「全部あなたのせい!」二股がバレて全てを失った女
「彼以外を、好きになってはいけない」
そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。
人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。
これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。
◆これまでのあらすじ
守にふられてしまった美津は、大介の待つ部屋に戻った。「守を失った以上、大介のことは絶対に手放さない」そう決めた美津だったが、大介は美津に対して、今まで見たことのなかった冷たい態度をとるのだった。
「お前いい加減にしろよ」
大介の乱暴な言葉に、美津は思わず声を震わせた。
「大ちゃん…ごめん。そんなに怒らないで」
怯えながら言うと、大介は顔を上げ、眉をハの字にしてみせる。
「大きな声出して悪かった。でもね、美津…」
いつも通りの穏やかな口調に戻って、子どもを諭すかのように言う。
「さっき僕を置いて、慌てて守くんのところに行ったでしょう?あの時、なんかもういいやって思ったんだよ」
喉から搾り出すような声だった。
「美津にはもう、僕なんて必要ないんだって、よくわかったんだ。いいよ。もう守くんのところに行きな」
美津はうつむく。先ほど山下公園で、守から「二度と関わりたくない」と言われたばかりなのだ。
つまり、もう大介しかいない。
孤独になるのを避けたい一心で、美津は大介に懇願した。
「あなたを置いていくつもりはなかったのよ。わかって。いつだって私は、大ちゃんが大好きよ」
大介はしばらく黙り込んだ。それから頭を抱えて、苦しそうに言った。
「ああ、美津。もう嘘をつくのはやめてくれないかな。…これ以上、美津のことを嫌いになりたくないんだよ」
顔を上げた大介は、電源のついていない真っ黒なテレビ画面をじっと見ている。しばらくしてから、つぶやくように言った。
「僕ね、前から気づいてたよ」
「え?」
「何年もひとつ屋根の下で一緒に暮らしてきたんだ。ちょっとした変化には、すぐ気づくよ」
「そうなの…?」
「気づいていた」大介の言葉に、美津は顔面蒼白に
「どう考えても、最近の美津はなんだか浮かれてた。正直、疑ったよ。浮気されているのかなって。でも同時にずっと自分に言い聞かせてたんだ。美津はそんな人間じゃないって」
「大ちゃん…」
「でも結局、美津はそういう人間だったってことだね。本当に、本当に好きだったのになあ…」
「好きだった」。もう過去形になっている。美津の心はキリキリと痛んだ。
「悪いけどさ、もう一緒にはいられないよ。美津、今までありがとう」
「大ちゃん…」
「…なんか僕、飲みすぎたみたいだ。もう部屋に戻るね」
そう言うと大介は突然立ち上がり、美津を追い越して廊下へと進んだ。
「待って、大ちゃん」
「ん?」
呼びかけに応じて振り返った大介は、困り切った表情を浮かべている。
本当は、もう一度引き止めたくて名前を呼んだのだ。でも大介の表情を見て、もう修復する余地はどこにもないと、完全に理解した。
「…わかったわ。今までありがとう。それから、本当にごめんなさい」
大介は瞬きを何度もしながら、口を一文字に結んだままで美津を見た。それから頭を軽く下げ、早足で部屋に戻っていった。
できる限りの荷物を大型のスーツケースに入れる。
部屋を出た美津は、とりあえずセルリアンタワーに泊まることにした。
上層階の部屋に入ると、電気もつけずに大きな窓の前で立ち尽くす。国道を走る車のテールランプが、東京タワーに向かってまっすぐに流れていて、綺麗だった。
「私、何してるんだろう…」
最高の結婚をしたい、チヤホヤされたい、刺激が欲しい。そんな欲のままに生きた結果、すべての愛を失ったのだ。
― 今の私は、空っぽだわ。
寂しさが身体の底からこみあげて、胸が苦しい。
気を紛らわせようとバスルームに移動し、熱いシャワーを浴びてバスローブを羽織る。鏡に映る自分は、ひどく不幸な顔をしていた。
「あーあ、なんでこんなことになったんだろう」
乾いた肌にローションをつけながら、美津は記憶をたどる。
そして、あることを思い出したのだった。
「…そうだわ」
記憶をたどった美津が思い出したこととは
「そうだ。もしあの日篤志さんが声をかけてこなかったら、こんな不幸にはならなかったはずだわ」
バーのカウンターで突然篤志に口説かれた、あの夜。あの夜が、すべての始まりであるように思えたのだ。
― あの時、篤志さんが既婚者だって知っていたら、誘いには乗らなかったのに!
