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 経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回はシャープ株式会社の業績について紹介したいと思います。
 シャープは日本を代表する電機メーカーの一つであり、戦前はラジオメーカー、戦後は総合家電メーカーとして成長しました。2000年以降は液晶に注力し、「世界の亀山モデル」を生み出した亀山工場、そして堺工場と次々に大型投資を進めました。しかし台湾・韓国勢の台頭で苦戦し、やがて台湾の受託生産大手・鴻海グループの傘下に入ります。液晶で伸び、液晶で散った悲しいシャープの歴史を振り返ってみましょう。

◆戦前はラジオ、戦後は総合家電

 シャープは1912年に早川徳次氏が始めた金属加工業をルーツとします。1915年にはシャーペンの語源となる金属製繰出鉛筆を発明し、25年には国産第1号となる鉱石ラジオ受信機を発売しました。戦前はラジオメーカーとして成長し、戦時中の1942年に早川電気工業に社名を変更しました。

 戦後は松下電気などの台頭に出遅れましたが、1953年にテレビ、57年には冷蔵庫と洗濯機の生産を開始し、総合家電メーカーとしての路線を歩み始めます。ちなみに53年から60年代にかけてはテレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれた時代です。そして、1970年にブランド名として使用していたシャープに社名を変更しました。ソーラー関連では1963年に太陽電池の量産を開始し、1980年にはオイルショックに伴う需要増加を背景として同事業を強化しました。

◆2000年以降は「液晶に賭ける」

 以前より液晶の技術を持っていたシャープは1985年に小型液晶カラーテレビの試作に成功し、95年には液晶テレビシリーズ「ウインドウ」を発売しました。その後、ウインドウの後継として発売した「アクオス(AQUOS)」シリーズが大ヒットしたことで、以降は液晶に注力するようになります。

 2004年に液晶テレビの一貫生産拠点として亀山工場を稼働、「世界の亀山モデル」のキャッチコピーで売り出しました。そして2009年には4,000億円以上を投じて堺工場を稼働しました。

 今でこそ、この投資は失敗だったと言われていますが、新興国の台頭で日本の電機メーカーが自信を失っていた当時、シャープの積極的な姿勢は「日本のモノづくりの復活」を象徴するものとしてもてはやされました。

◆日本でしか通用しなかった「世界の亀山モデル」

 亀山、堺の両工場は当時でも珍しい国内の大規模投資でしたが、実のところ90年代後半より液晶生産を開始した台湾や韓国のメーカーよりも投資額は少額でした。そもそも規模で負けていたわけです。大量生産で液晶パネル自体がコモディティ化するなか、規模も小さいシャープはコスト競争力を失い、円高も追い打ちをかけました。また、販売の面でシャープは国内およびアメリカに注力し、新興国市場を軽視しました。対するサムスンのような韓国のメーカーは各国に人材を派遣し、地道に市場開拓に努めました。

 テレビパソコンの需要増加で液晶パネルの市場規模は拡大していたにも関わらず、製品のコモディティ化と販売力の軽視でシャープは新興国需要を取り込めなかったわけです。そしてリーマンショックで先進国向けの需要が落ち込む中、堺工場の稼働後すぐにシャープの業績は悪化に転じました。2012年3月期の売上高は前年比19%減の2兆4,559億円となり、最終赤字に至っては3,761億円にも膨らみました。

 ちなみに2000年代初頭においてシャープは太陽光パネルで世界シェアトップを握っていましたが、液晶と同様に海外勢に負けてしまいました。