夫婦の思い出の香りを、別の女がつけていて…。バリキャリ女が離婚を切り出された衝撃の理由
ふとすれ違った人の香りが元彼と同じ香水で、かつての記憶が蘇る…。
貴方は、そんな経験をしたことがあるだろうか？
特定の匂いがある記憶を呼び起こすこと、それをプルースト効果という。
きっと、時には甘く、時にはほろ苦い思い出…。
これは、忘れられない香りの記憶にまつわる、大人の男女のストーリー。
▶前回：好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実
Vol.2 美紗（34歳）濃厚で妖艶な香り
TOM FORD「ロストチェリー オード パルファム スプレィ」
「乾杯〜！」
私は、大学時代からの友人たちとグラスを合わせた。
高層階にあるのに緑が溢れる唯一無二の空間は、よく訪れるお気に入りの場所だ。
今日は私の、34回目の誕生日。
仲間が、最近仕事漬けだった私を連れ出して『The Blue Room』でお祝いしてくれたのだ。
「それにしても、美紗はすごいよね。ずっと外資金融でキャリア積んでいて。尊敬しちゃう」
集まった4人のうちのひとりが、私に向かって言った。
「ありがとう。でも、全然すごくなくて、金融の仕事しかわからないだけなのよ」
一応謙遜したが、ここ数年は機関投資家向けのセールスを担当していて、この中の誰よりも稼いでいるのは事実だ。
「美紗の引っ越しが終わったら、また集まろよ」
「うん。落ち着いたら招待するね」
今は赤坂に住んでいるが、前から憧れていた六本木グランドタワーレジデンスに空きが出たため、来月引っ越すことになっている。
“欲しいものは、自分で手に入れる”
それは、社会人になってからの私のポリシーであり、プライドだった。
男社会でなめられないための服やジュエリー、バッグに靴。それから会社経営者という肩書を持つ理想の夫も手に入れた。
欲しいものを順調に手に入れていくのは、楽しかった。
しかし、結婚生活だけはたったの2年で幕を閉じてしまったのだ――。
離婚の理由は、なんだったのだろう。
昨年の春に彼から「離婚したい」と言われ、泣きつくでもなく、すがりつくでもなく、私はアッサリと受け入れた。
― 理由、聞いておけばよかったかな…。
そう思いながら、シャンパングラスに口をつけたその時だった。
「え…！エリナ！？」
友人のひとりが叫ぶので、私は顔を上げた。
「あら、みなさんおそろいで」
ニコニコと顔の横で小さく手を振ったエリナも、以前は仲良しグループのひとりだった。
しかし、私が離婚したのを機にグループから外れ、今年は一度も会っていない。
なぜなら彼女は、私の元夫と結婚したからだ。
「ちょっと、誰がエリナを呼んだのよ」
「ごめん。呼ぶつもりなかったんだけど、久しぶりに集まること話したら場所聞かれちゃって…」
友人たちは、私に聞こえないよう小声で話しているが、丸聞こえだ。
「エリナ。突っ立ってないで、ここ座りなよ」
私は自分の隣をポンポンと叩きながら、笑顔で言った。
彼女に対して特別な感情を抱いているわけじゃないし、元夫の妻だからといって、別に気まずくもない。
無視するのも変だし、ここは毅然とした態度で接するのが正解だろうと考えた。
「じゃあバースデーガールの横、失礼しま〜す」
エリナは全身からチェリーの香りを漂わせながら、真っ赤なLady Diorとともにソファに腰を下ろした。
― あれ？この香り…なんだっけ…？
どこかで嗅いだことのある匂いに、私は一瞬思考を巡らせる。すると、元夫・優司の優しい顔が思い浮かんだ。
そうこうしている間に、エリナは自らシャンパンをグラスに注ぎ、みんなに乾杯を求めた。
「あらためて。美紗、誕生日おめでとう〜！」
「ありがと」
私はエリナを見ながら、グラスを合わせた。
エリナと優司が結婚したのは、コロナも少し落ち着き出した今年の春のこと。
彼から「エリナと再婚する」と聞いたときは、驚いた。エリナは私とは真逆のタイプだったからだ。
エリナは結婚するとすぐに仕事を辞め、専業主婦になったと聞いている。
「エリナ…なんで来たんだろうね」
誰かが小声でつぶやいたが、私にはなんとなくわかっていた。
私と離婚してから、優司が代表をしている会社の業績が上がり始めた。
それに伴い、彼が使えるお金も増えたそうだ。
離婚の話し合いを進めていたとき、優司に「もっと美紗にお金を使ってあげたかった」と謝られた。
でも私はなんとも思わなかった。
