道長が送った文を受け取ったまひろ(写真:NHK公式サイトより引用)

2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」で注目される紫式部や『源氏物語』。1000年以上も前に日本の一女性が書いた「光源氏の物語」は、書かれた当初から書写されつづけ、絵巻物にもなって、ひさしく伝えられてきました。

そんな、源氏物語にはたくさんの謎があり、作者の紫式部にも、ずいぶんと謎めいたところがあるようです。作家・岳真也さんの著書『紫式部の言い分』から、紫式部が生きた時代の恋愛に迫ってみましょう。

平安朝は「不倫は文化」だった?

「不倫は文化」というのは、紫式部の生きた平安朝にあっては、けっこうなトレンドだったのではないでしょうか。

親王兄弟ふたりと関係し、つぎからつぎへと男を変えた和泉式部がそうですし、『源氏物語』の主人公、光源氏など、初恋の相手が実父の妻――継母の藤壺で、くりかえし閨(ねや)をともにし、子ども(後の冷泉帝。表向きの父は桐壺帝)までつくってしまう始末。この不倫は、緊張感をはらむ秘密の関係でした。

ほかにも『源氏物語』には、不倫の話がいくつも出てきます。

源氏と人妻の空蝉(うつせみ)との関係、また朧月夜(おぼろづきよ)は源氏の兄・東宮(朱雀帝)の婚約者でしたから、これも不倫のようなものでしょう。

「若菜(わかな)下」の帖には、じつに、光源氏の妻がほかの男性と契った話が書かれています。頭の中将の息子・柏木が女三の宮(源氏の妻)と密通し、不義の子(薫)が産まれてしまうのです。何か、光さん、「しっぺ返し」をくらった感じですね。

『源氏物語』には、そうした場面が数多く出てくるわけですが、1000年前の読者もハラハラ、どきどきしながら読んだのだと思います。


平安時代に貴族たちが楽しんだ「貝合わせ」。『源氏物語』を題材にした絵が主流だったという(写真:keisukes18/PIXTA)

「通い婚」というまかふしぎな結婚形態

「通い婚」というのが、そもそも怪しい。まかふしぎな結婚形態です。

極端な話が、週に一度か、月に何度か、通ってくる男が、「じゃあ、またね」と帰ってしまい、別れてすぐに、別の男が通ってくる。そんなこともありうるような……和泉式部の異性との付き合いぶりを見ていると、その可能性はおおいにあったような気がするのです。

また、当時の宮廷に仕えた女房らの多数が、殿中を往き来する男たちと密事を交わしていた。それも1人や2人ではなく、何人も、と。

要は、「相当に乱れていた」というのです。

識者もその辺りのことは皆、相応に興味を覚えるとみえ、いろいろと指摘しています。

たとえば角田文衛氏は著書の『紫式部とその時代』に、こんなことを記しているのです。「平安時代には、自由恋愛が公然と認められていた。数々の歌集や物語の類は、それを証示して余すところがない」。

ただし、「普通に行われていたのは、親権者が命じたり、親や乳母が示唆したりする平凡な結婚」で、「それも親戚関係が意外に多かった」とつづく。

氏はさらに、「紫式部の場合なども、自由恋愛などによるものではなく、基本的には見合的な結婚であった」としています。そして、この件(くだ)りの最後を、こう結んでいます。

「その意味で、紫式部は未亡人になった後にも、自由恋愛への見果てぬ夢を心の隅に抱き続けていたのではないかと忖度されるのである」

角田氏はそこまでは書いていませんが、紫式部が『源氏物語』を著わしたのも、1つにそれが理由であり、主人公の光源氏に、「自分を託したのではないか」、つまりは一種の「私小説」をこころみたのだ、と私などは思うのです。

平安朝の恋愛・結婚の実態

平安時代の恋愛や結婚を、現代の物差しで測ることは出来ません。

手紙や和歌を交換しあったとしても、男が部屋に忍びこんでくるなどというのは、とんでもないことですし、今なら犯罪行為そのものでしょう。不倫に関しても、世間の見る眼は冷ややかで、発覚して問題化した場合には、法によって裁かれることとなります。

