オリンピックのレガシーとは本来、大会開催の意義に紐づくものである photo by Getty Images

検証・オリンピックの存在意義06〜為末大インタビュー前編〜

 パリオリンピック開幕が近づき、各競技に参加する選手たちや大会の直前情報は着実に増えている。そこで、オリンピックと社会の関わりについて考察する当連載では、2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京のオリンピック3大会に出場した400mハードラーで、引退後はさまざまな分野で活動する為末大氏にご登場いただき、徹底的に話を聞いた。

 全3回の前編では、3年前の東京オリンピックが日本のスポーツにもたらしたものと、アスリートと社会の関係性について考察する。

【不透明だった開催意義とレガシー】

――2021年の東京オリンピック・パラリンピック(オリパラ)は、まだ充分に総括をできていないように感じます。3年前の東京オリパラとは我々にとって、結局何だったのか、それを為末さんはどう捉えているのか、というところから、まずは伺いたいと思います。

為末:スポーツ界からすると、非常に考えさせられる大会だったと思います。我々の世代は無邪気に「スポーツってすばらしいですね」という発信でOKだったものが、東京オリパラはさまざまなリスクのなかで行なうことになったため、その意義を世の中から問われ、スポーツ界が「何のためにスポーツをやるんだっけ......」と立ち止まってしまったように見えました。そもそもオリンピックが1964年よりも巨大化して意見も多様化している現代に、これだけ大きなことをやる際の合意形成を取る難しさ、意志決定プロセスの透明性や説明責任など、いろんな課題が表面に出てきた印象があります。

 例えば、新しい国立競技場は前の国立競技場が取り壊されて建て直されました。しかも当初のザハ・ハディド案がなくなり、今の形になりましたが、なぜ壊すのかという議論は充分に行なわれなかったようにも思います。オリンピックが来ると新しい施設を建てるものだ、というのですが、「......そうなのかな?」と感じた人は少なからずいたのではないでしょうか。

 同じように、国民スポーツ大会(国体)も全国を回りながら開催地に新しい競技場や施設を建ててきたのですが、各自治体の予算が潤沢ではない近年では建て替えの是非や大会自体の存在意義が議論されています。その第一歩が東京オリパラでもよかったのではないでしょうか。だから、「何のために開催するのか」という意義を明確にすることが重要だったのだろう、と改めて思います。

――オリンピック開催前から「レガシー(legacy=遺産)」という言葉が多用されてきましたが、具体的に何なのかわからないまま、うやむやになっている印象があります。

為末:レガシーが何なのかは、何のために開催するのか、と紐づいていると思います。オリンピックをやることになったので「レガシー」をあとづけのように作り出した側面もあったのではないでしょうか。ただ、それも仕方がない面はあって、明確なビジョンとKPI(Key Performance Indicator:目標達成の計量的指標)を設定して落としこんでいく西欧諸国の方法論と比較すると、なんとなく始まってなんとなく終わっていくのが、東アジア圏の特徴だと思います。日本はその傾向が特に強く感じますが、もう少し明確な目的があってもよかった気はします。

――あえて言うなら、レガシーとは何だと思いますか?

為末:なぜかあまり議論されないのですが、東京は現在、先進国でも障害者サポートのインフラがもっとも整った国のひとつになったんです。パラリンピックが来ることでさまざまな施設が障害者の方に使いやすい仕様へ変わって、パラリンピックに関してはかなりのレガシーを残したと思います。オリンピックのレガシーについては、そもそも何なんだということも含めて、ちょっとあいまいで難しいのですけれども......。

【日本社会における競技スポーツと生涯スポーツ】

――もうひとつよく使われた言葉に、「アスリートファースト」があります。その「アスリートファースト」とはいったい何だったのでしょうか。また、そのキャッチフレーズが象徴するものは、現在に継承されているのでしょうか。

為末:そもそもアスリートファーストは、巨大な放映権とベッティングが存在する欧米で選手を守る必要があって生まれた概念だと思います。日本では、それがあまりなく観客より競技者中心で発展しているので、すでにアスリートファーストなんじゃないか、という印象があります。ただ、日本のスポーツ予算は、配分が施設に極端に偏っているんです。そういう意味では、もしかしたら日本は建物ファーストで、アスリートはセカンドかもしれない(笑)。

 わかりやすい例で言えば、スポーツ施設の管理団体が行政から業務委託を受ける際に「この金額で維持管理してくだい」という契約になっていることが結構あるんです。そうすると、施設が傷まないほうが維持管理費も下がるから、なるべく人が施設を使わないようにしたほうがいい、ということになる。

――維持管理のために施設を利用させないのは、本末転倒ですね。

為末:そのとおりです。日本のスポーツのシステムは、中高大の部活が才能のある子どもをピックアップしてトップアスリートまで育成してくれるから、その意味では優れているのですが、スポーツをただ楽しくやりたい子、さらに言えば生涯にわたってスポーツを楽しみたい人々にはアクセスがしにくくて、オリンピックで活躍することに特化したシステムなんですね。

――競技スポーツと生涯スポーツが乖離している。

為末:そういうことです。でも、それは一概にスポーツ界の側の責任というよりも、たとえば学校のグランドやプールを開放して事故が起きた場合は校長先生の責任になってしまうので、施設開放を嫌がる傾向があるんです。公園を気軽に利用するように、学校などの施設を使ってスポーツ環境を整えていくことが日本は苦手なんですね。

――それは、改善傾向にあるんですか?