元々、彼とはお財布は別にしていたし、生活費を折半するのも時々私が彼に外食をご馳走するのも、全然苦じゃなかったから。
むしろ私の方が稼いでいるのに、ちゃんと折半していたから、申し訳なく感じていたくらいだ。
ふと、横に座っているエリナに目をやる。
ニットとスカートは今季のDior。ブーツはCHANELで、時計はハリー・ウィンストンのアヴェニュー。
きっと、これが彼女にとっての勝負服なのだろう。
優司が稼ぐようになったからといっても、毎度毎度ハイブランドを買うほどの資金は、ないはずだから。
「ふふっ」
彼女は私にマウントを取りたかったらしいが、結局は私のおさがりと結婚しただけ。
それを思うとエリナが滑稽に思えて、つい笑ってしまった。
「じゃあ、今日はありがとう。またね」
会はお開きになり、電車で帰るという友人たちと別れ、私とエリナはホテルの車寄せに向かった。
「エリナ、優司のことよろしくね。経営者って時に孤独だから、支えてあげて」
最後にそう言って私はエリナより先にタクシーに乗った。
彼女にマウントなど取らせない。自慢をさせる隙も与えない。東京の夜景を見ながら、そのプライドが守れたことに私は安堵した。
◆
翌日。
引っ越しの準備をしていると、ドレッサーの引き出しから、ほとんど使っていない香水の瓶が出てきた。
トムフォードのロストチェリーだ。
…約2年前、結婚式の打ち合わせで優司と帝国ホテルに行った帰り。
ふらっと寄った松屋銀座のコスメカウンターで、トムフォードの色鮮やかな小瓶が目に入った。
私は、ずっと買おうと思っていた、黒いボトルの「タバコ・バニラ」のフレグランスを購入した。
でも優司は、赤いボトルの「ロストチェリー」をつけてほしいと言い、プレゼントしてくれたのだ。
それは自分では決して選ばない、甘くて濃厚で、どこか妖艶な香り。
赤いボトルは好みだったが、なかなか使う機会がなかった。
そのことを優司に話したら「結婚式の日だけでもつけて」と言われたのを覚えている。
香りは記憶を蘇らせるから、その香りを嗅ぐたびに、ふたりで結婚式のことを思い出そうと。
私はその提案通り、結婚式にロストチェリーをつけた。
式を執り行ったのが冬だったこともあり、甘い香りはむしろ心地よく、意外と自分にも合っていたことを思い出す。
― どんな匂いだったかな。
私は左手にワンプッシュして、鼻を近づけた。
「あ…」
その瞬間気づいた。これは、エリナが昨日つけていた香りだということに。
優司は、私たち元夫婦の思い出の香水を、エリナに普段からつけさせている。
― そういうことか…。
私は、離婚を切り出された理由がわかった気がした。
優司は、自分の好みに合わせてくれる女性が好みだったのだ。
私は香水をはじめ、髪もメイクもファッションも自分が好きなものだけを選び、優司の意見は聞かなかった。
しかもそれはすべて私が購入していたし、何かをねだったこともない。
それが、彼にとっては可愛げのない行動に見えたのだろう。
男としての「守ってあげたい」「養ってあげたい」という気持ちを削ぎ続け、いつの間にか男女の仲ではなくなっていたのだ。
私は赤い香水の瓶をしばらく眺めたあと、緩衝材にくるくると包んだ。
― ありがとう。そして、サヨウナラ。
それを段ボールに入れながら、優司との2年間の結婚生活を振り返る。
平日は仕事ばかりでろくにデートもしなかった。でも、休みの日は朝からカフェにコーヒーを飲みに行き、泊まりで温泉にも行った。
その時の行き先を彼に選んでもらえば。私が予約してオンライン決済をしなければ。未来は変わっていたのだろうか。
でも、離婚したことを、私は後悔をしていない。
仕事が激務なのはこれまでもこれからも変わらないし、この仕事を辞めるつもりはない。
それに、自分が頑張って働いた結果、好きなところに住めたり欲しいものを我慢せずに買えたりする。
これこそが私の生きがいだ。
「でも…次に付き合う人には、少し甘えてみようかな」
もし、好きな人ができたときは、今よりもう少しだけ頼ってみよう。
そんな気持ちにさせてくれた優司と、その妻のエリナの幸せを願って――。
トムフォードのロストチェリーの甘い香りに包まれながら、私はそう思った。
▶前回：好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実
▶Next：10月29日 土曜更新予定
ミモザの香りが、私の人生を交差させる
