「キャリアを中断させたくないから、子どもは今いらない」キャリア女子30歳の悲しい選択
ただ時間を知りたいだけなら、スマホやスマートウォッチでいい。
女性がわざわざ高級時計を身につけるのには、特別な理由がある。
ワンランク上の大人の自分にしてくれる存在だったり、お守り的な意味があったりする。
ようやく手にした時計は、まさに「運命の1本」といえる。
これは、そんな「運命の時計」を手に入れた女たちの物語。
▶前回：彼氏と一緒に友人の結婚式に参加したら…。些細なことから喧嘩になり…
Vol.12 私の運命の時計
パテック フィリップ ノーチラス 7118/1A
日曜日の夕方。
「この間紹介したドクターがね、もう一度沙奈と食事をしたいって言ってるんだけど」
葵の彼氏の同僚たちと先日食事会をしたのだ。
だが、沙奈は、同じ食事会で知り合った別のドクター、榊とすでに連絡先を交換し、食事の約束をしている。
「嬉しいけど、あの時に一緒だった榊さんと週末食事に行く約束してるんだ。あっちもこっちもOKするのは悪いから」
正直に理由を言って、沙奈は断った。
「沙奈ってモテるよね。清楚系で男性に付いていきますって雰囲気だけど、実はバリキャリっていうギャップに、男性はやられちゃうのかな」
「確かに、バリキャリかもしれないけど、そんなことないよ」
沙奈は、現在32歳。
大学卒業以来、外資系コンサル会社に勤めている。入社した時から激務で、残業や休日出勤が当たり前の毎日。
勤務時間以外にも自主的に勉強し続けなければ、同僚に追い抜かれていく過酷な環境だ。だが、それに見合う収入もある。
葵と話しながら、沙奈は何気なく手元の時計を見る。
沙奈の手元に輝くのは、『パテック フィリップ ノーチラス』。
高級車一台が買えるほどの価格帯なうえに、入手が困難な時計だ。
沙奈が手に入れることができたのは、ある出来事が発端だった。
◆
2年前、沙奈が30歳のときのこと。
当時の沙奈には、26歳の時から4年付き合っている恋人・健斗がいた。
健斗は、沙奈より1つ上の31歳で、大手広告代理店に勤めていた。
時間をやりくりするのは大変だったが、彼との時間が沙奈にとって唯一の癒やしだった。
優しくて穏和な健斗は、沙奈の仕事を理解し、見守ってくれていた。
しかし、ある時、彼から思いもよらない話が出る。
「沙奈は仕事にのめり込みすぎじゃない？結婚して子どもを持つ気はないの？」
沙奈を心配しての助言とも取れるが、「子ども」となると話は違ってくる。
「健斗ってば、なんで急にそんなこと言うの？」
沙奈は、笑ってはぐらかす。
「俺は。結婚するなら沙奈がいいと俺は思ってる」
健斗の口から出た、なんとなくのプロポーズ。
彼が言葉を選び、気持ちを探っているのは、沙奈にもよくわかった。
「私も、いずれは結婚して子どもを持ちたいと思っているけど…」
沙奈は、言葉を濁した。
結婚したい、子どもを持ちたいと考えたことがないわけではなかった。
仕事で失敗した時、疲れた時、結婚して仕事を辞めたい、思うことがあったのも事実。
しかし「結婚を逃げ道にして後悔しない？」と問いかけてくるもう1人の自分がいたのも事実。
その都度、「もうちょっと頑張ろう」と目の前の仕事に戻り、前に進んできた。
「でも、私、まだ30歳だし、もうちょっと後でいいかなって思ってる」
健斗の気持ちは、十分理解していた。沙奈は、これまで2度ほど彼のご両親にも会っている。
「沙奈、俺はひとりっ子だし、両親に孫の顔を見せてやりたいと思ってる。沙奈は？どう考えてるの？」
沙奈がはぐらかしても、今日の健斗はひかない。
「子どもを実際に自分で産むなんて…実は考えたこともなかった。自分が子どもを抱いている姿を、今は想像できないっていうか」
沙奈の正直な気持ちだった。
「ごめん、健斗から今日こんな話をされるとは思わなくて。なんて答えたらいいのか、わからない。もちろん健斗のことは好きだし、一緒にいたいとは思ってる。少し考えさせて…」
すると、健斗は残念そうに言った。
「そう言われるんじゃないかと思ってたんだ。でも、沙奈も真面目に考えてみて。
今はよくても、このまま年を取っても同じペースで仕事をし続けていくのは、結構無理があるんじゃない？」
確かに健斗の言う通りだとは思う。
だが、いずれ別の仕事を選ぶ日が来るとしても、今、結婚して出産をすることで、キャリアを中断させたくないと、沙奈は思っている。
結局、結婚の話が出てから1ヶ月の間、健斗とは話し合いを重ねた末、別れを選んだ。
◆
健斗と別れてから、沙奈は、思いを吹っ切るように仕事に打ち込んだ。
