるまさんがころんだ」をする。最初はみな腰にタオルを巻いているが、動いたり誰かに引っ張られたりした拍子に外れ、最後は画面がモザイクだらけになる。さまぁ〜ずの三村マサカズなどはほかの芸人の股間をさわったりしてアウトにさせる技を駆使し、「玉職人」と呼ばれた。

いずれも昨今のコンプラ時代ではクレームが来そうだが、もちろん美容室や歯医者などいろいろな設定での純粋なお笑い力を試す「笑わせ王」のような企画もあり、そんなときには芸人たちの底力が試された。

『内P』は芸人の発掘や再生の場に

当時はまだそういう番組も珍しく、『内P』は芸人の発掘や再生の場になっていく。『笑っていいとも!』と並び、若手芸人が出演したい番組としてよく名前が上がった。

内村光良の「プロデューサー」という肩書は、あくまで番組のなかでの役割。歌手デビューした「NO PLAN」の企画もあったが、アイドルのプロデューサーとは少しニュアンスが違う(内村のサングラス姿は、そうしたプロデューサーのパロディでもあった)。

だが芸人の可能性を見抜く内村の眼力はずば抜けていて、この番組をきっかけにブレークした芸人も少なくなかった。

たとえば、「ゲッツ!」でおなじみのダンディ坂野などはそのひとり。「若手芸人下剋上」という企画で内村に気に入られ、その後別の企画にもたびたび登場するようになった。

さらに特筆されるのは、多くの芸人を復活、再ブレークさせたことである。

レッド吉田もそうしたひとり。TIMは「命」などの人文字芸でブレークしたが、どうしても目立つのはゴルゴ松本のほう。自分では「爆笑をとれたことがない」と悩む吉田に対し、内村が「今日のレッド」というコーナーをわざわざつくった。

そこで「ありがトントン・ワシントン」といった独特のフレーズギャグを連発して大ウケ。「レッド語」として番組の目玉になった。

ふかわ、有吉らも番組で再ブレーク

いわゆる「一発屋」になりかかっていた芸人たちも、この番組で再ブレークした。

ふかわりょうは番組初期からのレギュラー。ふかわは、慶応大学在学中にデビュー。ロン毛にヘアバンドスタイルでおしゃれな音楽に乗せた「お前んち、天井低くない?」などのシュールな一言ネタでブレーク。知的かつクールなイメージで人気を博した。

ところが素のふかわはまったく違うことがバレて、『内P』では一転していじられキャラに。自宅を収録場所にされることもしばしばで、他の芸人たちが勝手気ままに振る舞うのに対してなにもできずオロオロする姿が逆に笑いを誘った。

レギュラー放送の最終回では内村から「この5年余りで、あなたで笑ったのは5回でした」と痛烈にいじられながらも、最後に3万ポイントをもらって総合優勝を果たすなど、愛されヘタレキャラを確立した。

そして有吉弘行のことも忘れるわけにはいかない。

『進め!電波少年』の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画」で社会現象的ブームを巻き起こした有吉だったが、猿岩石が解散となってからは模索の時期が続いた。

そんな有吉がピン芸人としてやっていく原点となったのが『内P』だった。そこで生まれたキャラが、「芸人家庭訪問すごろく」に登場した「猫男爵」。


「芸人家庭訪問すごろく」に登場し「猫男爵」として人気になった有吉弘行(画像:TELASA)

内村たちが部屋のなかをあれこれ物色していると、なぜか風呂場から「ニャー」という猫の鳴き声が聞こえる。不審に思ってのぞいてみると、そこにはミュージカルのCATS風メイクでシャワーを浴びたりしている有吉がいる。そして有吉扮する「猫男爵」は裸のまま部屋に入り、自分も好き勝手をし始める。

『電波少年』のアイドル的イメージが強かった有吉が、ひとつ殻を破るきっかけになったキャラクターである。大喜利企画でも存在感を発揮するなど、有吉の芸人としての実力を知らしめたのが『内P』だった。

