団塊ジュニア世代が今後10数年後を見据えてみると?(写真:desidesidesi/PIXTA)

定年延長が求められているとはいえ、現時点で60歳を定年とする企業は、全体の91.1%になる。1973(昭和48)年生まれ前後の団塊ジュニア世代は、あと10年ちょっとで定年を迎え始める。定年後、運よく再雇用されたとしても給与は4〜6割減だ。再雇用の条件は非正規であることがほとんどで、当然、ボーナスはない。非正規なので、ある日突然、雇い止めということもあろう。

東日本大震災から10年が過ぎた。あれからもう10年である。中年の時間は、過ぎるのがとても早いことを、あらためて感じるのではないか。そして、あとわずか10年後には、団塊ジュニア世代に、恐ろしい現実がやってくる。役職定年まで考えれば、本当は、残されている時間は10年もない。

貯蓄を増やして、将来に備えたい。しかし、家計における出費が多くなるのは50代である。それにも関わらず、50代で年収が増えるのは、キャリア競争に勝利した役員クラスだけの特例だ。大多数の50代は、よくて現状維持、その多くは給与が下がることになろう。

50代以降になると、家族や自分自身の介護という話も現実味を帯びてくる。以前、国が、定年後には2000万円の貯蓄が必要と主張し、話題になった。しかし国によるこの計算には、そもそも介護の費用などが計上されていない。話題になったのは、それでは足りないからである。世間的には、老後を安心に過ごすには6000万円程度が必要とされることが多い。

しかし金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査(2020年)」によれば、60代の金融資産の中央値は、単身世帯で300万円、二人以上世帯で875万円である。平均を押し上げているのは富裕層であり、一般的には、金融資産は全く足りていない。そしてマクロに考えたとき、団塊ジュニア世代の貯蓄が、今後、大きく増える要素はない。

成り行きではひどい未来になる

産業レベルでは、例えばテレビや雑誌は、ネットに駆逐されていく。コンパクトデジカメは、スマホに駆逐されていく。職業レベルでも、例えば通訳や翻訳業は自動翻訳機に、プロのドライバーは自動運転に、銀行業務は人工知能に置き換えられていく。

こうした背景を受けて、成り行きでは、多くの人の未来がひどいことになるのは、わかっている。それにも関わらず、私たちの多くは、自らの行動を変えようとはしない。マキャベリはかつて「新しい秩序の導入は難しい。それによって利益を失う者が必死で抵抗し、利益を得るものも消極的だから」と述べた。

私たちの多くは、いかにそれが非効率であったとしても、現状を必死で守ろうとする「新しい秩序に抵抗する勢力」になってはいまいか。しかしそれでは、個人レベルでの収入は増えるどころか、徐々に減っていくのである。競争環境において、生産性を向上させるためではなく、現状を維持することに努力を費やしているのだから、当然だ。事実、失われた30年を通して、日本人の年収は減り続けてきた。

団塊ジュニア世代の定年後は、そうした抵抗の結末として出現する。長年必死で守ってきたビジネスモデルから追い出されれば、頼りになるのは年金だけだ。しかし日本の年金は、現役世代が高齢世代に仕送りをする方式(賦課方式)になっている。人口ボリュームの大きい団塊ジュニア世代が、年金の支え手から年金の受け手に回ると、それがどうなるか、容易に想像できる。

何度でも繰り返すが、特に団塊ジュニア世代は、これまでのあり方を見直す必要がある。具体的には生活レベルを落としつつ、副業などを通して収入を増やす必要がある。その上で、今の本業において変革を主導し、新しいビジネスモデルの構築に成功しない限り、貯蓄は増えない。しかし、そんなことが、個人レベルではともかく、マクロに可能だろうか。

