料理嫌いな母のもとに育ち、飢えた幼少期を過ごした女性。『突撃!隣の晩ごはん』を見て、涙を流したこともあったそうです(イラスト:オオノマサフミ)

「食い物の恨みは恐ろしい」という言葉がある。「食べ物は人間にとって必要不可欠なものであるから、恨みを持たれるようなことはしないに限る」という意味だが、恨みが生まれるのは、何も「取った/取られた」場合に限らない。

そんな『食べ物の恨み』にまつわる体験談を聞きながら、普段、改まって話し合うことのない『食事』や『料理』について、基本楽しく、ときに真面目に考え直す、インタビュー連載第4回。

今回話を聞かせてくれたのは佐藤真理子さん(仮名・43歳)。ネット関係の企業でマネジャーを務めている女性で、話しぶりにも知的な雰囲気がにじみ出ている。

しかし詳しく聞いていくと、「料理をしない母親のもとに育った結果、冷凍食品やレトルト食品を食べすぎて、逆に強い抵抗感を持つようになる」という、一風変わった過去を持っている。

20余年に及ぶ”食い物の恨み”が、解消されるまでの経緯を話してもらった。

極端に料理嫌いな母、飢えた幼少期

現在は神奈川県に居を構え、共働きの夫、ふたりの娘たちと暮らしている真理子さんだが、高校まで過ごしたのは九州の某県だ。


画像をクリックすると本連載の過去記事にジャンプします

両親は共働きで、子煩悩。とくに母との関係性は、現在に至るまで良好とのことだが、料理する能力に関しては徹底的に欠けていたという。

「自分で言うのもあれですけど、私は母から溺愛されていたと思います。実際、母はいつも私たち子どもと遊んでいるような人で……でもその一方で、とにかく料理をしない人でもありました。

昔から家族で食卓を囲む習慣がなくて、当時何を食べていたのか、ほとんど思い出せません。最初は『そんなものなのかな』と思っていましたが、小学校低学年になる頃には『どうやらうちは変らしいぞ』と感じていましたね」

違和感が確信に変わるのに、そう時間はかからなかった。きっかけは、父方の祖母が亡くなり、祖父と同居するようになったことだった。

「祖父は料理をしない人だったので、一緒に住むことで面倒を見てもらおうという気持ちがあったんだと思います。でも、しばらくして母が料理しないことが明るみに出て、『じゃあ、何のために同居したんだ!?』ってものすごく揉めたんです。

でも、共働きのわが家では、母も母で忙しく働いていたので、『なんで私ばっかり料理しろって言われなきゃならないの……』という思いもあったと思います」

この一件で家庭内はややギクシャクしたが、それでも食事が自動的に出てくるわけではない。その頃には真理子さんも、自分の家が周囲と少し違うことを自覚しており、テレビ番組に対してこんな感想を抱くこともあったという。

「『突撃!隣の晩ごはん』ってあったじゃないですか。あれを見ると『あの家もこの家も、ごはんが何品も並んでいる。我が家は、家とか家具もお洒落で一見素敵な家庭なのに、なんで肝心のごはんがないんだろう……』って思ってひとりむなしくなっていましたね」

ヨネスケを見て笑うでなく、切なくなる。そんな小学生が、世の中には存在するのだ。

実家は田舎で、近くには飲食店もなかった。当然だが、デリバリーも存在しない。給食で栄養を補給していたため、栄養不足だったわけではないが、それでも「なにかが欠乏している感覚がありました」と真理子さんが振り返る言葉はなかなか切実である。

次第に少女は「料理」に傾倒

「お母さん、ごはんは?」

「食べた」

「何食べたの」

「いや、適当に」

「……」

「あ、冷凍食品、冷蔵庫にあるから好きに食べてね」

「……」

そんな会話がごく自然に繰り広げられていた真理子さんの家だったが、やがて変化が訪れる。小学校5年生頃から、真理子さんと2歳年上の姉が、交互に食事を作るようになったのだ。

「家には調理器具や調味料もなく、揃えるところからスタートでした。サラダ油はギリギリあるけどみりんや料理酒はないとか、ざるや鍋はないとか、本当にそういう感じなんですよ。

教えてくれる人も身近にいないので、父に車を出してもらって街の本屋さんでレシピ本を買って。見よう見まねで、ハンバーグとか、比較的簡単なものから作っていましたね」

本連載2回目――「中学から料理担当」女性が病床の母にかけた言葉――では、中学生の時から家庭内の料理を一手に引き受けていた女性のエピソードを紹介した。

この女性の場合、母親が「友人に料理を振る舞うのは好きだが、家族に振る舞うのは好きではない」タイプだったゆえに料理上手になった形だが、少しタイプは違えど、親を頼れなかったという点では真理子さんも共通していると言えるだろう。

