©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

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 6月30日に『テレビアニメ「鬼滅の刃」柱稽古編』が最終話を迎え、放送内でその続編にあたる「無限城編」が劇場版三部作として制作されることが発表された。つまり、我々がテレビアニメとして楽しむ『鬼滅の刃』はおそらく「柱稽古編」が最後だったというわけだ。全8話と、これまでの章の中で最もミニマルかつコンパクトに作られた本章が物語においてどのような役割を果たしたのか、劇場版への期待とともに振り返りたい。

『鬼滅の刃』無限城編、劇場版三部作で制作決定

・柱を描いた「柱稽古編」

 先に述べたように、原作では15巻から16巻にあたる柱稽古編は、3巻で描かれた刀鍛冶の里編や遊郭編に比べるとやや短い。加えて、それぞれの章が竈門炭治郎と上弦の鬼の接触、対決を描いたのに対し、柱稽古編はそれがない(ラストの鬼舞辻無惨との邂逅を除いては)。いわゆる“修行編(トレーニング・アーク)”にあたる本章だが、それでも特に炭治郎や他の主要人物が新たな技を会得するような場面も少ない点が興味深いのだ。

 大概がこのタイミングで次のステージのボス(本作で言えば残った上弦の鬼と鬼舞辻無惨)を倒すために、今足りないものを補い、そのレベルアップの結果をわかりやすく可視化した「新たな必殺技」として表現するパターンが多い。しかし、ここで行われた修行の大半が基礎的な体力や動きの向上である。なんといったって、不死川実弥との稽古に至っては接近禁止令が言い渡され、まともな特訓も終えていないのだ。では、この特訓そのものが実は重要ではなかった本章が描きたかったものとは何か。柱たち……特に冨岡義勇と悲鳴嶼行冥の過去である。

・明かされた冨岡義勇と悲鳴嶼行冥、産屋敷耀哉の本音

 煉獄杏寿郎や宇髄天元、時透無一郎に甘露寺蜜璃など、これまで炭治郎と共闘してきた柱はその際に彼らの過去が描かれた。そして「柱稽古編」は、これまでの物語であまり出てこず、未だ謎に包まれた柱たちに迫る。第1話から登場し「禰󠄀󠄀豆子が人を喰ったら切腹する」などの強い覚悟で竈門兄妹を応援していたが、未だに心の内が知れなかった冨岡義勇。両親を早くに亡くし、姉と2人で暮らしていた時に鬼の襲撃を受け、自分を庇った彼女が殺された。ここで、彼の竈門兄妹に対する思い入れの理由が垣間見える。弟の自分を庇った姉と、鬼になった妹を助けようとする兄の炭治郎を重ねたのかもしれないのだ。

 姉の死の経緯を信じてもらえず、心の病だと疑われた義勇は山に逃げ、そこで鱗滝の知り合いに助けられて鱗滝の元に入門する。そして出会ったのが、錆兎だった。「立志編」で描かれたように、彼こそ炭治郎の修行を手助けした亡霊なのだが、その死に義勇が関わっていたことが今回明かされる。最終選抜で鬼から錆󠄀兎に守られ、気絶している間に彼のみが戦死したことを知らされた義勇。またも、自分を庇ったことで大切な人間が死んでしまった。そのサバイバーズ・ギルトと選抜試験を実力で合格していないことへの負い目から、彼は柱に自分が相応しくないと考え、その劣等感から他の柱と距離を置いたり柱稽古を拒否したりしていた。しかし、炭治郎によって錆󠄀兎から託されたものを紡いでいくことを心に決め、前を向くようになる。

 炭治郎に過去を打ち明け、前を向けたもう1人の重要人物が悲鳴嶼行冥だ。寺で面倒を見ていた孤児をその内の1人の手引きによって惨殺され、命をかけて守った少女からは化け物だと指を指されて殺人の容疑をかけられる。そんな経験をすれば人間不信にもなるし、他人に対する慈悲の心も失うだろう。しかし、そうではなく常に念仏を唱えながら温厚でいることに努め、世を憐れみ、亡き子供達を哀れむように涙を流す悲鳴嶼。彼は「嘘をつくこと」も含まれた“相手を傷つけ、自分をも苦しめる行い”「十悪」を良しとしない仏教の教えそのものを体現するかのようなキャラクターであり、たびたびセリフに教訓を持たせる『鬼滅の刃』という作品において、存在そのものが教訓のような印象が強い人物となった。

