家族に気を遣い、手のかからない「いい子」を演じ続けてきてしまった女性。大人になってからあらわれたその代償とは(写真:筆者提供)

障がいや病気をもった子の兄弟姉妹、いわゆる「きょうだい児」の生きづらさが知られるようになってきました。

関西に住む、20代の遥花さん(仮名)もそんなひとりです。私は親にとって「ちょうどいい子ども」だったと、彼女は自らを振り返ります。

遥花さんが小学生の頃、姉が精神疾患を発症。数年後、その姉が亡くなるまで、よく親に代わって幼い妹のめんどうをみて過ごしてきました。当時は特別なことと思っていませんでしたが、社会人になってから、当時の経験の影響に気付いたといいます。

昨年秋、オンラインで、遥花さんに話を聞かせてもらいました。静けさのなか、時折するりと彼女の飼い猫が現れては姿を消します。そのしなやかな動きは、はるか昔に凍りついた時間を、そっと揺らすかのようでした。

一番は精神疾患の姉、二番が幼い妹、最後が私

遥花さんには、6つ上の姉と、6つ下の妹がいました。お父さんは勤めに出て、母親は専業主婦。両親の仲も、姉妹の仲も悪くなく、小さいときは「本当に、ごく一般的な家族」だったといいます。

姉の様子に異変が現れたのは、遥花さんが小学2年生の頃でした。最初はリストカットをするようになり、次第に足や首まで切るように。やがて摂食障害になり、何も食べない日が続いたかと思うと、一晩で家じゅうの食べものを食べ尽くして吐いてしまうことも。何が原因だったのかは、いまでもよくわかりません。

摂食障害は、だんだんと激しくなっていきました。就寝中にあらゆるものを食べてしまうため、母親が食品を隠すようになったところ、姉は冷蔵庫のマーガリンをひと箱食べてしまったり、「シャンプーやリンス、マニキュアとか」を飲んで、嘔吐したりするようになっていきます。

夜中に姉が手首を切って救急車を呼んだことも、何度かありました。

「両親がバタバタしてるな、と思ったら、姉の部屋に行っている。のぞきにいくと、すごいことになっていて。そのとき、2歳くらいだった妹がぐっすり寝ていたら『じゃあ、ちょっとよろしく』と言って、私と妹を置いて、両親とも救急車に乗り込んでしまう。妹がぐずったときは、妹だけは連れて行ってもらえるんですけれど、私は置いていかれて。

大変なのは見てわかるけど、何が起きているのかは、結局何も説明がない。なのに、そうやって中途半端に頼られている感じでした。

朝、学校に行く前には両親どちらかが帰ってくるんですが、私は小2か小3くらいだったので、自分で起きて朝ごはんを食べて準備をして、というのはできてしまっていた。『ちょうどいい年齢』だったから、置いていっても大丈夫だろう、という感じだったのかなと思います」

姉の入院中、両親とともに病院へ向かうこともありましたが、姉は妹たちが病室に入るのを好まなかったため、遥花さんと妹はいつも外で「ひたすら待っていた」といいます。

「片道2時間近くかけて電車で行っていましたが、病院のすぐ近くにちょっと大きめの公園があったので、親はそこに私と妹を置いていくんです。母が私に500円玉か千円札を握らせてくれるので、それからたぶん5時くらいまでの間、私は妹と待っていて。

最初は地元の小さい子とかけっこう遊んでいるので、妹も割りとニコニコしているんですけれど。冬になると早く暗くなるので、みんなすぐに帰っちゃうんです。そうすると、私と妹だけが公園に取り残される。妹も楽しくなくなってくるので、そのタイミングで近くのコンビニに行って、飲み物や肉まんを買ったりして、親が戻ってくるのを待っているんです。その、いつになるかわからない時間を待つのが、一番しんどかったですね」

両親にとって、自分が「ちょうどいい子」であることは、つねに感じていました。

「何をするにも優先順位が決まっていて。一番は精神疾患の姉、二番が幼い妹、そして最後が、ある程度のことができてしまう私だったんです。父はかなり私と妹に気を遣ってくれていたんですけれど、それでもやっぱり視線はどこか、未就学の妹にいっているな、みたいな感じはありました」

「初めてお友達の家にお泊まり」の日に起きたこと

遥花さんが小学4、5年生になると、姉の入院時は、妹と留守番をするようになりました。その頃には家事もある程度できるようになっていたため、両親が帰ってくるまでに、お米を研いで炊飯器のスイッチを入れておいたり、妹をいっしょにお風呂に入れておいたり、洗濯物を取り込んで畳んでおいたりしていたそう。

「そのこと自体は、私は全然しんどくなくて。大家族の大きいお姉ちゃん、お兄ちゃんが下の子のめんどうを見るように、自然な感じでした。『いまは父と母が大変そうだから、私ができる家事をやろう』みたいな。『置いていかれた』みたいな気持ちは、正直その当時はあまりなくて。私にとっては『そういうもの』だったんです」

姉が自らこの世を去ったのは、遥花さんが小学6年生のときでした。その日「人生で初めて友だちの家にお泊まり」だった遥花さんは、食事を終え、お風呂も出て「さあ、これから何をしよう?」とわくわくしていました。そこへ父親から電話がかかってきたのです。

