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 京都府舞鶴市に浮かぶ無人島「蛇島(じゃじま)」。2020年に文化庁が日本遺産に認定していて、現在は上陸を制限して、観光資源として調査中です。今も多くの謎を残す蛇島ですが、今、注目を集めています。その理由に迫りました。

海軍の遺構が眠る『蛇島』を観光資源に

 去年10月、京都府北部の舞鶴市にある島に取材班は向かいました。南北約250m、周囲650mほどの小さな島、その名も蛇島。木がうっそうと生い茂り、今は誰も住んでいない島です。

 今この蛇島が脚光を浴びている理由が…。

 (舞鶴市・観光振興課 神村和輝さん)「日本の新たなレガシー形成事業で、今回、観光庁の補助事業に応募しまして、その採択をいただきました。(観光における)活用を探るということで今回、現地調査を」

 地域に眠ったままの遺産を観光資源として活用できないか。舞鶴市が去年、観光庁の事業に応募したところ、全国46の応募の中から蛇島が選ばれました。そして、その可能性を探るための調査が行われているのです。

 蛇島に眠ったままの観光資源とは一体どのようなものなのでしょうか。島に一歩足を踏み入れると、目の前に現れたのは長さ65mにもなるトンネルです。

 (神村和輝さん)「高さが3.6m、横幅が3.5m。一見コンクリート造りに見えるトンネル構造になっています。コンクリート造りに見えますけれど、アーチ部分の中はレンガ造りです」

 手つかずのまま残されているトンネルは計4本。第4トンネルはコンクリートが塗られる前の未完成のままの状態。時が止まっています。

 (神村和輝さん)「ここだけ5mほど長くて70mのレンガのアーチが残っている。非常に良好な状態でレンガも残っておりまして、非常に見ごたえのある海軍の遺構の一つになっているかと思います」

トンネルの用途はガソリン貯蔵庫 当時の計画が記された資料も

 実はこのトンネルは旧海軍時代にガソリンの貯蔵庫として使われていたもの。「蛇島ガソリン庫」の建設計画が持ち上がったのは今から100年以上前にさかのぼります。蛇島を研究する舞鶴工業高等専門学校・毛利聡准教授に、当時の貴重な資料について話を聞きました。

 (舞鶴工業高等専門学校 毛利聡准教授)「これは蛇島にガソリン庫を造るうえでの資料ということでして、起案が大正9年(1920年)1月。(Qいろいろな人の決裁が?)そうですね、海軍大臣のハンコもあるので、当時の海軍のトップの決裁を含めている内容です」

 1920年に作成された資料。当初はガソリン貯蔵庫として島を斜めに横断するようにトンネルを3本作る計画でした。

 (毛利聡准教授)「この図面の基となった蛇島を測量した時期は大正4年(1915年)。大正4年の頃から蛇島を何らかの形で海軍が利用しようとしていた形跡は見られるのかなと」

 しかし、実際に建設されたトンネルは4本。なぜ当初の案から計画が変更されたのかを示す資料は見つかっていないといいます。

ガソリンの貯蔵目的は何だったのか…今も多くの謎が残る

 毛利准教授は元々コンクリートの耐久性などについての研究が専門。蛇島のトンネルは建築物としての価値も高く、どのようにして建設されたかを調べるため、実地調査も行ってきました。

 (毛利聡准教授)「これも人工的に盛り土して、外から見えないようにしているんだと思います。(Q補給が見つからないように?爆撃されないように?)だとは思うんですけれども、ガソリンなので船の燃料にはならなくて(おそらく)航空機用なんですけど、航空機をこの舞鶴湾で運用していたような証言や資料があまりない。ガソリンをなぜここにおいて何に使っていたのかよくわかっていないです」

 戦後1948年の資料。図面からは1つのトンネルにつき5つのガソリンタンクが保管されていたことが読み取れます。しかし、そのガソリンは何に使う目的だったのか、わかっていません。

 ガソリンを貯蔵する目的をはじめ、なぜ貯蔵庫をトンネルの形で作ったのか、謎が多く残る蛇島。実際に足を踏み入れ、調べ・知ることこそが、レガシーの魅力なのかもしれません。

終戦後の蛇島で大根を育てていた人に話を聞いた

 終戦を迎えガソリン庫としての役割を終えた当時の蛇島を知る人がいます。蛇島の対岸にある佐波賀集落に住む森本晁生さん(88)です。

 (森本晁生さん)「私らが行った頃はまだ建物の跡でガラスや大きな石がゴロゴロしていました。(南の)海側に高さ2mほどの土手があって、その土がよかったのでそれを引っ張って畑にして。結構大根は採れていましたよ」

 地元の青年会に所属していた中学時代の1950年ごろ、泳いで渡った蛇島で育てていたというのが舞鶴発祥の京野菜「佐波賀だいこん」です。

 (森本晁生さん)「(大根の)種子代が青年会の資金になって、ほとんどが旅行でしたけど、年1回。城崎やら伊勢やらいろいろ行きましたよ、毎年」

 10年ほど採種のために島で大根を育てていました。しかし、その後は国有地となり蛇島に立ち入ることはできなくなってしまいました。

 (森本晁生さん)「いいところですよ。行ったらゆっくりできるし。あそこには大きなクスノキがあるんですが、その下に入ったりして。(Qいっぱい思い出ありますね?)ありますよ、ようけ。私はずっと木の上ばっかりにおった」

「まだまだわからないことが多い。みんなで知っていくのも一つの方法」

 実は蛇島にはガソリン庫のほかにも用途がわからない遺構が多く残されたままになっています。

 (毛利聡准教授)「ここはガソリン庫のタイミングで作られたかどうかはわからないんですけれど、おそらく防空壕的な穴かと。終戦間際に掘られたとしても70年以上たっている。崩れていないのでそんなに状態は悪くないでしょう」

 ほかにも、置き去りになったままの筒状のコンクリートや、大きな鉄製のタンクがありますが、何に使われていたかはわかっていません。

 (毛利聡准教授)「ただ廃墟を見ただけで終わるのはとてももったいないことですし。我々も面白がりながら、いろいろなことがわかっていくにつれて、調査をしているんです。蛇島という戦争遺跡があることを知って、まだまだわかっていないことが多いというのも踏まえたうえで、みんなで知っていくのも一つの方法じゃないのかなと考えています」

 明治時代から軍港として栄えてきた舞鶴市で長年、人が立ち入らずに忘れ去られていた蛇島。その眠りから目覚める日は近いのかもしれません。