為末:私がオリパラのレガシーを全部決めていいのなら、「すべての日本人が15分以内にスポーツ施設にフリーでアクセスできること」という公約を掲げて招致運動をしたと思います。東京都民の人々のスポーツ環境がよくなって、みんながスポーツ好きになり、その結果、オリンピックやトップアスリートたちを応援する、という構造が理想的だと私は理解しているので、そのためには誰もがスポーツ施設にアクセスしやすくすることがとても重要だと思います。

【変容する社会観と変わらぬ五輪ビジネスモデル】


為末氏は自身の現役時代と現在の価値観に違いを感じているという photo by Murakami Shogo

――オリンピックに対する一般的な理解も、自分たちがスポーツをする楽しみとは乖離したイベント、というものであるように思います。

為末:本当によくわかります。要するに、オリンピックの〈上から目線〉に皆がちょっとカチンとき始めているのではないか、というのが私の実感です。選手それぞれは真摯に競技に取り組んでいて、その姿はやっぱり胸を打つんですけれども、オリンピックそのもののシステムやスポンサー構造がいよいよ反感を買いはじめているのでしょうね。

――以前から指摘されてきたオリンピックの商業主義化や植民地経済的な開催手法は、変わりつつあると思いますか?

為末:1984年のロサンゼルス五輪のときに、たとえ商業主義と言われても儲かるモデルを作って世界中に届く大会を作ったのは、いい効果があったと思います。だけど、それは業種を絞って高い値段でスポンサー契約をして、そのほかを排除するビジネスモデルです。独占と排除という方法はインターネット的思想とすごく相性が悪い。この20年で時代は大きく変わっているので、その独占システムはかなり齟齬をきたすようになっていると思います。

 オリンピックの発展はグローバリゼーションと相性がよかったのだろうと思います。世界中にオリンピックのコンテンツが広がると、ブランドを広げたい企業にも利便性がよかった。今はグローバルサウスや権威主義国家など、五輪の発祥地である欧州とは違う価値観の国の存在感が高まっています。権威主義国家に寄れば批判され、同じ価値観に揃えようとすれば価値観を押しつけることになる。このバランスが難しくなっているのは真実なのかな、と思います。

――そのような過度な商業化や知的財産権の独占がもたらす弊害は、現役選手たちにとってどこまでリアルな問題なのでしょうか。

為末:我々の現役時代(約20年前)は本当に幸せで、オリンピックに出たらみんなが喜んでくれたんですけれども、東京オリパラを経て今の選手たちには「自分たちがやっていることって、本当にいいことなんだろうか......」という疑念が少し生まれたと思うんです。我々の時代だと「100パーセントいいことをしている」と信じることができたんですよ、勘違いもかなりの部分あったと思うんですけれども。今の選手たちは、それに少し疑いを持っている気がします。

【社会の中のアスリートという認識】

――東京オリンピックは新型コロナウイルス感染症が世界で蔓延していた時期で、非常に分かりやすい形でそのような認識に直面したのだと思いますが、パリオリンピックを目前に控えた現在、アスリートたちの考えはどんなふうに変わっているのでしょうか。

為末:まず、東京オリパラでスポーツ界が気づいたんでしょうね、「あれ、スポーツを嫌いな人もいるのかもって(笑)。「オリンピックなんて全然興味ない」という人たちがいるのは当たり前なんですけれども、それが可視化されて傷ついたアスリートもいたかもしれない。一方で我々の時代は「がんばります、日本を代表して夢と希望を!」みたいな世界観だったものが、近年では、何のためにスポーツをしているのか、と自ら顧みるすばらしい選手が多くなったとも思います。

――それは選手にとって幸せなことなのでしょうか。

為末:選手は純粋に競技に取り組んでほしい、と考える人もいるでしょうね。私自身も、じつは少しそう思うところもあるんです。けれども、やはり社会的な振る舞いを学び、そのうえで競技に集中するという、両方をやらなければいけないのだろうと思います。昔は、我々オリンピアンは「引退したら社会人にならないとね」なんて平気で言っていました。でも、今は全員が踏まえておくべき常識があって、皆が同じ社会で共存しているという考え方は、世界的に共通しているように思います。

――アメリカやヨーロッパでは社会的な発言をするアスリートが以前から多い一方で、日本では「世の中のことには口を挟まず競技に集中するんだ」という傾向が強かったように思います。現代のアスリートたちは、社会へのコミットメントに対するプレッシャーを感じているのでしょうか?

為末:あると思いますよ。昔はシンプルで「あなたの競技人生の夢を教えてください」というようなものだったのが、今は若くて経験がない選手にも社会やオリンピックに関する大きな問いが投げかけられる。何がセンシティブかもわからない年齢の選手にとって、リスクやダメージはたしかに大きいかもしれません。でも、その状況に適応していかなければならないだろうとも思います。選手たちはそういう質問に対応すると決めてもいいし、発言しないと決めてもいいと思いますが、今後は社会に対する発言を求められる機会は増えてくるでしょうね。

つづく

【Profile】為末大(ためすえ・だい)/1978年生まれ、広島県出身。現役時代は400mハードル日本代表選手として多くの世界大会に活躍し、2001年エドモントン、05年ヘルシンキの世界陸上選手権では銅メダルを獲得。オリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場を果たした。現在(2024年7月15日)も400mハードル日本記録(47秒89/2001年樹立)を保持している。2012年シーズンを最後に現役を引退後、現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。