「そのとき1回だけ、思ったんです。『こんな楽しいときに、またどうせ(姉が)腕を切ったか、何か変なものを食べて吐いたかしたんやろな、そんな日常茶飯事なことに私を呼ぶな』って。『私は友だちとお泊まりで、明日も遊ぼうって話してるのに、そんなしょうもないことで呼ぶなよ』って正直思っちゃって。そうしたら父が家から走ってきて、耳元で『お姉ちゃんが死んだ』みたいなことを言われて、大急ぎで帰ったんです。

家に着いたら廊下で祖母が泣き崩れていて、母は警察に事情を聞かれていて。姉の自室がある2階に上がろうとしたら、警察の方に止められて、リビングに行ったら真っ暗な部屋で、5歳の妹が一人で、うずくまっていて。妹が第一発見者だったんです。いたたまれずに抱きしめにいったら、何を見たか話してくれて」

それはドラマか映画のなかの出来事のようでした。遥花さんはその日のことを「ものすごく鮮明」に記憶しているのですが、「自分がそこにいた感覚はあまりない」といいます。

この日以来、遥花さんは妹さんと、姉が亡くなったときのことを話していないそうですが、でもなんとなく「お互いに共有しているものはある」とのこと。遥花さんも、妹さんも、それをひとりで抱えずに済んだことだけは、救いのように感じられます。

姉が亡くなってからも、自分は「ちょうどいい子」だったと遥花さんは振り返ります。親せきや両親の知人たちは、両親や幼い妹のことばかり心配し、遥花さんには「あなたが家族を支えるんだよ」と声をかけたのでした。

自分はほかの子とはちょっと違うようだ、と気付き始めたのは中学生の頃でした。友人らの悩みを聞いて「あれ? 私の悩みって人より重たくない?」と感じたのです。「お母さんがうっとうしい」「お父さんが気持ち悪い」などといった話をする子よりも、「DVで逃げてきた家族」の話をするような子のほうが話しやすかった、と当時を振り返ります。

「自分頑張ってるって、認めていいんやで」

空気を読むのが、変にうまくなってしまったらしい。そう気付いたのは、社会人になってからでした。あるとき、勘のいい上司が「誰かがピリついていると、あなたはすぐいなくなる。育った家が、すごくしんどかったんじゃない?」と指摘してきたのです。

「その上司には、あなたはなんでも『ハイ』って言うことをきくし、怒られても『わかりました』って受け止めて、感情が見えないとも言われました。周りの同期の子は、怒られたら嫌な顔をしたり、しょげたりするけれど、あなたにはそれがない。もっと感情を表現していいんだよって。私は全然そんなつもりはなかったんですけれど、そう言ってもらって初めて、空気を読む癖がついてしまっているのかなって気付いたんです。

子どものときを改めて思い返すと、両親の目はどうしても一番は姉だし、その次はやっぱり幼い妹だった。私はそれを『そうだよね、親もいまは大変だよね、仕方ない』みたいに甘んじて受け入れてしまっていて、『私のことも見てよ』みたいなアプローチはしてこなかったんです。そこからきているのかな、って」

賞与の査定のための自己評価についても、繰り返し指摘を受けました。遥花さんはほぼすべての項目を一番下の評価にし、自由記入欄にもいつも、ひとりだけ何も記入せずに提出していたので、心配した上司が「もうちょっと、自分をきちんと評価しなさい」ということを、何度も言ってくれたのです。

以来、遥花さんは少しずつ自分を認める努力をするようになりました。初めて自己評価を「1から2にあげた」ときは、上司が「そうやで。自分頑張ってるって、もうちょっと認めていいんやで」と言い、とても褒めてくれたといいます。

もうひとり、遥花さんに変わるきっかけをくれた人がいました。いま、一緒に暮らしている恋人です。

「今まであまり人と喧嘩とかしたことがなかったんです。相手の言いたいことだけ聞いて『わかった、じゃあそうするね』という感じだったんですけれど、彼は『いやいや、そうじゃなくて、どうしたいの?』と聞いてくれる。『むしろ自分の思いを言ってほしい』と言われて、『あ、言っていいんや』みたいな。そうやって、思ったことを言っても誰も離れていかない経験とか、喧嘩しても受け止めてもらえるんだ、みたいな経験をして、だんだんと思ったことを言えるようになってきました」

家族との関係は、いまも良いということです。母親とも父親とも、妹とも、一対一で出かけることもあれば、四人そろって出かけることもあるといいます。誰も姉の話題にはふれませんが、どこかに出かけてお土産を買ってきたときなどは、「お姉ちゃんにお供えしてあげてね」というのが、当たり前になっているそう。

遥花さんは亡くなった姉との思い出を、自分からは語りませんでした。あまり接点がなかったのか? でも、一度「姉のことはすごく好きだった」と口にしていたので、取材の終盤、姉との関係を改めて尋ねたところ、思ったよりずいぶん仲が良かったようです。

小さい頃からいっぱい遊んでもらい、たくさん話をしたこと。亡くなるしばらく前まで、ゲームセンターやカラオケによく連れて行ってもらったこと。まるで、姉が亡くなったことなど夢だったのではないかと思うほど、当たり前の口調で教えてくれたのでした。

遥花さんは、姉が亡くなった日の記憶について「自分がそこにいた感覚があまりない」と振り返ります。でも本当はそこに、どれだけの悲しみや苦しさがあったことか。その痛みは、遥花さんのなかの、どこか特別な場所にしまいこまれているのでしょうか。