― 自分から別れようって決めたのに、こんなに寂しいなんて…。
別れてから数ヶ月の間は、コンソールの上に置いたウォッチケースを見るたびに、沙奈は健斗のことを思い出した。
健斗は、時計についての知識に長けていた。
彼に影響され、手頃なものから高級なものまで沙奈もこれまで色々な時計を買った。
カルティエ、オメガ、フランクミュラー…など。
彼の存在は、沙奈が思っている以上に、沙奈の気持ちの多くを占めていたのだ。
◆
健斗と別れてから1年。沙奈は31歳になった。
「今日から1年間、シンガポールか…」
シンガポールのチャンギ国際空港に降り立った沙奈は、感慨深く呟く。
沙奈は、ある日本企業の海外進出プロジェクトにアサインされたのだ。
これまでは、日本にいながらテレカンやオンライン商談をすることが多かったが、より深いサポートが必要となってきたため、現地に出向き手厚く支援を行っていくことになった。
シンガポールにいても多忙なことには変わりはない。しかし、日本よりは幾分、気持ちに余裕がある。
― やっぱ空気が変わるとリラックスできるよね。
ホテルのジムで運動したり、週末にふらっと買い物に出かけたり、東京にいるときには、到底考えられなかった日常をここでは送ることができた。
そして、シンガポールに来てから3ヶ月ほど経った週末。
アイオン・オーチャードまで買い物と食事にやってきた沙奈は、あるブティックの前で足を止めた。
それは、パテック フィリップ。
健斗がいつかは欲しいと言っていた、憧れの時計ブランドだ。
あの時、「いつ買うの？」と沙奈が面白がって聞いたら、健斗は意外にも真面目に答えた。
「これを買ってもいいだろ、って思えた時は、自分のステージが1つ上がった証。
欲しいけど、今じゃないよ」
あの頃の2人のやり取りが、不意に脳裏に浮かぶ。
ブティックの扉を潜るのは、少し勇気がいった。しかし、思いがけずカジュアルな店員の対応に、沙奈はほっと胸を撫で下ろす。
店員が見せてくれたのが、ノーチラス。
「なんてシンプルで品があるのだろう。私の持っているどんな時計とも違う…」
手にした時に伝わる秒針の動き、丸みを帯びた8角形のケースと澄んだ夜空のような文字盤。時計を裏返すと、シースルーバックになっており、中の精密で美しい機構の息遣いを感じることができる。
「もう当分入ってこない」と言われた瞬間、沙奈は迷うことなく即決した。
― 私のステージが上がった証…だよね。
◆
32歳になった、沙奈は、シンガポールから帰国した。
沙奈の毎日は、以前とは全く違うものになっている。
それも自分へのご褒美に購入した、ノーチラスのおかげだ。
これまで時計なんてジュエリーの延長だと思っていた沙奈だったが、ノーチラスは違っていた。これまでの時計とは一種異なる、道具としての重厚な存在感を放っている。
沙奈は、たびたび時間を確認するようになり、結果今まで以上に仕事の効率は上がった。以前と同じ仕事をしているはずなのに、気晴らしに費やす時間を持てるようになったのだ。
すると、これまで多忙を理由に会えていなかった友達からよく誘われるようになった。
今夜は、食事会で知り合ったドクター、榊と食事に行く約束がある。
待ち合わせの場所は、恵比寿の『ラ・ビスボッチャ』。
「沙奈さん、素敵な時計をしてるんだね」
聞けば、榊も相当な時計好きだった。
「女性って、大概ロレックスとか欲しがるじゃない。パテックなんて、普通の女性は選ばないけどどうして？」
沙奈は答えた。
「昔、知り合いから聞いたんです。人って、自分によく似た時計を選ぶんですって。この時計を見た時、思ったんです。これは私の分身かもって」
あの頃の沙奈は、一般的な女性が求める幸せを手放し、仕事を選んだ。
時計も同じだ。
みんなが求める煌びやかさなどなくていい。
クールなまでの機能美や、道具としての真髄を、沙奈はノーチラスから感じ取り、魅了されたのだ。
「これは、どんな時にも自信をくれる私の分身なんです」
沙奈は肩をすくめ、笑う。
「思っていた通り。ちゃんと自分自身の足で立って生きているんだね。僕は、そんな沙奈さんがとても素敵だと思ってる」
「え？」
思わず聞き返す沙奈に、榊がはぐらかすようにワインのボトルを向けた。
「ワインもう一杯飲むでしょ？」
そんな榊の手元に、沙奈は無意識に目をやった。
ボトルを傾ける左手首には、パテック フィリップが輝いていた。
Fin.
▶前回：彼氏と一緒に友人の結婚式に参加したら…。些細なことから喧嘩になり…
▶1話目はこちら：お受験ママの間では、暗黙のルール！？ネイビーのスーツに合わせる時計はコレ
