第二次世界大戦後、米軍の統治下にあった沖縄から多くの若者がアメリカへ留学し、帰郷後、政治や経済、教育などの分野において沖縄社会をリードした。敗戦を経験した留学生はアメリカで何を学び、感じたのか。琉球大学の山里絹子准教授が当事者の証言をまとめた『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』(集英社新書)から、一部を紹介する――。
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■「まるでおとぎ話のような」アメリカ西海岸の街並み

長旅を終え、サンフランシスコに到着した沖縄の留学生を迎えたのは、ゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)だった。

朝靄の中に浮かび上がるゴールデンゲート・ブリッジ。

甲板に出てきたアメリカ兵たちが、帽子を空高く投げ、一斉に“Golden Gate!”と叫んだ。沖縄からの留学生もつられて喜びを表した。故国に戻った喜びに溢れるアメリカ兵。未知の世界に対する興奮と念願のアメリカ到着を喜ぶ留学生。狭い船内での長旅の疲れもあったのだろう。ゴールデンゲート・ブリッジを見た時の喜びは忘れがたいものだった。

沖縄からの留学生は、オークランドにあるミルズ大学で約1カ月半のオリエンテーションへの参加が義務付けられていた。港からオークランドのミルズ大学まで、バスで移動した。赤、青、黄といった色とりどりの花や屋根。バスの中から見た景色は、「まるでおとぎ話のような」(1950年留学)サンフランシスコの街並みだった。

窓外の高い高層ビルを見上げ、「アキサミヨー、アキサミヨー」(「驚いた」、「あらまあ」の意)と沖縄の言葉で驚嘆する留学生。「終戦直後の沖縄での貧しさが吹き飛んでしまいそうな感動」(1952年留学)、「魂を大きく揺さぶられたような大いなる感動があった」(1955年留学)。

■脳裏にあったのは人類初の月面着陸した男の言葉

アメリカへの到着。留学生は感動と希望に溢れていた。

船路で渡米した者のみならず、1960年代に空路で渡米した者も、同じだった。アメリカの地へ踏み出した最初の一歩は、「米留組」のそれぞれの記憶に今も残っている。

1970年に渡米した前原龍二さんは、米軍の嘉手納飛行場から出発した。飛行機から降り、地上の草を踏みしめて、アメリカ留学生活の最初の一歩が始まった。両足を地面にしっかりと置いたその瞬間、前原さんの脳裏にあったのは、人類初の月面着陸を果たしたアームストロングの言葉だった。

「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍」

沖縄戦を生き延び、アメリカ留学へ出発するまでに、「米留組」にはそれぞれの人生があった。踏み出したその一歩は、おのおのの人生において大きな節目であり、忘れがたいものだった。

■民主主義を学ぶ沖縄の留学生にかけられた期待

ミルズ大学は、名門女子大として知られていた。緑の木々が生い茂り、自然に囲まれた美しい大学だった。到着後のオリエンテーションは、沖縄の学生だけを対象に、陸軍省と国際教育研究所、さらにミルズ大学の関係者によって、現地の学生がいない夏季休暇中に行われた。

その様子は、『明日を導く人々』という民政府の広報映画に描かれている。アメリカ民政府作成のその映画では、沖縄の留学生とアメリカ人学生や教員との友情、そして民主主義を学ぶ沖縄の留学生の姿が強調された。

オリエンテーションの初日、米留制度の目的が主催者側から留学生に伝えられた。1963年に配布された冊子には、ワシントン陸軍省公務課のマックケープ陸軍大佐から「琉球人留学生」へ、次のようなメッセージが述べられている。

「琉球人がこの国を訪問すること、そして勉学することの主な目的は、米国の伝統、理想及び行政機関に熟知し、また我々の目標と政策に共鳴する今日と将来の指導者を育成するためです」(United States Department of the Army, To Students from the Ryukyus, 1963)

米留制度の目的は、米軍側の目標と政策に関して共鳴する指導者を育てることであると明確に伝えられたのだ。

アメリカ人が指摘した「権力に対して特筆すべき程の従順さ」

同時に、オリエンテーションでの留学生の様子は、アメリカ民政府に報告された。

例えば、1954年にミルズ大学関係者によって作成された報告書には、31名の沖縄からの留学生を対象にしたオリエンテーションのプログラムに関して、以下の問題点が指摘されている。

