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敬意か、軽薄か

広告代理店のFoote, Cone & Belding(FC&B)社は、6000もの名称を6冊の本にまとめて、フォードに贈った。元陸軍大佐のリチャード・E・クラフブ(写真左)は、これをわずか10個に仕分けるよう言われ、驚いたという。

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候補の中には、サイテーション、コルセア、ペイサー、レンジャーと、後に車名として使われるものも含まれていた。これらは、アーネスト・ブリーチが委員長を務める委員会に提出されたが、どれもお気に召さなかった。


リチャード・E・クラフブとエドセルのロゴマーク

信じられないことに、ドロフ(Dorf、フォードの逆さ表記)、ベンソン(フォード家のファーストネーム)、エドセルといった名前も候補に挙げられている。フォード本人はもちろん、その息子も反対したようだ。しかし、CEOであるヘンリー・フォード2世は説得に応じ、1956年11月8日にエドセルに正式決定。ロゴマークもすぐに描き上げた(写真右)。

爆弾を抱えた製品計画

フォードの2シーター、サンダーバード(写真)の販売不振は、エドセルに大きな影響を与えることになった。計画では、サンダーバードを4シーターのハードトップにして、ボディオンフレーム構造からモノコック(ユニボディ)構造にする手筈だったが、この開発で他社に遅れをとってしまう。

サンダーバードだけをモノコックで作るのは無理なので、58年型リンカーンもモノコックに変更された。その結果、マーキュリーはエドセルの上位モデルである「スーパーマーキュリー」のボディオンフレームを作ることができなくなった。マーキュリーとスーパーマーキュリーは同じ基本構造を持つことになった。


フォード・サンダーバード

プレス発表会

3日間にわたるエドセルのメディア向け発表会には、250人のジャーナリストと、珍しくその妻たちも参加した。デザインセンター内に作られたナイトクラブでは、スタント走行や試乗会が行われ、71人の記者に地元ディーラーまでの送迎がプレゼントされた。

送迎の途中、オイルパンが外れてエンジンが止まったり、ブレーキが利かなくなったりして、ドライバーをハラハラさせたという。


エドセルのプレス発表会

マクナマラの刃

先述したように、ウィズ・キッドとして最も有名なのはロバート・マクナマラ(1916〜2009年)で、1956年までに急速な出世を遂げていた。大望を抱いていたが、彼の厳格な統計分析では、ギミックやパフォーマンスに興奮する消費者の「気まぐれ」を説明できないことがしばしばあった。販売、利益、制御がマクナマラの原動力であり、その論理的観点から、中価格帯のクルマは大きく売れなければ意味がないと考えていたのである。

驚くべきことに、マクナマラはエドセルの失敗を待たずして、フォードでの社内発表会のまさにその夜、広告代理店FC&Bのフェアファックス・コーン(1903〜77年)に、ブランド廃止計画を口にしていたのである。


ロバート・マクナマラ

Eデイ - 1957年9月4日

この日、大規模なマーケティング・キャンペーン(写真)に促され、285万人という驚異的な数の米国人がエドセルのディーラーに足を運んだ。広告で謳われていた車輪の革命は実現しなかったものの、多くの見どころがあった。


エドセルのマーケティング広告

イノベーション

ステアリングホイールに取り付けられたテレタッチ・トランスミッションボタン、あらかじめ設定された速度を超えると赤く光る回転ドラム式スピードメーター、あまり目立たないが自動調整式ブレーキ、暖機運転を助ける3段式エンジン冷却システムなどが目新しい機能だった。

こうした機能の数々は、時代をはるかに先取りするものだった(一部の機能は使用中に問題を起こすなど不十分な点もあった)。しかし、エドセルは、1955年にフランスで誕生したシトロエンDSのように、20年の歳月を一気に突き抜けるようなクルマではなかった。


エドセル・サイテーションの運転席

同族経営

この写真では、ヘンリー・フォード2世(運転席)が、弟のベンソン・フォード(中央)とウィリアム・’ビル’・クレイ・フォードと一緒に写っているのがわかる。ビル・フォードは、1956年にフォードが株式市場に上場した際、当初予定していた25%ではなく、40%の議決権付き株式を一族が保有することに成功した。

