1983年11月13日、第44回菊花賞を制し、19年ぶりに史上3頭目の三冠馬となったミスターシービー 写真/共同通信社


(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。

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シービーの19年ぶり三冠奪取と、ルドルフの無敗の三冠馬誕生

 前回は2020年に9年ぶりに誕生した中央競馬クラシック三冠馬・コントレイルについて書きましたが、私が30代だった1980年代、三冠馬が2年連続して出現したことがありました。

 2024年現在、三冠馬は8頭出ていますが、1941年のセントライトから2020年のコントレイルまでおよそ80年で8頭誕生しているので、平均して10年に1度の割合で誕生ということになります。その80年という間に2年続けて三冠馬が出現するという奇跡のような年がありました。

 ミスターシービー(以下シービー)の昭和58年(1983)とシンボリルドルフ(以下ルドルフ)の同59年(1984)です。今から40年ほど前のことなので、還暦以上の競馬ファンにとっては懐かしい馬名との再会でしょう。

 シービーの三冠奪取は昭和39年のシンザン以来で、19年もの空白があったことになりますが、この空白を翌年のルドルフが一気に埋めてくれたようで、短期間に2頭の三冠馬をリアルタイムで見ることのできた私は幸せ者です。

 シービーがレース終盤、吉永正人騎手を背に後方から一気に駆け上がるハラハラドキドキのレース展開は人気が高く、その馬が三冠を獲得したので、さらに人気は高まりました(ちなみに、当時の吉永夫人は、現在、作家・コメンテーターで知られる吉永みち子氏。のちに離婚)。

 シービーの人気が高い理由はもう一つありました。父馬が昭和51年(1976)に皐月賞と有馬記念を勝ったトウショウボーイだったことです。トウショウボーイは当時、テンポイント、グリーングラスとともに「TTG時代」を確立、出走した全15レースで10勝、2着3回という抜群の成績を収めた名馬でした。15レース中、後半の8レースは福永洋一(祐一の父)、武邦彦(豊の父)が騎乗しています。

 首を低くして走る姿から天空を飛翔する「天馬」とも称されたトウショウボーイは500キロを超える大型馬でしたが、息子のシービーは牡馬にしては小柄でした。

 しかし、目が大きく毛艶も美しいうえ愛くるしさもあって、女性の競馬ファンがまだ少なかった時代に女性たちをずいぶん競馬場へと導いてくれました。そういえば、当時フジテレビ『スーパー競馬』のアシスタントとして出演していた鈴木淑子さんのアイドル馬でもありましたね。

 人気馬だった父の果たせなかった三冠奪取という夢を息子が叶える、という「血統ドラマ」を見事に演じたシービーには、さらに多くのファンから熱い期待が寄せられることになりました。

 一方、1歳下の世代で無類の強さを誇ったルドルフは、当時としては史上初、無敗のまま三冠馬となり、競馬界はこの2頭の三冠馬の誕生で大いに盛り上がります。

日本競馬界史上初、三冠馬同士の対決

1984年11月11日、第45回菊花賞、圧倒的強さでゴールインするシンボリルドルフ 写真/共同通信社


 はたして、どちらの三冠馬が強いのか。追い込み一気・直線爆走のシービーか、正攻法でスキなし・堅実無敗のルドルフか。ファンの期待はいやがうえにも盛り上がり、そしてその対決は、意外と早く実現されます。

 ルドルフが三冠を達成した菊花賞からわずか2週間後に行なわれた第4回ジャパンカップに両馬が出走、初のクラシック三冠馬同士による対決となったのです。

 レースの1番人気は三冠馬の先輩シービーで、2番、3番人気を外国産馬が占め、ルドルフは4番人気でした。ルドルフは引退までに国内で15戦していますが、1番人気でなかったのはこのレースと4戦目の弥生賞のときの2回だけです。

 このときまでにジャパンカップは3回開催されていましたが、日本馬は5着までに入った馬が毎年1頭ずつの3頭のみ(ゴールドスペンサー5着、ヒカリデュール5着、キョウエイプロミス2着)という悲惨な状況で、日本のトップクラスの馬は外国の二流馬にも歯が立たないのか、という厳しい現実を突き付けられていた時代でした。

 こうした時代背景もあって、無敗の三冠馬といえども、ルドルフは4番人気に甘んじざるを得ませんでした。そしてレースの結果は──なんと10番人気で期待薄だった逃げ馬、日本のカツラギエースの快勝に終わります。

1984年11月25日、第4回ジャパンカップ  外国代表馬を抑えて鮮やかに逃げ切り日本馬初優勝を果たしたカツラギエース(右) 写真/共同通信社


 後方に控えるシービーを意識しすぎたルドルフは直線でカツラギエースをとらえられず、初の敗戦で3着、14頭立ての最後尾から追い込んだシービーは結局10着惨敗という、ファンにとっては意外ともいえる結果となりました。

 外国馬を相手に日本の馬がジャパンカップ史上初めて勝利したにもかかわらず、場内には、何か拍子抜けした空気が満ちていることがテレビ画面からも伝わって来たものです。外国馬を蹴散らしてのシービーの勝利を確信し、ルドルフがどこまで迫れるのかを期待した多くのファンの予想と異なり、納得がいかなかったのでしょう。

 ひと月後に行なわれた有馬記念でシービー対ルドルフ2度目の対決が実現しますが、ルドルフが優勝、シービーは3着に敗れ、三冠馬同士の勝負はほぼ決着がついた、とファンは見なしました。

 この2頭の最後の対決は翌1985年の天皇賞(春)でした。シービーはルドルフに次ぐ2番人気でしたが、ここもまた5着に終わり、ルドルフに一矢報いることなく、このレースを最後に引退してゆきました。

 全15戦8勝、うちG1勝利4度という立派な成績でしたが、一世代下のルドルフの登場によって現役生活の晩年は少し影が薄くなりました。

色褪せぬ七冠馬・ルドルフの偉業

 3度にわたり三冠馬の先輩・シービーを完封したルドルフは、その後、ジャパンカップ、有馬記念を制し、「七冠馬」の称号を得ます。そして満5歳の春、満を持して世界進出をめざしますが、あいにく米国での最初のレース中に故障、帰国し引退となりました。その成績は全16戦13勝、G1勝利7度。「皇帝」という愛称にふさわしい実績でした。

 1988年春、当時私は月刊誌の編集部に在籍していました。映画『優駿』のロケ現場取材のため北海道に出張、斉藤由貴・緒形直人の取材を終えると、名門シンボリ牧場を訪問、すでに引退して2年経過していましたが、あこがれのルドルフに会いに行きました。

 牧場の柵内にいたルドルフは、私が近づくとすぐに寄って来ました。少し興奮気味だったようで、競馬場ではいつも落ち着き払っていたルドルフですが、内に秘めたる気の強さの一端を、そのとき私は見たように感じたものです。

 私の仕事場には、ルドルフが引退した1984年秋に発売された「1985 競馬報知カレンダー」が今も飾られています。だいぶ色褪せてきてはいますが、表紙には「史上最強の三冠馬 シンボリルドルフ」という活字が誇らしく記されています。偉業が色褪せることはありません。

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

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※9月20日に公開した記事に誤りがございました。つきましては、下記のように訂正いたしました。ご迷惑をおかけいたしましたことを、深くお詫び申し上げます。

(誤)ルドルフは引退までに国内で15戦していますが、1番人気でなかったのはこのレースだけです。
(正)ルドルフは引退までに国内で15戦していますが、1番人気でなかったのはこのレースと4戦目の弥生賞のときの2回だけです。

筆者:堀井 六郎