成り行きで出現しようとする未来と戦う

拙著『リーダーシップ進化論』でも触れているが、いかなる物事も、成り行きで進んでしまう。そうして出現する未来が悲惨なものであっても、成り行きは維持されてしまう。リーダーとは、そうした成り⾏きで出現する未来と戦う存在であり、成り⾏きとは別の未来を実現しようとする人間だ。実際には、古い何かをやめて、新しい何かをはじめるのがリーダーである。

誰かに助けてもらえることを期待して倒れ込んでも、誰も助けてはくれない。みんな準備していないように見えても、準備していないのは自分だけだったりもする。特に団塊ジュニア世代は、今からでも、現状維持を離れて、なんらかの大胆な決断をしなければならないだろう。古い何かをやめて、新しい何かをはじめることだけが、悲惨を回避するための必要条件になる。

個人レベルでも、家族レベルでも、組織レベルでも、皆同じである。成り行きでは、多くのところで悲惨が見えている。これまでとは異なることにリソースを配分しなければ、悲惨な未来が現実になるだけだ。だから、個人レベルでも、家族レベルでも、組織レベルでも、求められているのはリーダーシップなのである。

歴史を紐解けば明らかな通り、こうした危機は、歴史上何度も繰り返されてきた。人類は、それをリーダーシップによって乗り越えようとしてきたが、成功事例は決して多くはない。ただ、足掻いた分だけ学びがあり、そうした学びが歴史として積み上がっている。教養を得るというよりは、生き残るノウハウを学ぶためにこそ、歴史に目を向けるべきだと思う。

私たちが直面しているのは、歴史的には、典型的な格差社会である。たとえば第1次世界大戦の直前、イギリスでは、上位10%の富裕層が国の私有財産の92%を所有していた。古代ローマでも、もっとも裕福な世帯の私財は、当時の人々の平均年収の150万倍もあった(これは、ビル・ゲイツの私財とアメリカ人の平均年収を比較したときの倍率とちょうど同じくらいである)。

人文科学者ウォルター・シャイデルは、歴史において、このような著しい不平等を解消したのは、大量動員戦争、変革的革命、国家の破綻、致死的伝染病という4種の暴力的な破壊「だけ」であったことを明らかにした 。シャイデルによれば、税制改革や都市部での暴動程度では、過去の著しい不平等は解消されなかったのである。

本当に大変な状況になってからでは遅いけれど

人間というものは、どうしようもなく予防が苦手な存在である。歯が痛くならないと、歯医者にはいかない。病気にならないと、健康な生活を心がけることもない。失業しないと、新たなスキルを学ぼうともしない。ただ、それが人間らしい人間であるとするならば、それを嘆いても仕方がない。

「大変な未来になるから、備えておきましょう」という言論では、人は動かないのである。昨日と同じ今日を過ごし、今日と同じ明日を期待するのが、人間の限界なのだろう。そうした限界を押し上げるという努力も必要かもしれない。しかし、私にはそれが現実解になるような気がしない。

現実解としては、60歳以上の人材を含めて、多数の雇用を必要とする産業が興ることが、日本に暮らす多くの人々の未来を明るいものに変える。現時点で見えているのは、2025年度には約32万人、2040年度には約69万人が不足するとされている介護業界である。幸いなことに、介護は、人工知能に奪われない仕事のトップ5に入る。


貯蓄の足りない、団塊ジュニア世代の多くが、介護業界に職を得ていく未来は、はっきりと見える未来である。ただし、介護業界は、業界としては最低賃金かそれに近い業界である。より良い未来を実現するには、介護業界の(生産性向上や保険外収益の向上による)賃金の改善や、イメージの刷新が必要になるだろう。また、定年となる人材に対する介護技術の研修などは、国が主導する必要もありそうだ(介護は誰にでもできる仕事ではなく、スキルが求められる仕事なので)。

世界で最も高齢化している日本だからこそ、介護業界の生産性を徹底的に高め、もって輸出産業として育成していく必要がある。そのために、より多くの投資が、介護業界に投入されなければならない。それに失敗し、このような記事が「予言」として、団塊ジュニア世代が振り返る対象にならないことを祈るばかりである。