藤原道長。大河ドラマでは柄本佑さんが演じている(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は花山天皇も驚いた、藤原道長の豪胆すぎるエピソードを紹介します。

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大河ドラマ「光る君へ」の主人公は、紫式部ですが、タイトルのなかに記された「光る君」とは、式部が著した長編小説『源氏物語』の主人公・光源氏のこと。

一説によると、その光源氏のモデルとなったと言われているのが、平安時代中期の貴族・藤原道長です。ドラマ「光る君へ」でも重要な登場人物となります。式部とも交流があった道長。彼は、どんな人生を歩み、どのような性格だったのでしょうか。

道長は966年、藤原兼家の5男として生を受けます。母は、藤原中正の娘・時姫でした。同じ母から生まれた兄に、藤原道隆や道兼がいました。また、姉には、一条天皇の生母である詮子がいました。

息子たちを前にため息をついた兼家

そんな道長はどのような性格だったのでしょうか。若い頃の道長にまつわる次のような逸話が残っています。

ある時、父・兼家が息子たちを前にしてため息をつきました。「藤原頼忠の長男・公任は何事にも優れている。どうして、あのように優れているのだろう。羨ましい限りだ。我が息子たちは、その影さえ踏めぬ。残念じゃ」と。

道隆や道兼は、父は本当にそのように思っているのだと、恥ずかしそうな様子で、黙ってしまいました。

しかし、まだ若い道長の反応は違いました。「(公任の)影を踏まないで、顔を踏みつけてやる」と言い放ったのです。

その後、道長は驚くほど出世し、公任は藤原教通(道長の子。公任の娘婿)ですら、近くで見ることもできなくなりました。これは『大鏡』(平安時代後期に成立した歴史物語)にある、若き頃の道長の逸話です。

道長と公任は従兄弟の関係。さらには、同い年でもありました。そのため公任に対して、兄たちよりも、激しい対抗心を道長は燃やしたのではないでしょうか。

『大鏡』には、道長の青年時代のエピソードが、ほかにも収録されています。例えば、次のようなものです。

花山天皇がまだ御在位のときでした。5月下旬の不気味な闇夜のこと。五月雨の時期もすぎたというのに、外は激しい雨が降っていました。

花山天皇は物寂しいと思われたのでしょうか。清涼殿の殿上の間に御出ましなされて、殿上人を相手に他愛のないお話をされていました。


花山天皇。大河ドラマでは本郷奏多さんが演じる(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

やがて、話題は昔の怪談話になっていきました。その時、花山天皇はふと次のようなお話をしました。

「今夜は、とても気味が悪い夜だ。このように、周りに人が多くいても、不気味な感じがする。そうであるのに、人気のない遠く離れたところは、どのような感じであろうか。そのようなところに、1人で行けるであろうか」と。

ほとんどの者は「とても、そのようなところに参ることはできないでしょう」と答えます。

「どこにでも行く」と答えた道長

しかし、その中で道長だけが「どこにでも参りましょう」と申し上げたのです。

道長の答えを面白く思われた花山天皇は「それは興味深い。ならば、行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け」と仰せになりました。

花山天皇の御命令を受けた道隆と道兼は、顔色も変わり、困ったことになったという雰囲気が漂います。

しかし、道長はそのような様子もなく「私の従者は連れて行きません。この近衛の陣の吉上でも、滝口の武士でも、1人を召して『昭慶門まで送れ』とご命令をお下しください。そこから内には1人で入りましょう」と言い放つのです。

花山天皇はそれに対し、1人で中に入ったのでは、本当に大極殿まで行ったか否か「証拠がないではないか」と仰せになります。

道長も「なるほど」と思い、花山天皇がお手箱に置いておられる小刀をもらい受けて、座を立ちました。

道隆と道兼も、渋々ながら、その場を離れます。花山天皇は「道隆は右衛門の陣から出よ。道長は承明門から出よ」と出る門までも、分けられました。

道隆は、右衛門の陣まで進むことができましたが、宴の松原の辺りで、得体の知れない声が聞こえてきたので、それ以上、進むことができなくなり、撤退します。

道兼は、ブルブル震えつつ、仁寿殿の東面まで来たのはよいものの、そこで軒と同じくらいの背丈の人がいるように見えたので(わが身が無事であればこそ、帝のご命令もお受けできるだろう)と思い、引き返してきました。2人の退却を、花山天皇は扇をたたいて、お笑いになりました。

ところが、道長だけが、かなり時間が経っても、戻ってきません。どうしたのだろうと皆が思う頃になって、やっと帰ってきたのです。しかも、何でもない様子でした。

花山天皇は「どうしたのだ」とお尋ねになります。すると、道長は落ち着いた様子で、ある物を差し出します。「これは何か」と花山天皇が重ねてお尋ねになると、道長は「何も持たないで帰って来たならば、証拠がないと思ったので、高御座の南側の柱の下の所を削ってきました」と。

道長の勇気が証明された

花山天皇は、その答えを聞き、驚かれます。道隆や道兼の顔色はまだすぐれないような状況でした。それであるのに、この道長の振る舞い。道隆や道兼は、どういう訳か、無言で控えていました。

花山天皇は、道長の言動が確かなものか疑わしいと思われたのか、「蔵人に命じて、柱の削り屑をもとの所にあてがってみよ」と翌朝、お命じになります。

蔵人が削り屑を持って行って押しつけてみたところ、ぴったりと当てはまりました。道長の勇気が証明されたのです。

この逸話は、道長20歳の頃のものとも言われています。しかし、これらの逸話が、本当にあったことかどうかは、ほかに証拠史料がないのでわかりません。

後に大きな出世を果たした道長。そんな道長は、青年時代から兄たちより、数段優れていたと言いたいがために、誰かが創作した話かもしれません。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)