【光る君へ】実際には赤染衛門とおしどり夫婦だった大江匡衡(谷口賢志)とは何者?その生涯をたどる

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赤染衛門の夫 大江 匡衡(おおえのまさひら)
谷口 賢志(たにぐち・まさし)

学者。赤染衛門の夫。和漢の才に秀でている。

※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより。

劇中では浮気が絶えず、生まれた子供を片っ端から妻・赤染衛門に押しつけるトンデモ夫として言及されていました。

が、実際の大江匡衡は赤染衛門とおしどり夫婦だったそうです。

大河ドラマ「光る君へ」劇中の赤染衛門と大江匡衡

そのため、赤染衛門は匡衡衛門(夫なしには生きていけない!)とも呼ばれたとか。

こっちの方がよかったと思うのですが……果たして実際の大江匡衡はどんな人物だったのか、その生涯をたどってみましょう。

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大江匡衡の家族たち

赤染衛門。菊池容斎『前賢故実』より

大江匡衡は天暦6年(952年)、大江重光(しげみつ)と藤原時用女(ときもち娘)の間に誕生しました。

兄弟に大江雅致(まさむね。和泉式部の父)がいたとする説もあります。

妻妾には赤染衛門ほか、伴徳成女(ともの とくなり娘)を側室に迎えました。

子供には大江挙周(たかちか)・大江持隆(もちたか)・大江匡子(きょうし/まさこ)・大江能公(よしきみ)らがいます。

ほか大江時棟(ときむね)・林豪(りんごう。僧侶)を養子縁組しました。跡継ぎには困っていなさそうですが、何か事情があったのでしょう。

学問の道を極め、文章博士に

文章博士として活躍した匡衡(イメージ)

代々学者の家に生まれた匡衡は、祖父・大江維時(これとき)の薫陶を受けます。

英才教育によって7歳で読書を始め、9歳で詩を詠むようになりました。

やがて13歳で元服、漢代(中国古代王朝)の詩人・匡衡(きょう こう)にあやかって匡衡(まさひら)と改名します。

15歳で大学寮へ入り、16歳で寮試に及第。擬文章生(ぎもんじょうしょう)として紀伝道を学びました。

22歳で式部省試に及第して文章生となり、28歳でみごと対策に及第します。

この頃に赤染衛門と結婚、やがて嫡男の大江挙周を授かりました。

順調に学問を修め、妻子にも恵まれて順風満帆な匡衡でしたが、34歳の時に何者かの襲撃を受けます。

この時に左手の指(どの指を何本かは不明)を切り落とされてしまったのです。犯人は不明(藤原保輔か?)。

そんなことがあっても匡衡の学問熱が冷めることはなく、更に精進を重ねて東宮学士(とうぐうがくし)や文章博士(もんじょうはかせ)を歴任しました。

やがて正四位下・式部大輔(しきぶたいふ)まで昇り、一条天皇の御世において名儒と称えられます。

「長保(ちょうほう)」「寛弘(かんこう)」という元号や、一条天皇の皇子たち(敦成親王、敦良親王)の名づけ親となりました。

なお敦成親王(あつひら)は後に後一条天皇、敦良親王(あつなが)は後に後朱雀天皇となっています。

名国司と讃えられるが……。

大江匡衡。指を切り落とされた?左手を袖で隠している。帯が結びにくそう。菊池容斎『前賢故実』より

学問で名声を勝ち取った匡衡は、3度にわたって尾張守(おわりのかみ。国司長官)として現地に赴任しました(後の2度)。

現地では大江川開削(灌漑用水の開発)と尾張国学校院の再興など善政に努め、領民たちは名国司として讃えたと言います。

しかしよる年波には勝てず、長和元年(1012年)7月16日に61歳で卒去しました。

学問と政治では名声を勝ち取った匡衡でしたが、出世面では公卿(三位または参議以上)の悲願は果たせずに終わったのです。

終わりに

今回は赤染衛門の夫・大江匡衡について、その生涯を駆け足でたどってきました。

恐らく「光る君へ」では、表面上はおしどり夫婦だけど、その実態は……という描き方がされるのでしょうか。

「男なんか、そんなもんよ。ハッ!」という嘲笑が聞こえてくるようです。

意外性を狙ったキャラクター描写も面白いのでしょうが、そうちょいちょい登場する有名人物でもない=イメージの刷新が難しいため、できれば不名誉なイメージ付けは控えて欲しく思います。

ともあれ、大河ドラマではどんな活躍を見せてくれるのか、谷口賢志の演技に期待しましょう!

※参考文献:

後藤昭雄『人物叢書 新装版 大江匡衡』吉川弘文館、2006年3月