※この記事は2022年03月10日にBLOGOSで公開されたものです

2013年、チェルノブイリ原発に観光で行った。ゲンロン社が主催する「チェルノブイリツアー」第一弾に参加したのだ。私はそこで終始、驚くことになる。仕事としてチェルノブイリを語る人々に出会ったからだ。彼らはルーツや政治的スタンスに関係なく、淡々と、しかし実直に、遠く日本からやってきた観光客に向き合っていた。その語り方は東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から11年を迎える日本にとって、「風化」という問題への最良のヒントになる。今こそ、ロシアの侵攻という危機にあるウクライナからのメッセージに思いを馳せたい。

「チェルノブイリ原発事故はもう過去の話」ガイドが語った現地の認識

「ウクライナであってもチェルノブイリ原発事故はもう過去の話なんだ」

男は小さな、しかしはっきりとした声で語り始めた。そこはチェルノブイリ原発周辺30キロ圏内の立ち入り禁止区域、通称ゾーンのなかである。2013年11月、曇天もしくは雨が多かったウクライナで、男はややぬかるんでいる地面を歩きながら話す。迷彩のジャケットとパンツ、黒のニット帽をかぶっている。帽子からはみ出した両耳にはシルバーのピアスが光っていた。

表情を崩さないまま、彼は続ける。あくまで、仕事だからと割り切っているような淡々とした口調で答えてくれた。

「事故の忘却は事故後、二年を過ぎた頃から始まったと思います。それと同時に、社会で起きているなにもかもが、この事故が原因だという人たちも出てきたのです。事故を起こしたチェルノブイリ原発4号機を覆うコンクリートの『石棺』ができた頃から、同じように社会で話題にすることも封じてしまった。

今は事故が起きた年『1986』という数字としてしか知らない人がほとんどだよ。字というのは『冷たい知識』だ。キエフで『プリピャチ市』(約5万人の原発労働者とその家族が住んでいた街)の名前を出してもほとんどの人は知らないか、『たしか川の名前だっけ』という程度。

海外から観光客が来ると話すと、ウクライナ人であってもみんなが驚く。観光が解禁されたといっても、ウクライナ人のツアー客は少ないからね。チェルノブイリは話題にもならないから事故当時の記憶のままという人も多い。

自分の仕事は情報を与えて知ってもらうことだ。可能な限り情報を出していく」

彼、エブヘン・ゴンチャレンコの肩書きはウクライナ立入禁止区域庁職員、つまりチェルノブイリ原発事故が起きたエリア一帯で働いるのだ。この一日、二日。彼の仕事はといえば、遠く日本からチェルノブイリ原発ツアーにやってきた「観光客」のガイドをすることだった。彼は元々、ゲーム関連の会社に勤めていたが、この仕事に転職したという経歴を持つ。静かな口調で話す彼の性格に、人の少ないゾーンの生活はあっていたのか、勤務はすでに14年という。彼はあまり表情を変えずに話す。あくまで淡々と、しかし事実は的確に伝えるというのが、彼の方針のようだ。彼は別の仕事で、事故後の福島を訪れたことがあるとも語っていた。

「(ゾーン内の)土地は農業に向かず、畜産が主産業。若者が村を出たチェルノブイリにとって原発は両義性がある存在です。原発は新たな産業として命を吹き込んだが、その原発が土地の命を奪った。帰れなくなった住民の思いは福島もチェルノブイリも変わらないと思う」

「チェルノブイリツアー」に参加した理由

「チェルノブイリ原発に観光に行く」――。一見すると風変わりな、しかし大真面目なツアーに私が参加したのは2013年の11月だった。ツアーを監修したのは、哲学者の東浩紀が立ち上げた会社「ゲンロン」である。

1986年4月26日、ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原発で事故が起きた。チェルノブイリ原発はベラルーシとの国境付近にあり、当時、ソ連でも屈指の出力を期待され建造された。人為的なミスから起きた事故で、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアを中心に膨大な量の放射性物質が飛散し、周辺に人は住めず、住居などは廃墟になった。観光地化は事故後25年を迎えた2011年に解禁された。周辺の放射線量が下がったことに加え、国内外から「現地を直接見たい」という要望にウクライナ政府が応えたという。旅行会社などを通じて原発30キロ圏内立ち入り禁止区域、通称「ゾーン」に許可を得て見学する。

