旧日本海軍の軍艦「加賀」が1921年の今日、進水しました。当初は戦艦として完成する予定でしたが、軍縮条約のあおりを受けて一度は廃艦に。ただ、関東大震災で無傷だったことから空母へと姿を変えて竣工しました。

飛行甲板の変化

 1921(大正10)年11月17日、旧日本海軍の戦艦「加賀」が進水しました。同艦はそれから7年後の1928(昭和3)年3月31日に竣工しています。

 実は「加賀」、この7年のあいだに戦艦から空母へと姿を変えています。ただ、その経緯も歴史の荒波をいくつも乗り越えた結果といえるものでした。


旧日本海軍の空母「加賀」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 そもそも「加賀」は、従来の長門型戦艦を拡大発展させた新型艦として設計され、建造がスタートしています。

 旧日本海軍が当時策定していた、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる、いわゆる「八八艦隊」計画の主軸となる艦として戦力化が期待されていた「加賀」ですが、その直後から始まったワシントン海軍軍縮条約の討議の中で、この条約の会議開催日、すなわち11月11日までに完成していない戦艦や巡洋戦艦などは廃艦とすることが決まったため、「加賀」は一転して未完成のまま廃艦となることが決まります。

 こうして、一度は軍艦として就役できないことが決まった「加賀」ですが、1923(大正12)年9月に関東大震災が起こったことで、その運命は一変しました。

 このとき横須賀のドックで空母への改装工事中だった「天城」が被災によって修理不可能な損傷を受けます。これにより旧日本海軍は「天城」を廃艦に回し、代わりに「加賀」を空母に改装すると決めました。

 こうして、半ば放置状態にあった「加賀」は空母へと改装され、進水から7年の時を経て軍艦として竣工するまでに至ったのです。ただ、当時は空母も黎明期で構造や運用法で試行錯誤が続いていました。そのため、世界でも稀な三段式(ひな壇式)空母として就役しています。

 しかし、航空機の性能が想定を上回る早さで向上、また機体も大型化すると、三段式の空母は飛行甲板の短さなどから使い勝手が悪くなります。そこで、再度大掛かりな改装を受けた「加賀」は1935(昭和10)年6月、艦橋を端(「加賀」は右舷)に配置し、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母へと大変身を遂げ、以後はこの姿で活動し続けました。

ミッドウェーの海に没す

「加賀」は中華民国軍と戦った1932(昭和7)年の第1次上海事変や、同じく1937(昭和12)年に起きた第2次上海事変にそれぞれ参加し、偵察機や攻撃機を沖合から発進させて、杭州などを爆撃しています。

 その後、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まると、ハワイの真珠湾攻撃を皮切りに、ラバウルやポートダーウィン攻略など、南方作戦に従事しました。


1936年に撮影された空母「加賀」。建造当初から大きく改装された後で、一段全通式の飛行甲板となっている(画像:アメリカ海軍)。

 しかし1942(昭和17)年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。5日朝、ミッドウェー島の攻撃へ向かった味方機から相次いで「敵艦隊発見」が報告されると、「加賀」の飛行甲板では艦載機に対し、陸上攻撃用の爆弾から艦船攻撃用の魚雷へ転換が行われました。続く攻撃隊の発進は大きく遅れます。

 慌ただしい「加賀」に、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中し、兵器や機体に次々と誘爆。さらには航空機用の燃料タンクにも爆弾が命中し、「加賀」はあっという間に炎に包まれます。消火活動もままならず、およそ9時間後に大爆発を起こしながら沈没。なお、この海戦ではほかに3隻の空母も撃沈されています。

 戦艦として生まれ、一度は廃艦が決定するも空母として再出発を果たした「加賀」は、今もミッドウェー島沖の海面下5200mという深海に眠っています。