大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜白水健太(前編)

 2012年に甲子園春夏連覇を達成した大阪桐蔭の元副主将が指揮官となり、4度目の夏に挑もうとしている。

「夏前に宮城の仙台第一と練習試合をさせてもらったんですけど、部長が"あの年"のセンバツで選手宣誓をした石巻工業の阿部(翔人)くん。東日本大震災の翌年だったので、あれから12年です。僕もこの大会中に30歳になりますけど、ほんと早いですよね」

 まだ学生と言われても通じそうなハツラツとした表情で語るのは、福井工大福井で監督を務める白水健太。「はくすい」の響きに、あの2012年の春、夏の甲子園での活躍を思い出す高校野球ファンも少なくないだろう。


2012年夏の甲子園決勝で先制のホームランを放った白水健太 photo by Sankei Visual

【念願叶って大阪桐蔭へ進学】

 福井県の今夏の大会参加チーム数は28。シードなら、4回勝てば甲子園への切符を手にすることができる。

「僕らの頃の大阪はシードがなくて、あの夏は1回戦からだったので8回勝って甲子園。だから福井にコーチで来た時は、正直『すぐ甲子園や!』って思っていました。でもいざ戦ってみると、なかなか簡単には勝たせてもらえません」

 過去3回の夏は、ベスト4、ベスト8、ベスト4。敗れた相手は、敦賀気比、福井商、北陸とライバル校の名が並ぶ。

 今年の春は福井県大会を制し、北信越大会でもベスト4。それだけに期待も大きいが、福井工大福井にとって夏の甲子園出場となれば、大阪桐蔭の春夏連覇に沸いた2012年以来となる。もし実現すれば、あの夏、歓喜の輪にいた白水が率いて12年ぶりの甲子園帰還。ドラマチックなシナリオは用意されている。

 白水が中学2年の時、浅村栄斗(現・楽天)、萩原圭悟(現・ヤマハ)らの猛打で夏の甲子園を制した大阪桐蔭の戦いを、足しげく通った甲子園のスタンドから観戦。目指すところが決まった。

「3年間球拾いで終わってもいいから、日本一強いチームで高校野球をやりたい」

 中学3年の夏には、主将を務めた奈良葛城ボーイズが全国制覇を果たし、しっかり箔をつけて大阪桐蔭への進学を決めた。大いに求められての進学と想像したが、白水は「いやぁ......」と苦笑いを浮かべた。

「僕たちのチームには青山がいて、アイツは早くから注目されていましたけど、僕は全然そんなこともなくて」

 白水が言う「青山」とは、智弁学園(奈良)からトヨタ自動車を経てプロにまで進んだ青山大紀(元オリックス)。中学時代から投打ともにセンスを感じさせる"二刀流"で、高校野球関係者から注目を集めていた。

 対して中学3年時の白水はショートを守り、攻撃では青山と入れ替わりで1番か3番。ミート力と足に自信があったといい、やはり目を引く好選手には違いなかったはずだ。しかし白水は、「いやいや」と手を振った。

「あとになって、西谷(浩一)先生から言われたんです。『おまえを見に行ったんじゃなくて、ほかのチームの選手を見に行ったらたまたま対戦相手が3回続けて葛城ボーイズやったんや』って」

 西谷流のジョークにも思えたが、白水の実力に加え、大阪桐蔭時代にも醸し出されていた野球小僧的な雰囲気に興味をそそられたのではないかと想像する。ともあれ、念願叶っての大阪桐蔭行きとなった。

【生き残るための手段】

 しかし、日本一を目標に掲げるチームのレベルは段違い。「3年間球拾いでも......」の決意はあったとしても、不安はなかったのだろうか。

「正直、球拾いで終わるつもりはなくて、入ることさえできればなんとかなるだろうという気持ちはあったんです。完全に根拠のない自信でしたけど」

 会話の端々から伝わってくるポジティブな思考に興味が沸き、尋ねてみると、母の話につながった。

「生徒からも『先生はポジティブ過ぎる』とよく言われますが、完全にDNAです。僕の家は母子家庭なんですけど、母が僕のはるか上をいくプラス思考。僕の性格は母親譲りで、子どもの頃から『あんたは絶対に甲子園で優勝できる!』ってよく言われていたんです。それで僕の思考も似た感じになったんだと思います(笑)」

 ただ、入ることさえできれば何とかなると進んだ大阪桐蔭のレベルは、白水の想像をはるかに超えていた。多くの新入生がそうであるように、シートノックの際のスピード感、送球の強さと正確など、至るところで度肝を抜かれた。

 しかも驚かされた相手は、先輩だけではない。大西友也(セカンド)や妻鹿聖(ショート)ら同級生の守備力もまた、格別だった。

 大阪桐蔭への進学が決まってから、監督の西谷から「外野の準備もしておくように」と言われ、練習はしていた。しかし、内心では「ショートで勝負や!」と持ち前のプラス思考も発揮し、そのつもりだった。だが、実際に同級生のハイレベルな内野守備を目の当たりにし、「すぐにグラブを替えて外野に行ったのを覚えています」と、白水は振り返る。