「このグループには、劣等感と根強い自己防衛意識が人格的なものに散見されるが、それは孤立した出身地での経験からくるものであり、彼らは未だにそれに強く苛まれている。また、権力に対して特筆すべき程の従順さを持ち合わせている。それは、特にアメリカ軍の影響下のもと成人した琉球人学生に見受けられるが、占領そのものによるものではない。

しかしながら、占領はパターナリスティック(父権的温情主義)な影響を持ち合わせており、それが少なからず無意識に植えつけられ、個人の人格形成に影響を与えている」(Review and Evaluation 1954 Session, 1954)

沖縄の学生とアメリカの学生との間には「心理的な距離」があるとし、沖縄の学生がアメリカ人に対する劣等感を持っており、その接し方が極端であると指摘したのだ。

■教員らは留学生の劣等感を取り除くために知恵を絞った

オリエンテーションの実施に関わったミルズ大学の教員らは、アメリカ軍による統治の、沖縄の若者への影響を推測し、留学生らの劣等感を取り除き、自信を獲得することが重要であると考えていた。

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問題の解決策として、大学の教授が沖縄とアメリカの学生を一緒に自宅に招待し、アメリカ人と友好な関係が築けるように促すべきであると提案された。さらに、沖縄の学生はキャンパス内で過ごすことが多いため、同世代のアメリカ人のジュニアカウンセラーを雇い、沖縄とアメリカの学生の溝を埋めることも提案されていた。

これらの史料からは、沖縄の留学生に対するオリエンテーションが徹底されていたことが分かる。「良きアメリカ市民」としての振る舞いができる留学生の存在は、アメリカ市民の沖縄統治に対する理解を得ることにもつながるからだ。

■「占領者」と「被占領者」というイメージを払拭

アメリカ研究者のナオコ・シブサワは、戦後のアメリカにおいて、敵国であった日本と同盟国としての新たな関係を築くためには、戦時中の日本に対するネガティブなイメージを取り除く必要があったことを論じた。日本(人)のイメージを女性化し幼児化することで、アメリカの指導と支援を必要とする従順な日本人像を構築し、世界秩序のリーダーとしてのアメリカの自画像を再形成したのである。

E.W.サイードは著書『オリエンタリズム』において、西洋が東洋を「他者」として二項対立の中で想像することで西洋の優越的な自己を確認し、東洋の植民地化を正当化してきたと論じた。

そのようなオリエンタリズムの眼差しは、沖縄からの留学生にも向けられた。アメリカの庇護の下で育成される民主主義の推進を担う従順な留学生の姿によって、「元敵国人」のイメージを和らげるだけではなく、「占領者」としてのアメリカ人、そして「被占領者」としての沖縄人といったイメージを払拭し、冷戦期のアメリカの立ち位置を確証したのだ。

一方で、このオリエンテーションは、沖縄からの留学生にどのような影響を与えたのだろうか。「米留組」は、オリエンテーションでの経験をじつに楽しそうに語る。

■部屋から見えるのどかな景色に「平和とはこれだ」

ニューメキシコ大学に留学した新崎康善さん(1950年留学)は、ミルズ大学に到着した日、割り当てられた個室に入り、荷物を解いている時に窓から見た景色が今でも忘れがたいという。新崎さんの部屋の窓からは、芝生の庭にはスプリンクラー、そしてその脇にお洒落な時計台が見えた。

「朝夕時計のチャイムが鳴り、あたりのしじまの中を心よい音が広がっていった。天も地も、そしてすべての生あるものが、渾然一体となって静かに息づいている風であった」(『エッセイズ ゴールデンゲイト』1987)

新崎さんは、戦争で荒廃した郷里を想い、「平和とはこれだ」と感じたという。

オリエンテーションのプログラムは、平日朝9時から午後4時まで約1カ月半行われた。英語だけでなく、アメリカの歴史や地理に関する授業、大学図書館を利用する重要性、論文の書き方などについて学ぶ授業があった。

水洗トイレの使い方、バスの乗り方、町での買い物の仕方など、アメリカの生活習慣に関する授業も行われた。

さらには、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の一環として、テーブルマナーや恋愛交際のあり方についても教わった。「紳士としての振る舞い方についてもしっかりと教わった」と、東江康治さん(1950年留学)は言う。