これにより、現在も続く同族経営が確実なものとなった。


左から、ウィリアム・クレイ・フォード、ベンソン・フォード、ヘンリー・フォード2世

幅広い車種展開

フォードの工場が十分な数のエドセルを生産できていたならば(生産には深刻な問題があった)、数百万人の米国人が、2種類の基本サイズからセダン、ハードトップ、コンバーチブル、ステーションワゴンの4つのモデルファミリーに分かれた計18種類ものエドセルを見られたことだろう。

皮肉なことに、これらのモデルには、エドセル部門の名称として以前提案されていたサイテーション、コルセア、ペイサー、レンジャーという名称が与えられた。これが、フォードが2億5000万ドルの資金を投じ、6つの専用工場を建設した代価である。


エドセルのラインナップ。2つのボディサイズをベースに、4つのボディスタイルを展開。計18車種が生まれた。

販売

初日には6500台以上、その後10日間で4095台が販売された。しかし、その後売れ行きは低迷する。テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」では、ビング・クロスビーとフランク・シナトラを起用した高価なプロモーションを行ったが、勢いを取り戻すには至らなかった。

最も深刻なのは、戦後長く続いた米国の好景気が一段落し、中価格帯セグメントがこの2年間で40%も縮小してしまったことだ。10月には、年間販売台数が目標の半分の10万台にまで落ち込んでいた。


フォードの工場

市場の変化

市場の変化は、マクナマラにとってエドセルを潰す正当な理由となる。景気は落ち着きを見せ、消費者はより小さく、より経済的なモデルを求め始めたのだ。また、多くの人が一家に1台のセカンドカーを望み、V8エンジンの大排気量車を必要としなくなった。エドセルは最も長いもので5560mm、小さいものでも5415mmと、「コンパクト」とは言い難いサイズだった。

実は当時、フォード・ファルコンと並行してエドセルBというモデルも開発されていた。比較的低価格のコンパクトセダンであり、こちらの方が市場ニーズに近かった。


コメット(独立車種)

エドセルBは、エドセルの廃止によってリンカーン・マーキュリー部門に移管され、当初はコメット(写真)としてノーブランドで販売された。テールライトやダッシュボードのデザインにエドセルの面影を見ることができる。初年度の販売台数11万6331台は、皮肉にもエドセルの3年間の合計を上回る。

59年型

1956年末、リフレッシュにより1959年型の開発が開始。当初は、初代向けに考案された人間工学に基づく革新的なコックピットなど、意欲的なリニューアルが計画されていた。しかし、そこには別の力が働いていた。

エドセルへの逆風が強まる中、1957年9月にマクナマラが商品企画責任者に就任。1959年型は縮小され、1959年初頭にはエドセルはマーキュリー・エドセル・リンカーン部門(M-E-L)に組み込まれた。数千人のホワイトカラーの従業員は解雇され、ビッグボディ仕様も削除された。


1959年型エドセル・レンジャー

ディーラーの絶望

販売不振にもかかわらず、エドセル専売店のネットワークは拡大を続け、1959年2月のピーク時には1568店にまで達した。中には、契約と同時にブランド消滅の噂を聞きつけたディーラーもいたという。

M-E-Lのゼネラル・マネージャーであったジェームス・ナンス(1900〜1984年、写真)は、彼らの苦境に非常に同情的であった。彼らの多くは泣きながらオフィスにやってきて、多くはマーキュリーのフランチャイズを引き受けた。


ジェームス・ナンス(1900〜1984年)

ナンスはエドセルを存続させようとしたが、マクナマラの策略で1958年8月に解雇された。数百のディーラーが多大な投資をしていたにもかかわらず、エドセルの勢いは急速に衰え、フォードのコミットメントも失われていった。

淘汰

1960年型では、ラインナップはほとんど意味を為さないまでに縮小された。残ったのはレンジャー(セダン、ハードトップ、コンバーチブル、写真のワゴン)のみで、デザインもフォードを強く意識したものとなっている。縦型グリルはなくなり、ポンティアックに似た分割式フロントグリルに変更。フロントグリルよりも縦型のツインテールが印象的なクルマであっら。