 キャラクターの深掘り、という観点である意味誰よりも驚きがあったのがお館様こと産屋敷耀哉だ。常に微笑みを絶やさず仏のような顔をしていた彼だが、あの壮大な爆発がその裏に隠された憎悪の凄まじさを物語っていた。妻のみならず2人の娘をも道連れにして自爆したことに関して、“あの”無惨も「完全に常軌を逸している」と驚いてしまうほど。千年前に一族から鬼を出してしまったことから受け継がれてきた呪いと恨み。ただの爆破にとどまらず、まきびしを仕込むなど殺傷能力を高め、無惨の肉体再生を遅らせようとしていたことからも、彼の計画力と容赦のなさが伺える。妻子を道連れにしたのは、おそらくあのまま自分だけ死んでも無惨が手をかけ、殺すよりも酷く産屋敷にとって侮辱的な行為……彼女たちを鬼にしてしまうなんてことがあったら堪らなかったからではないだろうか。

・約6分の“徒歩シーン”から一変したアクションシーン

 さて、その無惨だが「柱稽古編」で特筆すべきはやはり彼の“徒歩シーン”ではないだろうか。第7話のエンディングラストで(厳密にいえばエンディング映像から歩いているわけだが)、約3分間もの時間を使って産屋敷亭に向かう無惨を描いている。多くのアニメが1話あたりOP曲とED曲込みで約23分の場合が多いことを踏まえると、この3分という時間がどれほど長い時間であるか想像に容易いだろう。それほどの時間を使い、スローモーションで産屋敷邸に踏み入る無惨を描くことで、彼の恐怖感を増幅させた。しかし驚くべきは第8話の冒頭でまた、約3分を使って無惨が産屋敷の元に歩いていく様子を描いたこと。流石に度肝を抜かれてしまった。

 言ってしまえば、いくらキャラクターの深掘りが重要だからといっても映像的な観点では、アクションシーンがたびたび話題を呼ぶ本作の中で比較的ダイナミックさに欠けていた「柱稽古編」。そこでさらに間伸びしかねない演出を重ねる選択はかなりの賭けだったように感じる。しかし実際、その「抑え」があったからこそラストの爆発シーンからのインパクトが際立った。そこから重ね重ねに展開される珠世の血鬼術、悲鳴嶼による頭部破壊シーン、再生した無惨と悲鳴嶼の攻防は圧巻そのもの。加えて産屋敷と無惨の静かなセリフのやり取りが続いた後に響く珠世の感情のこもった啖呵は、坂本真綾の演技も相まって心に突き刺さる素晴らしいものだった。このように1話の中で映像と音の両側面で緩急を持たせ、「抑制」と「衝動」の効力を最大限に引き出した演出には、ただただ脱帽である。

・劇場版三部作に向けての期待と懸念

 産屋敷の最期は、彼の思惑通り柱たちの士気を高めた。一斉に無惨に襲いかかる柱と炭治郎の迫力も凄まじかったが、鳴女の血鬼術により一気に地面が底抜けて無限城に突き落とされる演出も鳥肌もの。シーンに琵琶の音色がついたことで、原作漫画のコマよりもその衝撃性と絶望感が色濃くなっている。

 炭治郎たちに限らず、一気に鬼殺隊を始末しようする無惨の思惑によって炭治郎に限らず遠く離れた場所にいた嘴平伊之助や我妻善逸、不死川玄弥に栗花落カナヲなど、多くのキャラクターが城内に引き込まれてしまった。特に、何らかの報せを受けてから人が変わったように沈黙を貫く善逸は気になる存在である。これから劇場版三部作という形で壮絶な戦いが描かれる「無限城編」だが、そのアクションシーンが大きなスクリーンで堪能できるのはやはり楽しみだ。特に、劇場版でなくたって「遊郭編」や「刀鍛冶の里編」そして今回の「柱稽古編」のラストのようなハイクオリティの作画や演出を地上波アニメのフォーマットで提供してきたufotableだからこそ、劇場版だからこその迫力には期待が高まる。

 一方、少しだけ懸念があるとすればそれは劇場版の対象年齢である。もし原作通りの出来事を、同じような描写で見せていくのであればその残酷さから、レイティングがR15+になっても不思議ではないのだ。「無限列車編」の程度でPG12だったことを考えると、大いにあり得る。しかしそうなった場合、小さい子も親と一緒に観ることができ、家族でのリピーターが多かった「無限列車編」と比べて興行収入的に苦戦を強いられる可能性が出てくる。だからと言って、ではPG12指定になるように作品の演出を“調整”すれば、本来の描写を求めるファンが観たいものは観られない。この塩梅をいかにクリアしていくのかが、やはり「無限城編」の大きな課題となるのではないだろうか。

 作品が何年単位で公開されていくのかも気になるところだが、今は美しく締めくくられた「柱稽古編」の余韻を噛み締めつつ、続報を待ちたい。(文=アナイス)