原発自体は2000年に運転を停止したが、今でも廃炉作業は終わっていない。普段、ゾーン内は廃炉などに関わる作業員や政府当局の職員ら関係者しかいない。あとはサマショール(ロシア語で自ら帰ってきた人、つまり自主帰還した人たち)だ。こう書くと、隔絶された場所のような印象を受けるかもしれないが、実は首都キエフからチェルノブイリまでは100キロ程度しか離れていない。東京でいえば、熱海までバスツアーで行くのと距離でいえば同じようなものだった。

この時の私は、自分が震災や原発事故を書くことの意味合いについて考えていた。純粋にチェルノブイリを見てみたいという興味もあったが、それ以上に大事だったのは、一連の出来事を取材して書くとして「いったい自分はどんな立場で考えているのか」という意識である。

生まれ育った土地でもなければ、別に縁がある場所でもなく、所詮は第三者のメディアの人間がふらっと行くにすぎない。そんな自分がただ知りたいという思いだけで、接していいものなのか。

私はチェルノブイリのことをたいして知らない。観光はおろか、放射性物質に汚染され、立ち入ることすらできないと思っていた。言ってしまえば「偏見」にまみれている。だから、逆に行ってみようと思った。過去の原発事故、それも他国の話で当たり前だが、知り合いすらろくにいない。そんな場所でも、何を考えられるか――。

ウクライナと日本、原発事故を経験したふたつの国

ウクライナの秋は日が沈むのも早い。午後5時過ぎにはあたりが暗くなり見学を終えて宿舎に向かう。二人一組で泊まった部屋の暖房はよく効いていた。ツアーの食事は施設内の食堂で済ませる。メニューは生のニンニクのみじん切りがのっているパン、ハムやチーズ、サラダなどの前菜、ボルシチのようなスープ類、肉料理とジャガイモなどの付け合わせといった平均的なウクライナ料理だ。場所によってはアルコールも用意されている。

食事を終え、施設内を見渡すと、壁にペナントやバッジがかかっているのが目に留まった。施設の職員に聞いてみるとこれは土産物で、チェルノブイリ原発が描かれたペナントは80グリブナ(当時で約1000円)、バッジが一個二五グリブナ(同約300円)だという。私も含めてツアー参加者も買い求めていた。普通の観光地みたいだ、と思いながらお金を払った。

初歩的な知識もなく、思い込みだけを持って訪ねてきた観光客に、彼らは真摯に応え、そこにある現実だけを見せてくれた。「見ず知らずの日本人観光客にここまで見せる理由は何か」と私はゴンチャレンコさんに尋ねた。

「ウクライナでも過去の話になってしまったからだ。自分の役割は情報を出すこと。聞かれたことに答えることなんだ。チェルノブイリの汚染状況は福島よりひどいかもしれない。しかし、住む人たちの感情はどこでも同じだろう。人間的な面は変わらないからだ。早く帰りたい、もう戻れないとか、これからどうなるのかとか。人間が考えることは一緒だと思う……」

思えば彼は、直接その場にいたか、避難者だったか否か、近くに住んでいたかどうかとか、そんなことを自ら語ることはなかった。ただ、チェルノブイリ原発事故とは何だったのかを問い、事実と自分はどう考えているのかを日本からやってきた観光客を相手に語り、そこで起きた原発事故に想いを寄せていた。首都キエフにあるチェルノブイリ博物館は「歴史博物館」であり、博物館のスタッフも歴史的な視点から福島への思いや、つながりを語っていた。それも自身の役割、歴史を語る仕事としてである。

私には彼らの語り方が好ましく思えた。日本の報道では何かにつけ「当事者」であることが重く捉えられる。当事者とは誰だろうか。経験は人によって異なり、大切にしていることも、語れる内容も、語り始める時期も違う。自分の言葉で、自分を語ることは決して簡単なことではない。だからこそ、プロフェッショナルに徹し、語り継ぐという仕事が大切になってくるのではないか。その役割を担えるのは狭い意味での当事者ではなく、起きた出来事を自分に「問う」ことができた人の役割になってくるのではないかと考えてしまう。

以前、私はその役割を「歴史の当事者」という言葉で位置づけようとした。2011年3月11日からの10年をまさに「歴史の当事者」として生きた人々を描いた『視えない線を歩く』(講談社)を出版した時、タイトルに込めたのは2011年と2021年、日本における2つの「緊急事態」をつなぐ線だった。だが、今は少し違う受け止めをしている。私が描き出したのは、原発事故を経験した社会、ウクライナから日本につながっていた線でもあった。

ロシアの侵攻により、チェルノブイリだけでなく、キエフもウクライナの原発は戦場となっている。彼の地には2011年3月11日に思いを馳せてくれる人々がいたことを今、伝えたいと思う。

彼らは確かに福島と、そして避難した人々とつながろうとしていたのだ、と。