既婚者だと明かさずに言い寄ってきた篤志が、悪の根源だ。そう思った美津は、バスローブ姿でベッドに戻り、スマホを手に取る。
「おお、どうした?」
篤志が明るい声で電話に出た。
美津は、シンプルに会いたいとだけ伝え、翌日に食事をする約束をして電話を切った。
翌日の夜。
日本橋のイタリアンで篤志と待ち合わせ、食事を楽しむ。メインのタリアータを食べ終わる頃、美津は話を切り出した。
「…私、実は彼氏と別れたのよ。つい昨日ね」
「そうなんだ」
篤志は特に驚きもせず、なんでもないことのように返事をした。
「じゃあ昨日は、寂しくなって電話してくれたの?俺に会いたくなって?」
ニヤリとしながら満足げに言い、篤志は美津の方に身を乗り出した。
「いやね。違うわよ」
美津は、キッパリと言った。
「今日は、どうしても言いたいことがあったの。篤志さんは、自分が既婚者だって言わずに私と旅行まで行ったわ。どういうつもりだったの?」
「え?」
「奥様がいるって最初から言ってくれたらよかったのよ。言ってくれたら、私は篤志さんと親しくならなかった」
篤志は途端に面倒そうな表情になる。構わず美津は、早口でまくし立てた。
「篤志さんは、いい身分よね。既婚者なのに自由に伸び伸び楽しんでて。最近も、いろんな女性と会っているんでしょう?」
「…まあ、楽しんでるよ」
「それはいいわね」
赤ワインを一口飲んでから、美津は「でもね」と言った。
「そういうのって、迷惑よ。篤志さんのせいで、私の人生は狂ったわ。どうしてくれるの?おかげで孤独になったのよ」
訴える美津の言葉に、篤志は肩をすくめてみせた。
「俺のせいなのかな?」
シンプルにそれだけを言うと、篤志は片手を挙げて店員を呼んだ。
「すみません。タクシーをお願いできますか?それと、彼女のコートを」
そして財布から3万円を取り出し、追い出すように美津に握らせたのだ。
「もう帰りな。俺は楽しい時間を過ごしたかったのに。困るよ」
あきれたように笑う篤志。相変わらずなんでもない様子の彼に、深くうなだれるしかなかった。
店員がタクシーの到着を告げ、美津は立ち上がる。篤志はろくに目も合わせずに「おやすみ」とだけ言った。
とぼとぼと店の出口まで歩き、最後に振り返って篤志を見た。
しかし彼は、店員と何かを話していて美津の方には見向きもしていない。
孤独にまみれながら、タクシーに乗り込んだ。
「私、なにしてるんだろう…」
この冬、自分のほしいままに甘い果実に手を伸ばし続けてしまった。
結果みんな去っていって、独りになってしまったのだ。
「私、いったいどうしたらいいんだろう」
最後に口にした甘美な赤ワインは今、その渋みだけを美津の舌の上に残していた。
呆然とする美津を乗せ、タクシーが走り出す。
冷たい夜の中で、たった一人。
誰も救えないほどの深い深い奈落の底に、真っ逆さまに落ちていくみたいに。
Fin.
▶前回:温厚な婚約者が豹変。乱暴に「お前」呼ばわりされた女が、恐怖の中で気づいたこととは