ウッチャンナンチャンが発明した「ショートコント」スタイル

お笑い芸人は、自分の売りを手に入れられるかどうかが勝負の分かれ目になる。そして売りになるものは、ひとりでいくら考えてもなかなか見つからない。そんなときは、ほかの芸人たちと切磋琢磨することも必要だ。

若手時代の内村光良本人にも同様の経験があった。

南原清隆とのコンビであるウッチャンナンチャンは、1980年代後半ダウンタウン、とんねるずらとともに「お笑い第三世代」としてブレーク。ただ、まだ無名の頃は東京・渋谷のライブハウス「ラ・ママ」で開催された「ラ・ママ新人コント大会」に出演していた。

主催はコント赤信号のリーダー・渡辺正行。そこで若手芸人たちがしのぎを削るなか、ウッチャンナンチャンはなかなか頭角を現すことができずにいた。

一方、人気を博していたのがジャドーズ。ジャドーズは、もともとはバンド(メンバーには、後に「LOVEマシーン」の編曲などで有名になるダンス☆マンもいた)。だがお笑いも達者で、当時「ラ・ママ」で圧倒的な人気を誇っていた。

そのスタイルは、短いものまねやギャグをテンポよくつないでいくもの。バンドらしく、ネタのあいだに自作のブリッジ(音)が入る。当時はネタというと5分くらいある長尺ものばかりで、ショートネタの積み重ねという方式がまず斬新だった(渡辺正行『関東芸人のリーダー』)。

これにヒントを得たのがウッチャンナンチャンだった。2人はそれまでの長尺コントをやめ、ジャドーズのショートネタ方式を借りつつ、短いショートコントを次々に連発するスタイルに切り替える。

「ショートコント、〇〇」と言いながら進めるスタイルはいまや定番だが、それはウッチャンナンチャンが40年ほど前に発明したものだった。そこから人気も上昇。2人の現在に至るサクセスストーリーが始まる。

この「ラ・ママ」時代の経験が、内村光良の後輩芸人プロデュースの原点にあるだろう。そして『内P』以外でも、内村光良のプロデュース力は発揮されてきた。

『新・ウンナンの気分は上々。〜NEW FEEL SO NICE』(TBSテレビ系)でのさまぁ〜ずとくりぃむしちゅーの改名企画もそうだ。

もともとは「バカルディ」と名乗っていたさまぁ〜ずと「海砂利水魚」と名乗っていたくりぃむしちゅーの対決企画。当初改名はPK対決や卓球対決の罰ゲームだったが、結局新しいコンビ名が世間に定着し、そのまま名乗ることになった。

これも番組自体が両コンビの見事なプロモーションになっていて、そのプロセス全体を臨機応変に仕切った内村光良のプロデュース力が光る。

内村光良がつくりだす「やさしい世界」

このケースからもわかるのは、内村光良のプロデュースには、芸人としての仲間感覚がベースにあるということである。

そこには、年齢も芸歴もあまり関係ない。芸人同士はライバルではあるが、根本的にはともに支え合う仲間だ。上下関係ではなく対等な関係。いわば、「やさしい世界」である。

それはとりも直さず、内村光良そのひとのやさしさから来るものだろう。面倒見の良い兄貴的存在であることは画面を通しても伝わってくる。しばしば「理想の上司」ランキングの上位にランクされるのも、そうした雰囲気が視聴者にも伝わっているからだろう。

言い換えれば、笑いを見る目の確かさがあるだけでなく、悩みを抱える後輩芸人への高い共感力がある。

それも「ラ・ママ」時代の自分の経験から、芸人が自分の個性を確立することの難しさをよく知っているからに違いない。そこから生まれる出演者全体の一体感が、内村光良がメインのバラエティ番組のほかにはない魅力だろう。

特にテレビバラエティは、集団芸である。信頼関係の確立された仲間のなかでこそ、それぞれの個性も輝きを増す。『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)などを見てもそのことは明らかだろう。

そして内村光良の後進育成術は、有田哲平や有吉弘行らにきっちりと受け継がれている。たとえば、とにかく明るい安村が再ブレークするきっかけとなった『有吉の壁』(日本テレビ系)などには、内村イズムが強く感じられる。その意味でも、内村光良の功績は大きい。

(太田 省一 : 社会学者、文筆家)