「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第30回 木樽正明・前編 (シリーズ記事一覧>>)

 忘れがたい「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ連載。1970年代のロッテには個性的な名投手が数多く在籍したが、なかでも剛腕から繰り出すシュートと珍しい名字でファンの記憶に刻まれているのが木樽正明さんだ。

 千葉・銚子商のエースとして夏の甲子園で準優勝投手となり、ドラフト2位でプロ入り。ルーキーイヤーから勝利を挙げ、二度のリーグ優勝、一度の日本一にも大きく貢献したが、その現役生活は11年で幕を閉じる。短い全盛期に最多勝、最優秀防御率のタイトルも獲得した木樽さんの、太く短く鮮烈な球歴を振り返ってみたい。



1966年のハワイキャンプで新人の木樽正明(右)を指導する小山正明投手兼コーチ(中)(写真=共同通信社)

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 木樽正明さんに会いに行ったのは2018年10月。きっかけは同年夏の全国高等学校野球選手権・千葉大会、銚子商高対成田高戦だった。第100回の甲子園大会を記念して試合前に始球式が行なわれ、銚子商OBの木樽さんが登板。そのことを伝える記事に触れ、興味を抱いた。

 1965年、銚子商の剛腕エースとして夏の甲子園に出場した木樽さんはチームを準優勝に導き、同年の第1回ドラフトで東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に2位で指名され入団。故障の影響によって29歳の若さで引退したが、実働11年で通算112勝という好成績。21勝を挙げて優勝に貢献した70年にMVPに選ばれ、翌71年には24勝で最多勝のタイトルを獲得している。

 引退後はロッテ、巨人でコーチを務めて編成の仕事もこなし、社会人チームも指導。2014年からは母校・銚子商野球部のヘッドコーチに就任する傍ら、〈銚子市の行政アドバイザーとして活動している〉と記事にあった。地元の英雄が現在のロッテのフランチャイズ地域で仕事をしていると知って、その巡り合わせに心を動かされた。

 ただ、僕自身、木樽さんの現役時代を見た記憶はない。投手としてはシュートが武器で、野村克也(元・南海ほか)が「あのシュートが厄介なんや」とボヤいたことぐらいしか知らなかった。故障のことも、全盛期が短かったことも知らずにいたのだが、果たして、その背景には何があったのか──。

 取材当日、木樽さんご指定の銚子市体育館を訪ねた。約束の11時までまだ10分ほどあったが、館内に入って携帯電話をかけると、受付窓口の向こうで一人の男性が僕のほうを見て手を挙げた。「どうぞ。どうぞこちらへ」と言いながら、ドアを開けて出迎えてたくれたその人が木樽さんだった。

 文献資料には〈182cm〉とあったが、それ以上と思える長身。チャコールグレーのジャケットに千鳥格子柄のズボンを合わせたスタイルは71歳という年齢(当時)をまったく感じさせず、彫りの深い顔立ちは昭和時代の名優を彷彿とさせる。いただいた名刺には犬吠埼灯台の写真が配され、〈銚子市行政アドバイザー〉とあった(2020年3月に退任)。

「4年前に銚子へ帰ってきて、そういう肩書きで仕事をしているんです。スポーツを通じて市を活性化するという、そのお手伝いをさせてもらってます」

 天井が高い室内に低いトーンの声が朗々と響いた。事務室の一角にある応接スペースで向かい合うと、木樽さんは背筋をピンと伸ばし、ソファに浅く腰掛けた。まずは、投手としての原点を知りたい。

「私が本格的に野球を始めたのは中学のときですが、別にピッチャーをやりたいっていう願望はなかったんです。3年生のときはもうひとりのピッチャーがエースで、私はファーストを守って、お互いに交代しながら投げて。銚子商業でも最初はサードでね、春の大会はタイムリーエラーして、えっへっへ」

 エラーがあって試合に負けたのも一因か、木樽さんは当時の斉藤一之監督からファースト転向を命じられた。とはいえ、入学した年の春からレギュラーになる実力があったわけで、1年生だった63年の夏、最初の甲子園出場を果たしている(※)。

(※当時の地方大会は千葉と茨城の高校が出場する東関東大会によって甲子園出場校が決まったが、同年は第45回の記念大会につき、千葉大会に優勝した銚子商が甲子園に出場した)

「1年生だから、2年生、3年生に連れてってもらったという立場。ただね、私はこのとき、千葉大会の試合で右の肩にデッドボールを喰らったんです。よけ方が下手で。複雑骨折でした」

 投げられない、バットも振れない状態だったが、千葉大会では6番を打って打率はチーム最高だった。「よく頑張った」ということで甲子園ではベンチ入りを果たし、紆余曲折を経て無理矢理に試合にも出場。銚子商は夏の大会初のベスト8に進出した。

