2006年9月2日のソフトバンク戦で、先制2点二塁打を放つ

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「いつかは自分も指導者になりたい」。高校時代に抱いた夢を実現するために、プロ野球選手になってからも練習の合間に勉強を続け、大学院へ――ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第13回は元プロ野球選手から大学教員への道を進んだ西谷尚徳さん(42)です。第1回の記事では 、プロ入り後の苦難の日々から大学院進学を目指すところまでを伺いました。第2回 は戦力外通告を受けてから何を考えたのか――。(全2回の第2回)

【写真】「野球以外の好きな事、夢中になれる事を絶対に持って」と現役選手へメッセージを送る

現役中から始めた「転職活動」が奏功する

 プロ5年目となる2009(平成21)年、西谷は明星大学大学院人文学研究科に入学する。現役引退後に教育の道に進むための第一歩だった。しかし、この年のオフ、東北楽天ゴールデンイーグルスから戦力外通告を受けた。引退後の準備は着々と進めていた。それでも彼は現役続行にこだわり、トライアウト受験を決めた。

2006年9月2日のソフトバンク戦で、先制2点二塁打を放つ

「いや、現役にこだわったというよりは、“けじめをつけたかった”というのが理由です。このとき27歳、故障ばかりだったとはいえ、年齢的には脂がのっている時期です。だから、“ここでダメなら潔く諦めよう”という思いでトライアウトを使わせていただきました」

 その結果、阪神タイガースから育成枠での採用オファーを受けた。首の皮一枚、現役選手としての可能性が残されることとなった。10年シーズンは、阪神の育成選手として、そして大学院2年生として、二足の草鞋を履いた。しかし、何も結果が残せぬまま、再び戦力外通告を受けた。やるだけのことはやった。もう、プロ野球の世界に未練はなかった。

「この年のシーズン途中、すでに引退後のことを見据えて、夏ぐらいからは各方面に履歴書を送るなど、次のステップに向けて動き始めていました。もしもタイガースから戦力外通告を受けずに、どこかから内定をもらっていたとしたら、その時点で僕は自ら引退していたと思います」

 プロ6年間で16試合に出場し、50打数12安打、打率・240というのが、西谷がプロの世界で残したすべてとなった。1年目の春季キャンプでヒジを故障し、その後、トミージョン手術も受けた。満身創痍の中で残した結果に悔いはなかった。一方、シーズン途中から始めていた「転職活動」は望外の高い成果を残していた。引退直後の11年4月からは、多摩大聖ケ丘高校で国語の教諭として勤務が決まり、同時に明星大学大学院人文科学研究科教育学専攻修士課程を修了し、そのまま明星大学で体育の授業を担当することになった。

「そして、2年後の13年には立正大学から文章表現の講義依頼を受けました。3つの道の中から、自分はどうすべきかを、どの道に進むべきかを考えた結果、立正大学で教鞭をとることを決めました。自分が中学時代に思い描いていたことを思い出し、“何が楽しいのか、何をやりたいのか?”と考えた結果、体育ではなく国語教育をしたかったんです」

 こうして、プロ野球選手から大学教員への異色の転身劇が実現する。しかも、体育ではなく国語教員としての生活が始まることになった。

「生まれ変わっても、プロ野球選手にはならない」

 西谷が現役を引退したのが10年オフのこと。高校、大学で教員となったのは11年春のこと。まったくブランクなく、次の道が決定している。現役時代からきちんと将来を見据え、綿密な計画の下で準備をしてきた成果だった。

「現役時代は、とことん野球のことだけを考えて、野球だけに埋没する。そういう考え方があるのも理解できます。でも、プロ野球というのは限られた選手だけが活躍できる厳しい競争の世界です。入れ替わりも激しい世界だからこそ、野球以外の好きなこと、夢中になれることは絶対に持っていた方がいい。僕は今でもそう思っています」

 彼が語る「野球以外の好きなこと、夢中になれること」を突き詰めれば、第二の人生の指針となる可能性が高い。西谷はそう考えている。その後、16年には自著『社会で活躍するためのロジカル・ライティング 』を出版し、18年には准教授となった。順調なキャリア形成を送っている西谷に、「現在の仕事の大変なところは?」と尋ねると、真っ先にこんな言葉を口にした。

