幸せに生きるためには何が必要なのか。YouTubeチャンネル「森ケの日常」(チャンネル登録者数85.1万人)を配信する森三久さんは「以前はとにかく働いて稼げば幸せになれると思い込んでいた。だが娘のある一言をきっかけに、幸せとは何か、考え方が変わった」という――。

※本稿は、森三久『僕の自慢のヤバい家族 子育ての常識を捨てたらみんなの笑顔が増えました』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Nadezhda1906
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nadezhda1906

■借金を背負って蒸発したダメ親父

僕の親父は絵に描いたようなクズで、ドラマでよくある借金、暴力、女が大好きな、今皆さんが想像してるような典型的なダメ親父です。

ある日僕が家に帰ると引っ越し業者が来ていて、荷物を運び出していました。オカンは、僕に何も言わずに実家に弟と妹を連れて出ていきました。

僕が物心ついてからは、うちはずっと貧乏で、家にお金があったことは、一度もなかった。親父がやっていた商売は、景気のいい時もあったと思うけど、儲かっていたとしても、一回も家にはお金を入れてくれなかったとオカンが言っていました。いつも「事業が軌道に乗るまでもう少しだ」みたいに言い訳していましたが、僕が中学生の時、親父が借金を背負って蒸発しました。

オカンは実家に帰り、親父はいなくなったので、僕はじいちゃんとばあちゃんと暮らすようになりました。

漫画やドラマでよく、貧乏が嫌で頑張ったみたいなストーリーがありますが、僕もそんな感じで、貧乏から早く抜け出したくて、じいちゃん、ばあちゃんにも早く親孝行がしたくて、とにかく早く稼げるようになりたいと思いました。

■地元の若者が手放した原付を中古販売して稼ぐ

親父が事業をしていたので、高校生の終わりに僕もやろうと思い立ちました。ですが教えてくれる人も聞く人もいなかったので、とりあえず本から学ぼうと思い、本屋に行きました。

その時に僕が買った本は3冊。不動産の本とアフィリエイトの本、そして細木数子の占いの本です。

高校を卒業してからとにかくいろんなことをやりました。ブライダル、鳶職、労働者派遣業、飛び込み営業、中古のバイク販売、アフィリエイト、ブロガー……。

その当時で、月に200〜300万円くらいは稼いでいました。

いろいろとやってみたうちの一つがバイクの売買。僕の育った地域は田舎やったんで、バイクの免許が取れる16歳になると、みんな原付に乗るようになります。で、18歳になったら今度は車に乗るようになるから、もう原付はいらないってことで、安く手放すんです。

僕はいらなくなった原付を5000円くらいで買って、メンテナンスをして3万円で売ってました。この流れで、年間200台くらいはさばいていました。

原付以外のミニバイクなんかも、中古を3万円で仕入れて修理すると、16万円くらいで売れました。高校を卒業した子から買って、新入生に売るっていうシステムができあがってからは、めちゃくちゃ儲かりましたね。この仕組みを17〜18歳くらいの時に思いつきました。

他にも、酸素カプセルの営業として接骨院に売りに行ったりと、18〜22歳くらいまではこんな感じで大小様々な事業をやっていました。

飲食店やりたいなって思いながらバーにアルバイトしに行ったら、ちょうど店長と副店長が辞めることになって、オーナーに「この店買わへんか」みたいに言われて、アルバイトから一気にオーナーになるという出来事もありました。

もちろん、飲食店経営に関してはなんの知識もなかったけど、とりあえず一生懸命やったら、買う前は1カ月の売上が30万円だったのが、半年で250万円になり、すぐに400万円くらいになりました。

そこから飲食店の店舗数を増やしながら、売上を伸ばしました。その時出た売上を全て事業投資に回して、飲食店をやりたい人や、他の飲食店への投資、牡蠣の養殖、底引き網漁、植物工場、エステのフランチャイズ、飲食店や店舗のコンサルティング、と広げていきました。あの貧乏の時代に戻るのが怖くて死ぬ気で働いていました。

