元日に母から「結婚の予定は？」と圧力をかけられる女。30歳でプロポーズを断った理由とは
プレゼント。
その包み紙を開けたとき、送り主から相手への想いが明らかになる。
ずっと言えなかった気持ち。意外な想い。黒い感情…。
ラッピングで隠された、誰かの想い。
そこにあるのは、プレゼントなのか。それとも、パンドラの箱なのか──。
▶前回：独身仲間だった親友に、先を越された夜。結婚報告を受けた女が自覚した、誰にも言えない想い
会社のトイレで、由美は個室から出るタイミングを失っていた。
「由美さんってなんで結婚してないんだろうね？」
「ね、美人だし性格いいし、仕事もできるし」
「実は性格にかなり難ありだったりして？」
「かもね。でも、彼氏はいるらしいよ」
「へ〜」
もし今、由美が個室から出て行ったら…。
その気まずさを思うと由美は、今後の彼女たちとの関係性を考慮し、談笑が終わるのを待つしかないのだった。
それにしても、どんなに時代が変わったと言われようが、妙齢の独身女性に対する風当たりは未だに強い。
腫れ物に触るような態度を取られてきたことは、一度や二度じゃない。まだまだ生きづらい世の中だと、由美は思う。
それでも、由美は意志を持って独身を貫いてきた。
そこには、誰にも言えない理由があるのだ。
◆
「由美、結婚しよう」
今から4年前のこと。恋人がプロポーズをしてくれた。
当時30歳の由美は、純粋に嬉しかった。彼のことは大好きだし、結婚に憧れはあったから。
けれど、由美は断った。
「ごめん。私、まだ叶えたい夢があって…」
そのときの彼の表情を、未だに忘れることができない。
落胆。絶望。そんなものじゃなかった。呆れた顔をしていた。
「由美、そろそろ現実見たら？」
ついさっき愛の言葉を口にしたとは思えない、冷えた言葉。それは、由美の心の奥の一番デリケートな部分を、容赦なく突き刺した。
由美には、子どもの頃からの夢があった。
それは、小説家になること。
子どもの頃から本の虫で、読書好きとかいうレベルではない。ご飯を食べるときも、お風呂に入るときも、寝落ちするその瞬間まで、小説を読み漁っていた。
ほとんど狂気的なレベルだったと思う。
中学生の頃から小説を自分でも書き始め、いろんなコンクールに応募し続けていた。
けれど、そんなに甘い世界じゃない。
大学4年生になっても、どのコンクールにも入賞することはできなかった。
「少しでも小説に関する仕事を」という想いで挑んだ就活でも、出版社や大手マスコミから内定をもらうことができず、結局、大手金融機関へ入社したのだ。
早稲田大学文化構想学部を卒業後、一流企業へ就職。
一般的にはエリートコースと呼ばれる道だったけれど、由美の心はそこになかった。
小説という血の通った物語をつくりたいと思っているのに、自分のやっている仕事は、なんとも無機質なお金の計算。
― 私の居場所は、絶対ここじゃない…！
そんな熱い想いを胸に、社会人になっても由美はめげずに小説を書き続けた。
思うように時間が取れないながらも、仕事中にこっそり、仕事が終わってから、休みの日に、来る日も来る日も書き続けた。
どうしても描きたい物語があった。どうしても、小説家として生きていく夢が諦めきれなかった。
その夢を叶えるまでは、由美は結婚しないと決めていた。
結婚してしまったら、家が安らぐ場所になってしまったら、自分の中にたぎる野心みたいなものが消えてしまう気がしたのだ。
― きっと、もうすぐデビューできる…。
根拠のない自信を胸に、少ない時間をやりくりし小説を書き続けた。
けれども現実というのは、残酷すぎるほどに残酷だ。
由美がこれほど“小説”というものを本気で愛し、人生を捧げているというのに…。
30代になっても、デビューどころかコンクールにすら引っ掛からない。
ちょうど20作品目のコンクールの落選を知った日、由美は35歳を迎えた。
普通だったら、とっくに諦めるだろう。心が折れてしまうだろう。
けれど、由美は違った。
むしろ、人生イチかバチかの賭けにでようかと悩み始めていた。
― 退職。
どんなに情熱があろうと、時間をかけられなければ成果は上げられない。毎日忙しく仕事をしながらでは、捻出できる時間にも限りがある。
ずっと、思っていたこと。
― 会社を辞めて、本気で小説家を目指したい。
食べていけるなんて保証はない。いや、それだけで食べていくなんて至難の業だ。
なんのアテもないのに、35歳で脱サラして小説家を目指す。どう考えても無謀。
貯金が底を尽きたらまた就職することだってできるだろうけれど、間違いなくキャリアダウンする。
婚期だっていよいよ完全に逃してしまうだろう。
本当に、色んなもの投げ打つことになる。そんなの、全部頭ではわかってる。