 が、木樽さん自身はほとんど何もできずに終わって悔しい思いだけが残り、大会後、本格的に投球を始めるまで半年を要した。しかも、投手として始動した2年の夏。千葉と茨城の東関東大会で敗れて甲子園出場はならず、秋の大会も、3年の春の大会も負けた。毎回「優勝候補」と言われながら敗退が続き、さらに悔しさが積み上がった。

「特に3年の春。当時からライバルの習志野と試合して、谷沢健一っていう男にホームラン打たれて、1対0で負けたんですよ。私が高校時代にホームラン打たれたのは谷沢だけなんですけど、その悔しい経験が夏までの練習にかなりいい影響を与えましたね、結果的に。だから私は、谷沢という男、もしくは習志野という学校に育ててもらったんです」

 習志野高で2年時からレギュラーだった谷沢は早稲田大に進学すると、東京六大学を代表する左の強打者として活躍。69年のドラフト1位で中日に入団し、1年目の70年に新人王に輝き、実働17年で首位打者を2回獲得して通算2062安打。のちにプロで超一流の成績を残すことになる選手が、高校時代、木樽さんを大いに刺激していた。それにしても、チーム内ではどう指導されていたのか。

「私ね、正直に言って、斉藤先生からピッチングについて指導を受けたことはないんです。先生はもともと足の速い外野手でしたから、バッティングや走塁は教わりましたけど、ピッチングに関しては教わった記憶がないんです。たまに、社会人野球をやっている先輩に教わるぐらいで。結局、我流ですよね」

 天賦の才か、木樽さんがエースで4番になった最後の夏。銚子商はライバルの習志野に完封で勝つと、東関東大会を制して甲子園に出場。大会前の新聞に〈決め球は外角低めのストレート。バックが2点取ってくれれば〉という木樽さんのコメントが載った。決め球があった一方、最大の武器のシュートは投げていたのだろうか。

「もう投げてましたよ。これもねえ、誰かに教わった記憶がないんです。投げてるうちに自然と覚えていたみたいな感じ。それで打たせて取るんだけど、体の近くに投げるでしょ? 当時は高校野球もバットが木製ですから、シュートでバットを折るのが快感だった。バキーッて。そういう、変な意味で楽しみがあったから、シュートがどんどん自分にとって最大の武器になったのは間違いないね」

 ますます天賦の才としか思えなくなるが、全30校が出場した65年の第47回大会、銚子商は1回戦で京都商高に2対1で勝利し、木樽さんは完投。2回戦から決勝まで進めば4日連続となるため、6対1で勝った帯広三条高戦での木樽さんは先発して7回で降板。すると準々決勝の長野・丸子実高戦は3対0で完封勝利し、2対1でサヨナラ勝ちした準決勝の宮崎・高鍋高戦でも完投している。

 そして、決勝の福岡・三池工高戦も一人で投げ切ったのだが、0対2で惜敗。当時の新聞記事には、試合後の木樽さんが〈聞きにくそうな報道陣に笑顔で応えていた〉と記されている。その記述と、今、目の前でずっと朗らかに語る姿が完全に一致していると思えた。

「決勝で負けたというより、準優勝したという気持ちが強かったんです。そして周りから、プロでやれるとか、高校野球レベルではA級だとか評価されて、そうなのか? でもオレはまだそんなに力もないし......と。あんまり自信が持てなかった。それがドラフトで指名されて、もしかしたらオレはプロでできるのかも、みたいな感覚になったんですね」

 もっとも、木樽さんは高校3年になったときから「100パーセント早稲田大進学」と決めていた。斉藤監督も「木樽は進学。指名されても行かない」とプロのスカウトに通達していた。ところが、オリオンズに指名されると、周りの状況が変わった。

 大言壮語を吹きまくり、"ラッパ"の異名をとっていた球団オーナーの永田雅一が、獲得命令を出したのだ。スカウトの人脈で当時の銚子市長や千葉県選出の衆議院議員まで動かし、交渉の突破口を開こうとした。

「オーナーも大物政治家とつながってましたからね。親は私には接触させなかったですけど、いろんな人が家に来てましたよ」

 第1回のドラフトでは全132人が指名されたうち、78 人が入団しなかった。のちに大学、社会人を経てプロ入りした選手はいたが、オリオンズの場合、結果的に15人を指名したうち9人が拒否。それだけに永田は「この男だけは何が何でも入団させい!」と厳命した。「金も出すが口はそれ以上に出す」といわれた名物オーナーだった。