長男のカチが生まれる頃に仕事は軌道に乗り、一部事業を売却できたりして、一段落しました。

■“クソ親父”のようにならないために必死で働いた

僕は今ではこんなふうに家族の主人としてやっていますが、結婚する前や結婚当初は、家族を持つことや自分の子どもに対して、ずっと頭の中に不安がありました。

そのひとつが、自分の父親のことです。自分もあんなふうになるんじゃないかという不安がずっと付きまといました。

本で読んだのですが、男性の性格や行動は60%くらい父親の行動が影響・遺伝するみたいです。だから、僕も親父みたいになる傾向があるんじゃないかと思っていました。

親父を反面教師にと意識して生きてきたのですが、それでも、金の使い方とか、息子なんで似てるところがありました。自分の中にクソ親父の影を感じて、そうならないためにも必死に働きました。

■3歳の娘が口にした「パパ、お仕事行かないで」

でも、仕事をすればするほど、子どもたちと過ごす時間はなくなって、どう接していいかも分からなくて、子育てに対する不安が大きくなっていきました。

そんな時、いつものように仕事に出かけようとしたら、3歳のくーちゃん(次女)が玄関で両手を広げて「パパ、お仕事行かないで」って通せんぼするんです。「ごめんな、パパ仕事やから」と言うと悲しそうな顔をする。全然家にもいないし、何もしてやれてないのに、こんなことを言ってくれるんだと思いました。

とはいえ仕事があるから、僕はくーちゃんの頭を撫でて、行ってきますと玄関を出て車に乗ろうとしました。当時はボロボロの集合住宅みたいなところに住んでいて、そこの駐車場から自分たちの部屋のベランダが見えます。くーちゃんはベランダに出て、室外機の上に乗って、ベランダからずーっと手を振っていました。

僕はその時、それまで抱いたことのない感情になりました。

あったかい、胸が締めつけられるような感覚でした。

僕は自分の父親に対して、そんな感覚を持ったことなんて、一度もなかった。家にいない方がいい、早く仕事に行ってくれ、出てったら帰ってこないでほしいと思っていたくらいなのに、くーちゃんは「お仕事行かないで」って僕を引き止めてくれる。

僕を求めてくれる人がいるんだと、そこでまた、凍っていた心が解けていく感じがしました。

■何もしてあげられなくても存在を求められる

僕は仕事をして金を稼げば幸せになれると思い込んでいたので、その時は正直家族なんてどーでもよくて、ママにも「仕事が一番やから」と堂々と言っていました。

というか、家族を守るためとかじゃなくて、不安を消し去るため、自分のために、仕事のために仕事をしていたと思います。親父みたいにならないように必死に仕事をやっていたつもりが、どんどん家族との距離を遠くしてしまっていました。

なんか常に戦闘態勢やないけど、いろんなことに鋭敏で、神経を尖らせていて。僕は誰にも騙されないぞ、絶対に生き抜いてみせるぞ、成功してやるっていう、謎のギラつきがずっとあったんです。

ママと結婚して子どもたちが生まれて少しずつその鎧が剥がれていきましたが、そのきっかけの一つが、くーちゃんの「お仕事行かないで」でした。

自分の家族が「見返りがあるからする」みたいな関係やったので、僕は何もしてあげられていないのにくーちゃんは僕を求めてくれるんだ、求められるってこんな感じなんだって思って。

それから、ママに子どもたちや家族に対する考え方や接し方を教えてもらいながら、ちょっとずつちょっとずつ変えていきました。

■家で仕事の話を一切せずにいたら何が起きたか

全国のパパさんは家族に自分の仕事を伝えていますか?