― それでも、それでも…。
未だに夢と現実の折り合いを付けられない由美は、本気でそんな選択肢を取ろうかと思案していたのだ。
1月1日。
由美の嫌いな日。
予定もないし、「お正月くらいは帰らなくちゃいけないんだろうな」という義務感だけに突き動かされ、茨城にある実家へ帰省した。
「今年も、結婚の予定ないの？」
母は今年も尋ねてくる。毎年のことでうんざりする。
「別にないよ」
プレッシャーを与えてくる母に、由美は興味なさげに答えるけれど、心はちゃんとダメージを負う。
由美だって申し訳ないと思っている。
ずっと黙っている父が何を考えているのかはわからない。
不本意ながら、年々ぎこちなくなる親子関係。そこに一抹の寂しさと切なさを感じていた、その日の夜のことだった。
そろそろ寝ようかと席をたったとき、突如父に呼び止められた。
「由美、ちょっと来なさい」
父から発せられるいつもとは違った雰囲気に、一瞬時が止まる。
「…うん」
由美は無言で2階へと上がっていく父について行く。
実は、由美が小説家を目指してるということは両親には黙っている。しかし、父親だけは勘づいている様子なのだ。
― もしかしたら、諦めろと諭されるのかな…。
重い空気に気圧されながらも父についていく。
すると父は、2階にある1つの部屋の扉を開けた。
「…」
その部屋を見て、由美は目を丸くした。
そこは、もともとは由美の部屋だったが、由美が実家をでてからは父の書斎になった部屋だった。
けれど今、父のものはすべて片付けられている。
「どういうこと…？」
「この前、誕生日だったろ。プレゼントだ。ここ、お前の部屋に戻しておいたから」
「プレゼントって…」
由美にはまだ、訳がわからない。
「いつでも、戻ってきていいから」
「え…」
「まだ、目指してるんだろ」
「…」
「食いっぱぐれたら、ここに帰ってくればいい。お前が戻ってこれる場所はここにある。気が済むまで、やりたいことやりなさい」
「…」
「もう…。十分、会社員として我慢しながら頑張ったんだろ…」
その一言を聞いた瞬間、由美の瞳から涙が溢れ出した。
父のかつての夢は、哲学者になることだったという。その父もまた、家族のために夢を諦め、会社員として人生を全うした。
そんな背中を見て育った由美だったから、結婚するチャンスや色んなものを犠牲にして、これまで踏ん張ってきたのだ。
― なんで…。どうしてわかったんだろう…。
もう、35歳。いい大人になったはずの由美は、父親の前で子どもみたいにわんわん泣き続けた。
何で自分が泣いているのか、それが何の涙なのか、自分でもわからなかった。
◆
あれから5年。
由美は今日もパソコンに向き合う。一文字一文字魂を込めながら、文章を書きつづける。
ふと手を止め、窓の外に広がる景色を眺める。外苑前のイチョウ並木が見頃を迎えている。
ここは、由美の書斎だ。
結局あのあと、仕事はすぐに退職した。35歳で無職となり、小説家になるという夢を追いかけた。
そして間も無く、ついにデビューが決まったのだ。
今までの苦労が嘘のように、その後もとんとん拍子で仕事が舞い込んだ。小説家になるという夢は、ついに叶ったのだ。
38歳で担当編集と結婚した由美は今、東京で暮らしている。半ば諦めていた結婚まで手にすることができた。
由美は思う。
あのとき、父からのプレゼントがなければ、きっと踏み出す勇気は出なかった。
結局、実家のあの部屋に戻ることはなかったけれど、いつでも帰る場所があるという安心感は、どれほど由美に勇気と安心感を与えたかわからない。
由美が小説家としてデビューが決まったと伝えたとき、父は「そうか」と言っただけだった。
あの部屋も、いまだに由美の部屋のまま。
父は寝室の横に小さなテーブルを置き、そこを書斎として使っているらしい。
何度も母が「あの部屋はもうお父さん使ってください」と諭しても、かたくなに由美の部屋のままにしている。
「安定しない職業だろう、いつなにがあるかわからないだろう」
そう言って聞かないそうだ。
由美は今、新しい目標を掲げている。
もっともっと小説家として成功して、父に新しくて広い、素敵な書斎をプレゼントすること。
― あの部屋を書斎として使ってくれればそれでいいのに…。
そう思うこともあるけれど、あのとき背中を押してくれた父に喜んでもらいたい。
そんな風に思うだけで、そこはかとないエネルギーが湧いてくるのも事実だった。
「お父さん、もうちょっと待っててね」
幸せそうな笑みで、由美はそう呟く。
そして、鮮やかに色づくイチョウ並木から、パソコンの画面に視線を戻した。
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