 外野となると、バッティングの力がより問われる。そこは同級生を比べて「いける」と確信したのだろうか。

「いけるとは思わなかったです。ただ、僕は自分がうまいと思っていなかったので、徹する自信はありました」

 白水が言う「徹する」とはどういうことか。

「たとえば、バッティング練習で『今日は打たなくていいから、セーフティー(バント)の練習だけをしとけ』とか、『エンドランの練習だけでいいぞ』と言われたとして、僕はそれを集中してやりきれる。でも、中学時代に全日本の4番を打っていた選手とかになるとプライドが邪魔して、やりきれなかったりする部分があると思う。だから、僕にはチームに求められるコマになる自信があった。どこかにはハマっていける。それが何とかなると思えた理由のひとつです」

 生き残るための冷静な判断。目論見どおり、白水はチームの必要なコマとしてポジションを確立していった。

【澤田圭佑とともに副主将に就任】

 2年秋から新チームでは、澤田圭佑(現・ロッテ)とともに主将の水本弦を支える副主将となった。エネルギッシュで前向き、そして発言力もある。ミーティングでは中心となって話を進めることも多かったが、そこには白水の計算もあった。

「水本は周りをグイグイ引っ張るというより、メンバーに入っていないヤツを大事にしながら下から押し上げてチームを束ねていくタイプ。一見、何を考えているのかわからないところもあるけど、前チームからのレギュラーで実力的な信頼を寄せていましたし、水本が『これでいこう』と言えば、ついてくることもわかっていました。だから、水本の発言に重みを持たせる意味でも、本人にはあまりしゃべらさないでおこうと考えていました。ふだんは僕が積極的に話し、うまくいかなかったり、最後の締めが必要になったりすれば、水本に決めてもらう。そのへんの呼吸はうまくいっていたと思います」

 新チームが立ち上がりと、当時まだいた通いの選手も寮に入って"寮合宿"を実施。夜には毎日選手間ミーティングを行ない、ここで白水が中心となり、掲げられた目標が「春夏連覇」だった。

「西谷先生は、常に強いチームより負けにくいチームをつくろうと言われていたので、『負けにくいチームってなんぞや?』というところから始まったと思います」

 実力的には、自分たちの代のチームより上だったと、各選手が口を揃える前チームを参考に意見を出しあった。

「周りからいくら強いと言われても、一発勝負のトーナメントでは1回負けたら終わり。あのチーム(前チームは大阪大会決勝で東大阪大柏原にサヨナラ負け)でも勝てなかったことで、負ける要因を全部潰していこう、と。もちろん練習はしっかりしましたが、それ以上に寮生活をきっちりする、時間を守る、掃除をしっかりやる......そういうところを一生懸命やった記憶が強いですね。とにかく甲子園へ確実に出るためにスキをなくす。そういう考えがチームに浸透していたので、夏の甲子園メンバー決定の時、それまでちょくちょくスキを見せていた(センバツで4番を打った)小池裕也を外すことには、僕も、水本も、澤田も、いっさい迷いはなかったです」

【西谷監督交代の噂】

 そして白水はもう一点、野球以外の要素を挙げた。

「これはもう、ハングリー精神ですね。とにかく勝つことへの貪欲さ、執念、そこをものすごく持った学年でした。当時のメンバーと話をしていて、たとえば最近の桐蔭の選手を見ていたら、藤浪晋太郎(現・メッツ)や森友哉(現・オリックス)以外はレギュラーになれへんし、ベンチに入れるのも澤ちゃん(澤田圭佑)くらいやろうって。能力だけで言うとそれくらい差があるけど、根性とか、負けん気やったらオレのほうが上やろうって。そこはみんな言うてます」

 その強さは、どこから生まれたのだろうか。

「もともとの能力に加えて、大阪桐蔭に入れば行けるだろうと思っていた甲子園に行けないまま高校野球が終わるかもしれないという焦り。ここが大きかったと思います。入学直後の春に先輩たちが出場していたセンバツをスタンドから見ただけで、そこから夏、秋、夏と負けた。とくに1学年上の代は本当に強いと思っていたのに勝てなかった。甲子園のチャンスは残り2回。なんとしても甲子園に行きたいと、本気の本気になったんだと思います」

 やがて、ある噂が選手たちの間で流れてきた。

「オレらが甲子園に行かれへんかったら、危ないかもしれんって」

 要は、西谷の監督交代にまつわる噂だ。甲子園から遠ざかっているといっても、期間はたった3季。しかし、力があった前チームの負けがネガティブな空気を生んでいたのか。そんな噂話に選手たちの反応はどうだったのか。白水が当時の記憶を呼び起こす。

「マジで? やばいやん」

「西谷先生って、いま甲子園何勝なん?」

「たぶん14勝」

「オレらで春夏全部勝ってプラス10くらいにしたら、しばらくいけるんとちゃう?」

「ほんまやな。じゃあ、やっぱり連覇や」

 白水は言う。

「よく高校野球で、選手が『○○監督のために』『○○先生のために』っていうのがあるじゃないですか。大阪桐蔭って『西谷先生のために』って表立っての感じはないんです。でも、信頼関係はめちゃくちゃある。根も葉もない噂だったと思いますけど、『甲子園に行って優勝や!』って気持ちになりましたね」

 白水は甲子園で戦ったなかでももっとも厳しい戦いとなった春の準々決勝の浦和学院戦で、9回に勝ち越しのタイムリー。夏はセンバツの再現となった光星学院(現・八戸学院光星)との決勝で貴重な先制弾。チームに必要なコマに徹した男の大仕事もあり、春5勝、夏5勝ときっちり10勝をプラスし、史上7校目、大阪桐蔭としては初となる春夏連覇を成し遂げたのだった。

(文中敬称略)


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