国を守る、ということ/純丘曜彰 教授博士
隣国がどうのこうの、と、こうるさい連中がまたぞろ湧いて来ている。自分では戦いもしないやつら。あの戦争で三〇〇万人以上も死んで、大半の国民が家族も財産も失って、もう懲りたのではなかったのか。
じつのところ、国は内側から滅びる。当時、あれほど大きかった中国が、容易に列強の植民地にされてしまったのも、あれほど勢いがあった日本が、ほんの数年ですべてを失ってしまったのも、戦う前に、すでに中が腐っていたからだ。私利私欲の連中が、国を守るという美名を悪用し、国を滅ぼしたからだ。
あのときも同じだった。天下国家を案じて命がけで維新を成し遂げた志士たちも去り、破竹の勢いで拡大する国力に乗じて、気がつけば、その威光を暈に着て成り上がった、ちっぽけな二世だらけ。御立派な教育を受けて、口先、世渡りは上手ながら、考えているのは、おのが閨閥、財閥の繁栄ばかり。自分では手を汚さず、あやしい連中まで使って、あきらかにまちがったことでも、すっとぼけて、平然とやっていた。そして、いざ戦争となったら、ただ欲ばかりで大きく膨らんだ国の中身があまりに腐っていて、どうやっても勝てなかった。
実際、戦後、そのウミを出し切ったら、日本は、一気に廃墟から復興、世界への復帰を果たせたではないか。しかし、いま、そんな焼跡世代に代わって、なんの苦労も知らないまま経済成長とバブルに乗った老団塊世代が、同世代のお友だちとともにトップに居すわり、法外な手当を「搾取」。そして、ひたすら甘やかされて育った、そのアホなボンボン二世を、親とそのお友だちのなあなあで、次の世襲政治家、世襲経営者として、いきなり次席に「抜擢」。
以前なら、若手も、官僚や側近として、また、一労働者として、トップの理想を、非力ながらも、ともに実現しようと奮闘努力した。しかし、いま、なんの理想も無く時代錯誤のまま硬直したおめでたい老団塊世代と、なんの実績も無く「抜擢」されたアホなボンボン二世にふんぞり返られ、そんな似非天皇一家のために尽くそうなどという優秀なバカ、熱心なバカなど、世にいるものか。彼らに擦り寄って、おだてて乗せて取り入るのは、ヤクザまがいのゴロツキばかり。下に付くのは、ほかでは使いものにならないできそこないばかり。そんな連中も数ばかりは多いから、たしかに規模はどんどんでかくなるが、こんなクズ集団で、実際に物事がうまく進むわけがあるまい。
仕事ですらこの調子なのだから、こんなニワカな似非天皇たちの国を、いったいだれが命がけで戦って守るなどと思うのか。生まれながら親ガチャ外れで勝ち目のカケラも無い若者たちは、家族も子供も、家も財産さえも持てない、未来に何の希望も無い。彼らには、この国に守るべきものが無い、この国は守るに値しない。むしろ、彼らの中には、またもう一度「黒船」に襲撃されて、いっそ国ごと全チャラになったほうがマシ、と考えている者さえいる。その心情もわからない連中がトップ昇って音頭を取ったところで、すべて空回りするだけ。
アホなボンボン二世を親バカで次席に「抜擢」するような寝ぼけた政治家や経営者、それを諾とする無能追従の取り巻きでは、話にならない。自分たちで国や企業を壊しておいて、それを人に守れと言っても、通るわけがあるまい。そんなことをしていて、文字どおり、あの戦争で命を投げ出し、この国を守って、来るべき新しい時代の到来を願った人々に対して恥ずかしいとは思わないのだろうか。
国を守る、ということは、まず、守るに値する国を作ることだ。人の上に立つ者が、人格を磨き、理想を立て、信任を得ることだ。自由競争と切磋琢磨の無いところには腐敗しか無い。他国をどうこう言うまえに、まずこの国の中で人々の未来への希望を打ち立てるためにこそ戦え。