「今でも、私の中で娘は生きています。『ずっと一緒にいる』と約束しましたから」(撮影:林ひろし/写真提供:すばる舎)

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内閣府が発表した「高齢社会白書(令和3年版)」によると、65歳以上の者のいる世帯は日本の全世帯の49.4%。そのうち夫婦のみ世帯が一番多く約3割を占め、単独世帯を合わせると約6割が頼れる同居者のいない、高齢者のみの世帯となっています。北九州の郊外で、夫と障がいを持つ息子の3人で暮らす多良久美子さん。8年前に娘をがんで亡くしています。頼れる子どもや孫はいないけれど、80代になった今、不安もなく毎日が楽しいと語る久美子さん。43歳で子宮頸癌が発覚した娘は、3年の闘病の末、46歳で太く短い人生を終えました。そんな娘の思い出を振り返ります。

【写真】46歳、太く短い人生を終えた娘

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自立心旺盛な子と思っていた娘が

娘は小さい頃から男勝りで、男の子と喧嘩をしても負けない女の子でした。でも、兄に対しては普通の子とは違うのだと、優しく接していました。兄をいじめるような子に、棒を持って追いかけたことも。

元々の性格と、この家庭環境もあり、自立心が旺盛でした。やりたいことがはっきりしており、何でも自分で決める子でした。

高校は本人の希望もあり、家を出て東京の全寮制の学校に入学しました。海外に留学したいなどとも言っていたので、田舎にいることが窮屈だったのでしょう。放っておいても1人でやっていく子やね……と思っていました。でも、そうではありませんでした。

高校2年生のとき、心の病気になりました。エネルギーが切れたように元気がなくなり、電話が鳴ってもドキッとするように。元来、社交的な子が「誰にも会いたくない」と言います。

がんばりすぎたのだろう……。息子の世話にかかりきりで、娘に我慢を強いてきたせいだ、とすぐに思いました。

学校は休学させて家に戻し、「赤ちゃんからやり直そう」と決めました。息子はしばらく他の家族に世話してもらい、できるかぎり娘と過ごしました。一緒に寝たり、お風呂に入って髪や体を洗ってやったり、2人で買い物に行って洋服や本を選んだりもしました。

精神科を受診すると、思春期に多い心の病気だと診断されました。幸い、学校も理解があり、焦ることなく休学し、一から育て直しをさせてもらえました。娘は少しずつ元気を取り戻し、無事復学できました。

その後、紆余曲折はあったものの、インテリア専門学校を出て、デザインの仕事に。20代後半で自分の事務所をかまえました。主にテレビ局の動画を制作し、バリバリ働いていました。自分の居場所を見つけたようで、生き生きしていました。

38歳のとき、専門学校の同級生と結婚しました。娘とは正反対の、穏やかで優しい人です。結婚と同時に「子どもを産んで主婦になる」と言って、スパッと事務所をたたみました。思いきりのよさは相変わらずでした。

でも、残念ながら子どもに恵まれず、友人の事務所でまた働き始めます。そうして43歳の頃、子宮頸癌が発覚しました。


『80歳。いよいよこれから私の人生』(著:多良久美子/すばる舎)

今できることを、とにかく精一杯

すぐに治療を始めて治ったものの、1年後に肝臓へ転移。その手術も成功しましたが、また別の場所への転移が次々に見つかりました。

子宮頸癌が発覚してからの1年は、娘も仕事を続けていましたが、2年目からは治療に専念。私も、「これは大変なことになるな」と感じ、娘が住んでいた横浜に飛行機で通って支えました。

私がいないときの娘の体調、検査の結果などの状況は、お婿さんが毎日メールで知らせてくれました。そんな生活が1年ほど続きました。

闘病中、免疫力を上げる食事など、娘と一緒にいろいろなことを試しました。何をしても効果が出ませんでしたが、私はあきらめません。今できることを、とにかく精一杯やるだけ。息子の障がいのときと同様に、現実を受け入れて覚悟をしたら、不思議と湯水のように元気が湧き出てきました。

病状は悪くなる一方でした。途中からは、死を迎える覚悟に変わっていきました。

どうしたら、娘を安心して送り出してあげられるか。残された時間をできるだけ楽しく、笑顔で過ごせるようにするために、何ができるか。そんなことを考えました。

自分の力で人生を切り開いていった娘

いよいよダメだとなったとき、娘を家に連れて帰ろうと思いました。娘も「帰りたい」と言いました。でも、帰るなら早く帰らないと、病状が悪化して乗り物に乗れない。すでに飛行機には乗れなかったので、ギリギリのタイミングです。病院からストレッチャーのまま運び出して、新幹線の特別室に乗せて帰ってきました。

病院が地元の病院と連携を組んでくれ、まずは10日ほど入院して、家に戻ってきました。このとき、息子のことでお世話になった社協(社会福祉協議会)に飛び込んで、ヘルパーさん、訪問医、訪問看護師さんを手配してもらいました。

そして、亡くなるまで20日ほど、私、夫、そしてお婿さんも泊まり込んでくれて、3人で看病しました。

娘は入院していたとき、癌友達ができました。その中には亡くなった方もいたので、自分が死に向かっている状況もわかっていました。

最後に、「お父さん、お母さん、もう終わりにしてください。楽にしてください。お願いします」と言いました。

私は思わず「もっとがんばれる」と言ってしまいましたが、主治医が「もう十分です。その時が来ています」と言ってくれました。周りが「がんばれ、がんばれ」と言うよりも、本人が決めたやり方で逝かせてあげたい……。

眠りにつく前には、息子も連れて帰ってきて、みなでお別れをしました。

「お父さん、お母さんの子どもでよかった」という娘の言葉に、「私たちはずっと一緒におるよ」とこたえました。そして、主治医に鎮痛剤を打ってもらい、娘は穏やかに眠りにつきました。2日後に息を引き取りました。

46歳、太く短い人生でした。人の何倍も生きたのではないでしょうか。

結果はいいものではなかったけれど、娘にとっては幸せな最期だったと思います。自分の力で人生を切り開いていった娘は、「お父さんの庭を見ながら眠りたい」と、死に方も自分で選びました。

最期はつらかったです。そのときは、涙が出ました。でも、それ以降、涙は出ませんでした。後悔はありません。これ以上は私にはできないくらい、やり尽くしたと思います。

今でも、私の中で娘は生きています。「ずっと一緒にいる」と約束しましたから。

娘が元気だった頃、離れて暮らしていたときより、そばにいるように感じています。しょっちゅう娘と会話しています。料理をしていると、その辺にいるので、「味はどう?」と聞くと、「ちょっと辛いね」とか「おいしいよ」などと返事が返ってきます。

もちろん、本当の声が聞けたら、触れることができたらと思いますが、それはかなわないことだから……。

※本稿は、『80歳。いよいよこれから私の人生』(多良久美子:著/すばる舎)
の一部を再編集したものです。