だが、真理子さんの場合は、他にもややこしい事情があった。幼少期から冷凍食品やレトルト食品をたくさん食べてきたせいか、それらが極端に苦手になってしまったのだ。

「べつに栄養が、とか、体に悪い、とか思っているわけじゃないんです。ただあまりにもたくさん食べてきたせいで食べ飽きてしまって、どうしてもできあいのものを体が受けつけないんです」

その後、地元の高校を卒業し、真理子さんは関東の大学に進学。一人暮らしを開始すると以前にも増して料理に傾倒していくことになる。

「当時はとにかく『料理を覚えないと!』という気持ちが強い時期でした。大学の近くに住んでいたこともあり、友達がやたらと来て、いつも手料理を振る舞っていましたね。かつて自分が飢えてたからこそ、飢えてる人を見ると『なんとかしなきゃ』って思っちゃうんですよ(笑)。

評判が良かったのは酢豚とか、茶碗蒸しとか、スパイスカレーとか……。おかげで普通の大学生のはずなのに、やけにエンゲル係数が高かった」

こうして、「やたら料理してる謎の存在」として狭い範囲で有名になった真理子さん。

よく食事を振る舞っていた男友達の実家に遊びに行った時、その母親から「いつもありがとうね」と改まった態度で言われ、「彼氏じゃないんです」「え、そうなの!?」という会話をしたこともあったというから、いかに熱心に自炊していたかがわかる。

「料理をしない家に育ったせいか、『料理を作れる人が偉い、最高だ』という価値観があるんです。今振り返ると少し極端だったかもしれないと思うけど、当時はただただ必死で、料理をすることで自己肯定感を上げている面すらありましたね」

考え方が変わった「2つの誤算」

精神的に飢えた幼少期を経験したことで、自炊に強いこだわりを持つようになった真理子さん。やや極端と思えなくもない考え方だが、大人になるなかでそれも変わっていったよう。

きっかけとなったのは、大きく分けて2つ。1つめは、「育児しながらの共働き生活の忙しさ」だ。

「子どもを育てながら働いていると、手作りだけじゃとてもじゃないけど、日々の生活が回らないことが身に染みてわかってきたんです。だから、まず茹でるだけの枝豆のように、原材料に近い冷凍食品から試していって、少しずつ受け入れられるようになりました。

そもそも加工食品が苦手なのは私だけで、夫や子どもたちは喜んで食べるんですよね。お弁当に冷凍ハンバーグとか入れると普通に喜ぶんですよ。そういうのを見るうちに『自分さえ食べなければ、それでいいか』と思えるようになりました」

次にもう1つの理由だが、こちらは嬉しい誤算だった。「夫も料理をするようになった」というのだ。

「私は自分のために料理を覚えたので、人に『作ってほしい』と言われるのには『なんか違うな』と思うタイプなんです。だから、結婚後はあえて料理をしないこともあって。夫が料理するのを待つというか(笑)。そうしたら、夫も少しずつ作るようになったんです」

やや珍しい幼少期を経たことで、真理子さんが「料理を作れる人が偉い、最高だ」という価値観を持つようになったのは前述したとおりだ。

それゆえ、夫が料理をすると心の底から褒めることができ、夫もそれが嬉しく、ますます料理するようになる……という好循環もあったという。

「結果、今では料理の分担は夫婦で半々ぐらい……いや、夫のほうが多いくらいかもしれません。カップラーメンしか作らなかった食に無頓着な夫が、いまや油淋鶏とかホワイトソースからのグラタンとか作るので超尊敬してます。

30年近く『料理ができないとダメだ』と常に思ってました。でも今は、料理しない自分も認められるようになったというか。今になってやっと食べ物の恨みが薄れてきた感じです。時間はめちゃくちゃかかりましたけどね」

喜劇王・チャップリンの有名な名言に「人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である」というものがある。

学生時代の真理子さんはただただ必死だっただろうし、「料理しない自分」も許せるようになった今だからこそ明るく話せる話なのも間違いないが、まさにチャップリンの言葉のようなエピソードだと感じずにはいられない筆者であった。

本連載「忘れえぬ『食い物の恨み』の話」では、食べ物にまつわる、「近くから見ると悲劇、 遠くから見れば喜劇」な体験談をお待ちしております。ご応募はこちらのフォームからお願いします。

(岡本 拓 : 編集者・ライター)