「親父からは『自分の人生だから好きなように生きてくれ』と言われていたんです。でも17とか18で『自分の人生、自分で決めろ』って言われてもね......。だから大学か、プロか、ひとつの大きな岐路だったんで悩みました。あれだけ早稲田、早稲田って言ってて、なんだ? 今のオレの気持ちは......と自分自身でわかんなくなっちゃうときもありました」

 年を越したら相手に失礼、という思いで大みそか、65年12月31日、木樽さんはオリオンズ入団を決めた。「100パーセント進学」だったのを覆したために早稲田大と銚子商、そして斉藤監督にも迷惑をかけたと自覚したのはプロ入り後。決断に当たっては迷惑を気にかける余裕もなかったが、自分自身に対する疑問と不信感はあった。

「オレは信念がない男だな、みたいなね。ふふっ。だからうまく表現できないけど、ほんの0.01ミリぐらいのちっちゃい虫が体のどっかにいたんだろうね。それが指名されたことによって、どんどん大きくなっていったっていうほうが正しいのかもわかんない」

 66年、晴れてプロ入りした木樽さんは1年目から17試合に登板。3勝8敗ながら、13試合に先発して3完投を記録している。

「でも、自分としたら『3勝しか』ですよ。しかもね、二軍いったり一軍に戻ったりしてるときにバッター転向の話があった。私自身に直接言われたわけじゃないけど、もし転向だと宣告されたら、『オレはピッチャー一本でいく』と言うつもりでした。ピッチャーがダメだったらバッターがあるかって、そんな軽い気持ちじゃあ、たぶんプロ野球でやっていけないだろう、という想いもありましたから」

 実際、首脳陣の間では「木樽がこの試合に先発して打たれて、KO喰らったらバッター転向」と決めた試合があったという。その試合、知らずに投げた木樽さんは7回3失点に抑えたので「もう少し様子を見よう」となった。

「これもひとつの大きな岐路ですけど、当時、兼任コーチになった小山正明さんが首脳陣に進言したらしい。『木樽はピッチャーの才能があるから、もうちょっとやらしたほうがいい』と言ってくれたと、人づてに聞きました」

 NPB歴代3位の通算320勝を記録した小山は、63年オフ、山内一弘とのトレードで阪神から移籍。エースと4番の移籍劇が"世紀のトレード"と言われたとおり、小山はオリオンズでの9年間で140勝を挙げ、投手陣全体に好影響を与える存在になった。木樽さん自身、見て覚えるところが数多くあった。

「小山さんといえば、『針の穴を通す』といわれた精密なコントロール。なんであんなに、構えたところにボールがピタピタいくのかと。オレらは真ん中に構えても10球中2球ぐらいなのに、小山さんは10球中10球いく。それでブルペンでピッチングしてるの見てると、『いいか? ワシの投げるのよく見とけ』って言う。見て覚えろと。

 で、見てると、軽く投げてるのにボールがピュッと伸びる。しかも同じところにピタピタいくだけじゃなくて、踏み出す足もピターピターと同じところに着くわけ。それでいて、全然、土が掘れてないんだから」

 にわかには信じがたい現象......。こちらは「えぇーっ?」と声を上げるしかなかった。

「だいたい、今は掘れるでしょ? 日本のマウンドは軟らかいし。でもあの人は掘れない。しかも、我々が試合で投げると筋肉が張るからマッサージを受けるけど、小山さんは『ワシは張ったことない』。指にマメもできてない。普通はできるのにできてない。そういう素晴らしい大先輩がいて、自分が成長させてもらったのは非常に幸運でしたよ」

 小山が生涯、肩、肘を故障しなかったことは知っていた。が、筋肉に張りがなかったのは初耳だし、マウンドの土が掘れていなかったという現象にはゾクゾクさせられる。そこから木樽さんが得られたものは何だったのか。

「フォームのバランス、コントロールですね。一度、コントロールつけるにはどうしたらいいですか? って聞いたら、『暇さえあったら走ってろ』って言われました。ふふっ。『ピッチャーは走ってナンボだぞ』が口癖でした」



若手時代の思い出を語る、取材当時の木樽さん

 小山が走るのは球場のレフトとライトのポール間100メートル以上。全力でへばるまで繰り返す。つまりは下半身の安定──。

「そう。下半身の安定がフォームのバランスのよさにつながり、バランスがよければコントロールがよくなる。誰もが言う言葉なんだけど、小山さんが言うとなるほどなって。ふっふっふ。

 それで私は『ボールが速い』ということで2年目から抑えをやったんだけど、当時は1イニング限定じゃない。2イニング、3イニングだから、投げ過ぎて腰をやっちゃいました。だって、抑えで規定回数を投げるなんて、今じゃ考えられないでしょ?」

(後編「1970年のロッテで輝いた2人のライバルエース」につづく)