「プロ野球選手より大変なことは、今のところまだないですね」

 この言葉を受けて、「プロ野球選手時代は、それほど大変でしたか?」と尋ねると、西谷の口元から白い歯がこぼれた。

「大変でした(笑)。もう二度とやりたくないというか、生まれ変わってもやらないですね。こんなことを言ったら、ファンの方に怒られてしまうかもしれないけど、プロ時代は大変なことしかなかったです。でも、今は大変と言えば大変ですが、学生たちのキラキラした目や、卒業生が社会に出て活躍している姿を見れば、やりがいを感じるし、とても嬉しいし、楽しいことばかりですからね」

 球界再編騒動に巻き込まれる形で、新生球団に入団した。プロ入り後は相次ぐ故障に悩まされ、思うような成績を残すことはできなかった。後悔もあれば、反省もある。「自分はもっとできたのではないか?」とか、「故障さえなければ」と考えることもある。改めて、「あなたにとってのプロ野球選手時代とは?」と尋ねると、その言葉は短い。

「苦しい時期でした」

 続く言葉を待った。

「今でも、悪い夢を見るときは、必ず野球なんです(苦笑)。自分に自信が持てないまま打席に入って悪い結果を招いてしまう。“もっと、こうすべきだった”とか、“こんなやり方をしていればよかったのに”とか、そういう夢ばかりなんです」

野球で学んだことは、社会で通用することばかり

 しかし、その口調は必ずしも暗く陰鬱なものではなかった。むしろ、すでに心の整理がついているかのようなサバサバした印象を与えるものだった。

「でもね、プロ野球で経験したことが今の自分の支えや自信になっていることもたくさんあるんです。野球を通じてリーダーシップを学んだり、忍耐力を身につけたり、自己管理能力も鍛えられましたから。野球というのは、同じプレーが一つとしてないものです。自分で課題を見つけて、その課題を解決する能力が求められます。臨機応変に課題に対処する。野球から学んだことは、どんな仕事においても一般化して役立つことばかりです。どんな仕事でも通用しますから」

 西谷が入団した楽天には現在、小郷裕哉と伊藤裕季也、2名の立正大学卒業生が在籍している。「彼らに何かアドバイスをするとすれば?」と問うと、「僕なんかがアドバイスするなんて、おこがましいですけど……」と前置きした上で、西谷はこう続けた。

「これは、私自身ができなかったことなんですけど、彼らには、自信を持ってプレーしてほしい。“自分が一番なんだ”という思いを忘れないでほしい。僕も、“もっと自信を持ってプレーできていたら、違った結果が出たんじゃないのかな?”と思うことがあります。プロ野球選手になったという時点で、それは本当にすごいことなんだから、“もっと自信を持ってほしい”ということは、十何年前の自分にも伝えたいことですね」

 さらに、過酷なプロ野球の世界で奮闘を続けているすべての若手選手たちへのアドバイスを求めると、その口調は熱を帯びた 。

「常に1年以上先のことを見据えていてほしいと思います。“自分は何年後、どうやって生きているのだろうか?”と自問自答してほしい。プロ野球に限らず、どんな仕事においても、人と人とのかかわりの中で生きています。直接、野球とは関係ないように思える人の中にも、後に繋がるような出会いもあるかもしれない。“いろいろな人を大切に”というのは伝えたいことですね」

 穏やかな佇まいで、淡々と、そして理知的にやり取りが続く。その姿は、確かに「元プロ野球選手」のそれではなかった。「今はもう、ほとんど身体を動かしてはいません」と笑う西谷は、現在は1年生には文章表現を教え、2年生以上にはゼミナールやフィールドワークで、学生たちとともに学ぶ日々を過ごしている。

「現在の生活は本当に楽しいですよ。中学、高校の頃に思い描いていた“教育者になる”という夢がかないましたからね」

 さまざまな故障に苦しめられ、「今でも夢に見る」という6年間のプロ野球生活は決して遠回りだったのではない。かつて、少年時代の彼が思い描いた「教育者になる」という夢を実現するために、「プロ野球」という世界を経験したことが糧になっている。西谷の笑顔を見ていると、そんな気がしてならなかった――。

(文中敬称略)

*第1回記事 は、高校時代の恩師から野球以外に学んだ大切なこと。明治大学野球部時代に起きた球界再編騒動、予想もしなかったドラフトでのプロ入りなど。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部