それが、平安時代はどうだったかといえば、別に法律があるわけでもなく、実にあいまいな感じです。現に、和泉式部は夫がありながらも、あからさまに不倫をしていました。しかも、その相手は親王だったりするのですから、なかなかのものです。

和泉式部は親から勘当されたり、周囲や紫式部らからの顰蹙(ひんしゅく)を買いましたが、不倫相手が早世したのちは、道長の勧めで、武人として誉れ高い藤原保昌(やすまさ)と再婚しています。

「いい男、いい女は、不倫しても当然ではないか」

天下人の道長がそう思っていたくらいですから、この時代の恋愛観はおおらかというか、多様な考え方を許容していたのかもしれません。

もちろん、異論もあります。

日本の古代・中世史に詳しい服藤早苗氏は、平安時代は前期と中期、後期に分けられ、前期は女帝もいたくらいですから、女性の地位や立場も高かった。しかし紫式部らの生きた中・後期になると、しだいに女性への締め付けはきつくなり、はっきり「男性優位」の社会になる、と言うのです(『平安朝 女の生き方』服藤早苗/小学館)。

同著には、こういうことも書かれています。

「10世紀初頭に成立した『伊勢物語』には、色好みの主人公が、人妻と語らう、すなわち性愛関係をもつ話がけっこうある。しかし、10世紀末から11世紀初頭に成立した『源氏物語』では、密通ゆえの苦悩がテーマになっている。『摂関政治』のころには、密通がタブー視されたことが知られる」

じっさいのところ、貴族社会の女性は、白昼、男性に顔を見せることは出来ませんでした。

これまた、男たちは気になる女性の噂を聞いたり、かいま見たりすることで、情報をあつめていました。そのうえで、手紙を送って反応をみるのですが、女性のほうでは、それを読んで、どんな男なのかを判断します。

そして、「まぁ、いいかしら」と思い、それなりに自分の気持ちを匂わせた和歌などを返せば、男が夜に訪問する、という段取りになります。

「いやいや、待てよ。いきなり自宅に訪問とは?」

と疑問にも思われましょう。が、「昼間にデート」という習慣はないのですから、とにもかくにも女性の寝室で、しばらく会話をしたのちに、閨事(ねやごと)ということになります。

気に入ったら手紙で意思表明

夜明けとともに(ときには、夜のあいだに)、男は自分の家に帰っていきます。そのあとで、男はまた手紙を出します。それが早ければ早いほど、「あなたのことが気に入った」というサインになるわけです。女もそれに対して手紙を返し、そこに、しゃれた和歌などが付けられていれば、より好印象となります。

おたがいに相性がよければ、3日連続で通い、めでたく結婚ということで、「所顕(ところあらわし)」──今でいえば、結婚披露宴をおこないます。でも、ふたりがいっしょに住むことはまれで、たいていは男が女性の家に通います。

所顕をすることで、その男性は通うことを正式にみとめられるのです。


スムーズに行けば、スピード婚かもしれませんが、何カ月、いや、数年かかることもあります。紫式部と宣孝の場合も、紫式部が越前に行ってしまったという事情もありますが、結婚まで1年以上かかっています。

また、見方によっては、通い婚が普通であった時代は、ほかのところに、「新たな妻をつくりやすくなる」ということになります。

逆のケースも考えられるわけで、ふだん夫は家にいないのですから、和泉式部のように、別に情人をこしらえたりする。やはり、簡単には片付けられない制度ですね。

紫式部の場合は、夫の宣孝がほかの妻のところに通い、「ごぶさた状態」になったことがありました。嫉妬と寂しさに悩んだ紫式部ですが、夫の死後にはほかの妻や、その子どもたちとも手紙を交わし、亡き宣孝を偲んだりしています。

(岳 真也 : 作家)