(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

吉高由里子さんが主演する大河ドラマ『光る君へ』(NHK)が放送中です。物語は、吉高さん演じる、のちの紫式部“まひろ”と柄本佑さん演じる藤原道長の間の特別な絆を軸に進んでいきます。定子と深い関わりを持つ人物のひとりに「清少納言」がいます。彼女の目に「道長」はどう映っていたのでしょうか。本稿では、平安文学研究者の山本淳子氏による著書『道長ものがたり』(朝日新聞出版)から一部抜粋し、藤原家ではない人物から見た「藤原家」の姿に迫ります。

ひざまずく道長

最後に、清少納言に登場してもらおう。「春は、あけぼの」の『枕草子』で知られる彼女は、正暦四(993)年、既に知的な女房の集められていた定子のもとに中途採用された。

記事はその翌年のことである。清少納言は定子について天皇の清涼殿(せいりょうでん)に来ていた。天皇の成長を受けて前年に関白となった道隆がちょうど退出する折で、隙間(すきま)なく並んだ女房たちが彼を送る。

戸口の前の女房が色とりどりの袖口も美しく御簾(みす)を上げると、外では権大納言の伊周が待ちうけ、道隆に沓(くつ)を履かせる。「関白殿ってすごい。大納言なんていう方に沓を履かせてもらうなんて」。教養あふれる貴公子・伊周に憧れる新人の清少納言は、道隆の栄華に溜息をつく。

清涼殿の戸口のすぐ北は弘徽殿(こきでん)、その北は登華殿(とうかでん)と、後宮(こうきゅう)の御殿が並んでいる。その登華殿の前まで、官人たちが居並び、みな道隆のためにひざまずいている。全員が四位(しい)以上の位を持った上級貴族たちである。その時、清少納言は彼らのなかに道長の姿を見つけた。

宮の大夫殿(だいぶどの)は、戸の前に立たせ給へれば、ゐさせ給ふまじきなめりと思ふほどに、すこし歩(あゆ)み出(い)でさせ給へば、ふとゐさせ給へりしこそ。なほいかばかりの昔の御行ひのほどにかと見たてまつりしこそいみじかりしか。

(中宮の大夫・道長殿が戸の前にお立ちだったので、私は「大夫殿は道隆殿にひざまずかれないだろうな」と思って見ていた。が、道隆殿が少し歩み出されると、大夫殿がさっとひざまずいたではないの! やっぱり関白殿、前世の行いがよほど良かったのね。私はそう拝察して感動したことだった)

(『枕草子』一二四段「関白殿、黒戸より」)

清少納言の目は道長に引き付けられた。そして「道長様は関白様にひざまずくまい」と予想し、固唾を吞んで見守った。この時まだ彼女は新人女房だったが、やはり道長と中関白家の間には、はっきりした緊張関係があると知っていたのだ。

結局、道長は清少納言の予想を裏切って道隆にひざまずいたが、最初は一人だけ突っ立っていて、道隆が歩き出した時に初めて身をかがめたのだから、十分目立っている。その効果を十分に計算に入れた、道長の示威行為と言えはしないだろうか。

清少納言に対して「定子」が道長を「例の思ひ人」と呼んだ理由

清少納言は、目撃したことを半ば興奮して定子に伝えた。

大夫殿のゐさせ給へるを、返す返す聞(きこ)ゆれば、「例(れい)の思ひ人」と笑はせ給ひし。

(大夫の道長殿がひざまずかれたことを、何度も何度も申し上げると、「例によって大夫はあなたの御贔屓ね」と、定子様はお笑いになった) (同前)

この定子の言葉「例の思ひ人(いつもの御贔屓ね)」を、額面通りに受け取る者はいまい。もし本当に清少納言が定子と道長との対立を知りながら道長を贔屓にし、日頃からそれを公然と口にしていたのなら、仕える身として緊張感がなさすぎる。清少納言が道長に注目していたのは、むしろ定子への忠誠心からだった。

かたや定子の方では、清少納言の一喜一憂をそのままに受け取っては、中宮として威厳がなさすぎる。それでまぜかえして、いつも道長を気にしている清少納言を〈道長推し〉と笑ったのだろう。それは定子ならではの〈機知〉だった。中関白一家は道隆も定子も日頃から、事実と逆のことを言う冗談がお得意だったのだ。

いずれにせよ、道長は道隆・定子の栄華のもと、その配下に組み込まれながら、独自の道を歩もうとしていた。まさに虎視眈々というにふさわしい雌伏の時期だった。だが、天はその間にも道長に味方しつつあった。定子と清少納言を悲劇が襲い始めるのは、この翌年からのことである。

山本 淳子

平安文学研究者