1960年型エドセルは1959年10月15日に発表された。この型は11月19日に2846台目が出荷され、これを最後に生産終了。合計11万810台で、その短い歴史に終止符を打った。


エドセル・レンジャー・ビレッジャー

失敗の余波

フォードの2億5千万ドルの投資のうち、約1億ドルが失われ、残りは工場に費やされたが、これが意外なところで活かされることになる。1959年に発売されたコンパクトなファルコンはそこそこヒットしたが、1964年4月に登場する2ドアのマスタングに比べたら大したことはない。

フォードは、マスタングの初年度の販売台数を10万台と低く見積もっていたが、意図的に売れやすい価格設定にした。ヘンリー・フォード2世が誇らしげにマスタングを発表した日(写真)には、当日だけで2万2千台の注文を受けた。


ヘンリー・フォード2世と初代マスタング

初代マスタングは発売初年度に41万7000台を販売し、当時としては史上最速の売上記録となった。これは、数年前にエドセルのためにミシガン州とカリフォルニア州サンノゼに増設した工場の能力があったからこそ実現できたことだ。

なぜ失敗したのか?

その名称、論争の的となったグリル、過大な期待、品質の低さ、そして不景気による市場縮小などがエドセルの失敗の原因だろう。しかし、1950年に1億5100万人だった人口が1970年には2億300万人となり、団塊世代が急増したことで、米国の豊かさと自動車への渇望は広い意味で高まり、市場は回復していたはずである。

さらに、エドセルをマーキュリーの領域に位置づけ、独占的な販売網を構築し、既存顧客の層を奪ってしまったことが大きな誤りであった。フォード・ブランドが高級車を導入したことも足かせとなった。しかし、何よりも最悪なのは、数字はわかってもクルマを買う心理がわかっていないような人物が率いる、懐疑的な経営陣が長期的なコミットメントを欠いていたことである。


1959年型エドセル・レンジャー・ビレッジャー

人々のその後

ヘンリー・フォード2世は1979年までフォードの経営に携わり、1987年に70歳で亡くなるまで、同社の支配的な立場にあった。

ロバート・マクナマラは、一時フォードの社長になったが、その後ジョン・F・ケネディ大統領、リンドン・B・ジョンソン政権下で国防長官に抜擢された。その中で彼は、もっと飛散な結果を伴う、不運な方向へと巻き込まれていく。ベトナム戦争である。その後、世界銀行の総裁となったが、ここでもエドセル時代の批判に耐えなければならなかった。2009年、93歳で死去。


エドセルのオーナーコミュニティ

デザイナーのロイ・ブラウンは、最後までエドセルを守り抜こうとしたが、この失敗をきっかけにヨーロッパ・フォードに移り、コルティナで大成功を収めた。1958年製のグレーと白のエドセル・ペイサーを最期まで乗り続け、見知らぬ人から買いたいと言われることもあったそうだ。そんなときは、「1958年、君はいったいどこにいたんだい?」と返したという。2013年、95歳でこの世を去った。

エドセルの現在

エドセルは、その苦難の歴史にもかかわらず、いや、むしろそれゆえに、今日に至るまで愛着と関心を集め続けている。ブランド廃止から数十年後に生まれた「クルマに乗らない」人々でさえ、その物語の一部を聞いたことがあるのだ。オーナーズクラブは盛んで、Edsel.comという非公式サイトもできた。驚くほど多くのクルマが現存し、オーナーたちが集まって楽しむ素晴らしいコミュニティもある。

現存するエドセルは何台ある?

Edsel.comの登録データでは、1958年型1144台、1959年型1191台、1960年型563台、合計3000台近くが現存するとされているが、実際の数はもっと多いかもしれない。当然ながら、現存する個体のほとんどは米国とカナダにある。走行可能なものは5000ドル(約65万円)から、状態の良いコンバーチブルは10万ドル(約1280万円)以上で取引されることがある。


エドセル・レンジャー・コンバーチブル

オークション記録は、予想通り最も希少な車種の1つである1960年式レンジャー・コンバーチブルである。現存するのは10台のみとされ、そのうちの1台が2007年に18万4000ドル(約2350万円)で落札されたが、その後、価格は概してやや落ち着いている。