僕はずっと、話さずにいました。

今でこそ、ママとはたくさん話し合って、子どもたちのことも、仕事のことも共有しているんですが、昔は真逆でしたね。家では一切、仕事の話はしませんでした。というのも、心配させたくなかったし、困ってる姿を見せたくなかったから。口には出さずとも、心の中には「家族を安心させたい」「お金の不安なく家族が暮らせるように」という思いがあったから。

仕事が軌道に乗る前の不安定な段階で現状を話しても、ママが不安になるだろうから、だから黙っていた。自分だけ納得していればいいと思っていました。

写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/takasuu

けど、話さないでいると、言い合いになってしまうんですよね。

ママからしたら、何も言わずに仕事に出かけていくけど、会社員でもないし、一体、外で何をやっているのか分からない。僕の親父は蒸発したりしてるから僕もそんなふうになるんじゃないかと不安になっていたみたいです。何も分からないから、ちょっとした不安の種が、知らぬ間にどんどん、大きくなってしまう。

僕は僕で、「なんで信じてくれないんだ」って思っていました。

■「説明してもわからないだろう」と思っていた

実際、仕事で得た利益のほとんどは、そのまま事業に投資していたんですね。家に入れるのは30〜40万円くらいだったのに、仕事用に200万円の冷蔵庫をポンと買うから、「なんでそんな使い方するの?」って、ママにとっては理解不能なわけです。

どんな事業をやっていて、なんのためにそれが必要なのか、僕が説明しないから。

一から全部話して、説明して、説得する時間がもったいないって思っていたんです。

その分の時間や労力は仕事で使いたいって。

説明しても分からないと思っていたし、めんどくさかったんだと思います。家族を守ろう、まずは稼がないとって、僕も必死だったので。

たまに説明しようとしても、なんかぼんやりしていたというか。伝えたところで、人が変わるとは本気で思っていなかった。どうせ分かんないだろうっていう、勝手な思い込みで「とりあえず、めんどくさいから話しておく」くらいのテンションでした。

意見がすれ違ったとしても、自分が正しくて相手が間違っていると、無意識にジャッジしていたんです。「いいから待っとけ」「もうすぐやから」とか、なんの説明にもならないその場しのぎの言葉で濁していました。

■説明の労力を費やすようにしたら衝突が激減

仕事のことを共有する余裕ができたのは、進めていた事業がうまく回るようになって家族との時間が持てるようになったからです。

僕が仕事のことを話すようになったら、ママとの衝突は激減しました。日々、理解してもらえるように説明することで、伝える力もついていったんです。

今では、事業を大きくするために、こういう設備が必要で、いずれ回収できる時が来るから、そのために今のフェーズがあるんだって、一から十まで解説しています。

心配事も、言った方が逆にママは安心してくれるし、一緒に悩んでくれる。カッコつけずにもっと早くこうすればよかったと思います。

人を笑わせることには一生懸命だったのに、何かを話して分かってもらうことには、おざなりだった。伝えるという意味ではどちらも同じなのに、僕はできてなかった。

■「家族だから分かってくれるだろう」は甘えだった

説明というのは最終的に相手が理解するのがゴールなわけで、こちらがいくら時間を費やして長々と喋っても、向こうが「?」を残したままなら意味がない。

森三久『僕の自慢のヤバい家族 子育ての常識を捨てたらみんなの笑顔が増えました』(KADOKAWA)

だから仕事の内容にしても、自分が外でどんなことをやっているのかを、ママが飲み込みやすいよう、解像度をあげて話すようにしました。どんなことでも、なんでもかんでも話しています。

僕たち人間って一日一回は必ず喋ってると思います。だから、どんな文字、どんな言葉を使うかで全ての結果が変わってくるんですよ。

僕は、外では社員や取引先に伝えることをしているのに、家族にだけ伝えることをしていなかった。家族だから分かってくれるだろうというのは甘えで、家族だから伝えなくていいわけじゃない。

だからママにも娘たちにも暴走ブラザーズたちに対しても、伝わるまで伝える。初めは分かってもらえなくても、いろいろな方法で、タイミングを見て何度も何度も伝える。伝えたつもりじゃなくて、きちんと伝える。

伝えることができるようになると、好きな人を好きにさせられるかもしれないし、取引先に契約をもらえるかもしれない。

「伝える」を意識してから、家族がさらに仲よくなりました。

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森 三久(もり・みつひさ)
YouTuber
YouTubeチャンネル「森ケの日常」のパパ。趣味は家族。他、YouTubeチャンネルに「森ケの日常『娘』」「森ケの暴走ブラザーズ-Crazy Gag Life-」がある。TikTok
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(YouTuber 森 三久)