■初めて使う水洗トイレやシャワーに大苦戦

宮良用英さん(1952年留学)は、アメリカのレディーファーストの文化には衝撃を受けたという。

「これはね、大変な文化だと思った。これが一つの風習であると、教えられるわけです。歩道を歩く時、車が通る道側を男が歩いて、女を守るんだと。そんなの分からないわけですよ。車にはねられた場合は、男が犠牲になって女を助けるものだと、アメリカの友人らは言うんです」

留学出発前のオリエンテーションで、Meet the USAというテキストをもとに主に座学で学び渡米した留学生たち。ミルズ大学のオリエンテーションでは、教わった知識を実践に移し、さらにアメリカでの生活に適応することを期待された。

「米留組」のオリエンテーションでの経験は、「失敗談」もつきものだった。

初めて見た水洗トイレの、溜まっている水で顔を洗ってしまったこと。チャイナタウンからの夜道、校内近くの道路脇で立ち小便をしているのを警備員に見られ大騒ぎになったこと。シャワーを浴びるのにカーテンをバスタブの内側に入れるものだと知らず、シャワーの水で部屋中を水浸しにしてしまったこと。サラダが出てきて、野菜を生で食べさせるなんてウサギと思われていないかと驚き、食べなかったこと。ピッチャーに入っている牛乳を飲みすぎてお腹を壊したこと。

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■戦争で荒廃した郷里とは「桁外れの豊かさ」

新崎さんは、ある夕方、友人と時計店に行った時のことを次のように記憶している。時計店の入り口に近づくとガラスの扉が開いた。驚愕していると、傍にいた友人の一人が「中の誰かがボタンを押したのだろう」と言う。

「いや、音がすると開くんだよ」と別の友人は言う。

忍び足でドアの前に立つと、スーッと扉が開く。新崎さんたちに、店主は誇らしげに、「光の作用で開閉するのだ」ということを教えた(『エッセイズ ゴールデンゲイト』)。

沖縄からの留学生にとって、アメリカの生活は「桁外れの豊かさ」(1961年留学)であった。シャワー、水洗トイレ、飲料の自動販売機、電話やテレビ、25セントを入れると自動で洗濯ができる電動洗濯機。留学生の多くにとって初めて見るものばかりだった。

■豊かになった沖縄は「想像もつかなかった」

アメリカで見た豊かな生活を語る時、「米留組」は当時の貧しい沖縄の生活との比較で語った。例えば、ジョージア・ティーチャーズ・カレッジに入学した比嘉正範さん(1950年留学)は次のように振り返った。

山里絹子『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』(集英社新書)

「大学の寮でも、学生はフルコースの食事を3食たらふく食べ、毎日自由に風呂に入り、冬は暖房のきいた部屋で本を読み、夜は真っ白いシーツにくるまって寝る生活をしていた。車をもっている学生もかなりいて、どこまでもつづく舗装道路をドライブに連れて行ってもらった時などは、アメリカとは富める国であるとつくづく思った。あの時代には、沖縄の生活が今日のように豊かになろうとは想像もつかなかった」(同前)

ミルズ大学でのオリエンテーションが終わる頃には、留学生たちはアメリカでの生活に徐々に慣れていった。

1カ月前、沖縄戦の傷跡が残る沖縄島のホワイト・ビーチから出発した留学生。アメリカ軍払い下げのHBT生地の軍服は背広に変わり、沖縄から持ってきた柳行李はトランクに変わった。

オリエンテーション終了後、留学生はそれぞれの大学に向かった。

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山里 絹子(やまざと・きぬこ)
琉球大学国際地域創造学部准教授
1978年生まれ、沖縄県中城村出身。琉球大学法文学部卒業。2013年ハワイ大学マノア校大学院社会学部博士課程修了。名桜大学教養教育センター講師を経て現職。専門分野は、アメリカ研究、社会学、移民・ディアスポラ、戦後沖縄文化史、ライフストーリーなど。著書に『「米留組」と沖縄 米軍統治下のアメリカ留学』(集英社新書)。
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(琉球大学国際地域創造学部准教授 山里 絹子)